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ファッション・ブランド インデックス
Agnes B. アニエス・ベー
AIGNER アイグナー
ANNA MOLINARI アンナ・モリナーリ
Anna Sui アナ・スイ
Anteprima アンテプリマ
Baccarat バカラ
BALENCIAGA バレンシアガ
Bally バリー
BOTTEGA VENETA ボッテガ・ヴェネタ
Boudicca ボウディカ
Burberry バーバリー
Bvlgari ブルガリ
Cacharel キャシャレル
Cartier カルティエ
CELINE セリーヌ
CHANEL シャネル
Chaumet ショーメ
Chloe クロエ
Christian DIOR クリスチャン・ディオール
Christian Lacroix クリスチャン ラクロア
Coach コーチ
Cynthia Rowley シンシア・ローリー
Donna Karan ダナ・キャラン
Dolce&Gabbana ドルチェ&ガッバーナ
Dsquared2 ディースクエアード
Ermenegildo Zegna エルメネジルド・ゼニア
Emilio Pucci エミリオ・プッチ
Escada エスカーダ
Etro エトロ
FENDI フェンディ
Gianfranco Ferre ジャン・フランコ・フェレ
Gianni Versace ジャンニ・ヴェルサーチ
Gieves & Hawkes ギーブス&ホークス
Giorgio Armani ジョルジオ・アルマーニ
Givenchy ジバンシィ
Goyard ゴヤール
Gucci グッチ
HAN AHN SOON ハンアンスン
H&M Hennes&Mauritz へネス&モーリッツ
HARRY WINSTON ハリー・ウィンストン
Heatherette へザレット
Helmut Lang ヘルムート・ラング
Hermes エルメス
HUGO BOSS ヒューゴ・ボス
Isabel Marant イザベル・マラン
ISSEY MIYAKE イッセイ・ミヤケ
Jean Paul Gaultier ジャン・ポール・ゴルチエ
Jil Sander ジル・サンダー
Katarzyna Szczotarska カタジーナ・シュゾタルスカ
Kate Spade ケイト・スペード
KENZO ケンゾー
LANCEL ランセル
LOEWE ロエベ
Louis Vuitton ルイ・ヴィトン
LULU GUINNESS ルル・ギネス
Marc Jacobs マーク・ジェイコブス
MARNI マルニ
Martin Margiela マルタン・マルジェラ
Mint Designs ミント・デザインズ
miumiu ミュウミュウ
MONTBLANC モンブラン
Neil Barrett ニール・バレット
Orla Kiely オーラカイリー
Paul Smith ポール・スミス
PAULE KA ポール・カ
PRADA プラダ
Pringle プリングル
Ralph Lauren ラルフ・ローレン
REBECCA TAYLOR レベッカ・テイラー
Rochas ロシャス
Salvatore Ferragamo サルヴァトーレ・フェラガモ
Samantha Thavasa サマンサ・タバサ
Stella McCartney ステラ・マッカートニー
Swarovski スワロフスキー
Tiffany ティファニー
Tsumori Chisato ツモリチサト
Van Cleef & Arpels ヴァン・クリーフ&アーペル
Valentino Garabani ヴァレンティノ・ガラヴァーニ
VERONIQUE BRANQUINHO ヴェロニク・ブランキーノ
Vivienne Westwood ヴィヴィアン・ウエストウッド
Yohji Yamamoto ヨウジ・ヤマモト
Yves Saint Laurent イヴ・サン ローラン
| インデックス
Y
Yohji Yamamoto ヨウジ・ヤマモト 山本耀司 Japan.
Yohji Yamamoto ヨウジ・ヤマモトの高額商品はこちら
歴史・解説
山本耀司は1943年東京生まれ、慶応義塾大学法学部卒業後、新宿歌舞伎町の母親の店「ふみ洋装店」を手伝いながら、66年、文化服装学院入学。在学中の69年に第25回装苑賞、第6回デザイン大賞遠藤賞を受賞。卒業後、吉野藤の嘱託として働き69年パリへ留学。72年「ワイズ」設立。76年、初の直営店を青山ベルコモンズの地下1階にオープン(ちなみに隣はギャルソンだった)。
77年、東京で初のショーを開催。81年パリ、82年ニューヨークでコレクションを開催。同年「ヨウジヤマモト」設立。82年FEC賞受賞。82年3月の82秋冬コレクションは初のルーヴル・テントでショーを開き、ギャルソンとともに「ボロルック」として一世を風靡する、以後、「カラス・ルック」と呼ばれる黒を主体とした独特の作品は、独自の世界を作り上げた。86年度毎日ファション大賞受賞。1992年、ダーバン(D'URBAN)とヨウジヤマモトのコラボレーションブランド、AAR(Against All Risks)がデビュー。
1999年には、香水「YOHJI HOMME」を発売。2002年、山本耀司と「臨床」という境界面に哲学的思考を切り込んできた鷲田清一のコラボレーション本「Talking to Myself」を刊行。ドローイング、デッサンほか図版も多数収録。
2003春夏プレタポルテコレクションを、あえて2002秋冬オートクチュールの直前に開催し、停滞するオートクチュールに新風を吹き込む。
2002年、無印良品の衣服雑貨の監修を担当。
2003年5月、東京都品川区の「原美術館」で「山本耀司−May I help you?」展開催。館内や庭に山本自身が監修した衣服のインスタレーションも展示。
2003年10月、アディダスとのコラボレートブランド「Y-3」を発表。アディダスは2001年秋冬から山本耀司とコラボレートした「アディダス・フォー・ヨウジ・ヤマモト」のコレクションを開始し、一部のショップでシューズなどを展開していたが、これをさらに発展させ、「アディダス・スポーツ・スタイル・ザ・フューチャー・イン・スポーツウエア」のクリエイティブディレクターに山本耀司を起用。よりファッション性の高いスポーツウェアを展開する。アディダスのトレードマークである3本線の位置やパターンを変えて、トレンドを表現した。日本では2003年秋冬からスタート。
2003年12月20日、Y's(ワイズ)の旗艦店となる六本木ヒルズ店、オープン。商品の陳列スペースは4つのターンテーブルになっており、それぞれが360度回転し続ける。
2004年4月、学問や芸能、スポーツ、技術開発などの分野で功績があった人に贈られる紫綬褒章受章。
2004年10月、2005春夏コレクションはオートクチュール期間中ではなく、パリ・プレタポルテコレクションで発表。
2005年1月13日、イタリア・トスカーナ州の「銀の旗」賞授与。フィレンツェで授賞式が行われ、「東洋の洗練された美と欧米の近代性を一つにした、非常に価値の高い作品をつくっている」というのが授賞理由。
2005年4月、パリのMusee de la Modeで山本耀司の回顧展「Juste des Vetements(単なる服)」が開かれる。耀司の製作過程を明らかにし、100以上の作品を展示。「私たちは、マテリアルから最終デザインまでそれらのステップをすべて示したかった」と耀司のスポークスマン、Nathalie Ours。「時間の経過を示すことができたならば、私は幸せに思います」と山本耀司。
2005年6月、フィレンツェのピッティ・ウォモで新メンズライン「Y」を発表。新ラインは耀司の創造性とユニークなカットを組み合わせたテーラードラインで、すべてイタリア製。日本の外で生まれる初のコレクションで、スーツ、ジャケット、パンツ、コート、シャツ・タイ、靴、ベルトを含むフルコレクション展開。スーツの価格は2006春夏で1300-1600ユーロ、秋冬が1600-2200ユーロとなる予定。価格はシグネチャーラインとY'sの中間に設定される。
2005年9月、これまでパリで披露していた「Y-3」ラインの発表の場をNYへ変更。
2005年10月フランス政府から、国家功労勲章受章。
2006年4月22日、アディダスジャパンは「Y-3(ワイスリー)」の旗艦店「Y-3 Tokyo」をオープン。
2007年春夏から、イタリアのバッグメーカー、Mandarina Duckとコラボレートし、トラベルバッグやアクセサリーの「Y’s Mandarina moniker」をミラノ、パリ、アントワープ、ニューヨーク、東京でデビュー。コレクションはMandarinaと山本耀司の共同デザイン。バッグは専門店、百貨店とY'sの直営店、マンダリナ・ダック店で発売される。
Yves Saint Laurent イヴ・サン ローラン France
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解説・歴史
イブ・サン ローランは1936年、アルジェリア、オラン生まれ。17歳で国際羊毛事務局(IWS)のデザインコンクールでカクテルドレスが最優秀賞を受賞。翌年、「ヴォーグ」誌の編集長だったド・ブリュノフの推薦により、ディオールのメゾンに迎えられる。1957年、ディオールの急死を受け、わずか21歳でディオールの後継者に任命され、継承後、初のコレクションである1958春に、「トラベーズ(台形)・ライン」を発表。「ヴォーグ」は「議論の余地のない完全な成功」と絶賛した。
しかし、その後発表したひざ丈のホッブルスカート(裾幅の極端に狭いスカート)や、「ビート・ルック」と称されたストリート感覚のスタイルはディオールのエレガンスにそぐわないとして、不評だった。一説には、彼の感覚が一般の客よりも先に進んでいたせいともいわれる。
その後、アルジェリア戦争に召集され、ディオールは代理の主任デザイナーに当時34歳だったマルク・ポワンを起用。ポワンは1回目のコレクションで「スリム・ライン」を発表し大好評を得た。イヴがパリに戻ったときにはディオールのデザイナーには、マルク・ポワンが採用され、彼は事実上解雇された。
1961年、イヴはPRマンだったピエール・ベルジュと組み独立して、メゾン「イブ・サンローラン」を開設。バレンシアガを意識したニューモードは好評を呼び、プレタポルテの「イブ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」の1号店をパリ左岸に開いた。1963年、サン・ローランは、近代ポスターのパイオニアであり第一人者であるカサンドラ(A.M. Cassandre)に自らのロゴのデザインを依頼。YとS、Lを華麗に組み合わせたロゴはこのとき生まれた。以後、ロゴを用いたデザインは「カサンドラ・ライン」と呼ばれることとなる。65年に発表した「モンドリアン・ルック」はサン・ローランの名を一層、高めることとなる。
ココ・シャネルは「サンローランこそ私の後継者」と発言し、60年代後半にはそれ以外にも、大腿部までのロングブーツやサファリ・ルック、シースルー・ドレス、ポップアート・ドレス、ミリタリー・ルック、パンタロン・スーツなどを発表。どれもファッション界に衝撃を与え、70年代にはコサック・ルックやフォークロア調の服が知られ、その頃からオートクチュールにも磨きがかかり、その巧みな色彩感覚とともに「モード界の帝王」と呼ばれる。1998年、フランスワールドカップを記念してブランドの歴史を振り返るような壮大なコレクションを開催。
だが、1999年、LVMHがグッチへの敵対的買収をかけた騒動の余波を受け、仏ピノー・プランタン・ルドゥット(PPR、流通業)のオーナーである仏実業家のフランソワ・ピノーは、同氏のホールディングであるアルテミスを通じて、仏サノフィ・ボテ(化粧品・香水、仏イヴ・サン・ローランを傘下に置く。仏石油エルフ・アキテーヌ傘下)を60億フランで買収し、同額でグッチに再売却すると発表。これにより、YSLはグッチグループに入り、デザイナーもアルベール・エルバスを経て、2000年、トム・フォードがYSLクチュール社のクリエイティブディレクターに就任。当初、オートクチュール部門はアルテミス傘下に残ったため、イヴ・サン・ローランと、イヴ・サン・ローラン・オート・クチュールの間には、資本関係はなくなったが、同じヴィジョンを以て経営に当たることになるとされ、サンローラン本人が担当することで、その「創造性を発揮できる」場所を確保した。グッチは、イヴ・サン・ローランのライセンスの大半を更新せず、経営体質の改善を図った。
トム・フォードによる初のYSLコレクションとなった2000年春夏のメンズコレクションで、彼は60年代後期のサンローラン絶頂期ともいえる、ウェストシェイプ、ハイショルダー、フレアージャケットのスタイルを打ち出し、大絶賛を受けた。2001年9月29日、日本国内でも新生イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュの旗艦店となる青山店がトム・フォードによるメンズ・ウィメンズのコレクションをそろえてオープン。そして、2002年1月22日に行われた、パリ オートクチュール・コレクションを最後に、イヴ・サンローランは引退。オートクチュール部門は閉鎖され、今後はリヴ・ゴーシュのみの展開となった。
2003年、ブランドステータスを引き上げるため、停止していたロゴを用いた「カサンドラ・ライン」を復活。YSLのロゴをバックポケットに刺繍したジーンズなどを展開。
2004年3月、トム・フォードとドメニコ・デ・ソーレの辞任に伴い、2005春夏からトムの右腕でプラダ出身のステファノ・ピラッティがクリエイティブ・ディレクターに就任。
2005年3月青山に次ぐ、旗艦店を丸の内にオープン。2006年2月エスキスの改装に伴い、表参道ヒルズに旗艦店をオープン。
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歴史・解説
山本耀司は1943年東京生まれ、慶応義塾大学法学部卒業後、新宿歌舞伎町の母親の店「ふみ洋装店」を手伝いながら、66年、文化服装学院入学。在学中の69年に第25回装苑賞、第6回デザイン大賞遠藤賞を受賞。卒業後、吉野藤の嘱託として働き69年パリへ留学。72年「ワイズ」設立。76年、初の直営店を青山ベルコモンズの地下1階にオープン(ちなみに隣はギャルソンだった)。
77年、東京で初のショーを開催。81年パリ、82年ニューヨークでコレクションを開催。同年「ヨウジヤマモト」設立。82年FEC賞受賞。82年3月の82秋冬コレクションは初のルーヴル・テントでショーを開き、ギャルソンとともに「ボロルック」として一世を風靡する、以後、「カラス・ルック」と呼ばれる黒を主体とした独特の作品は、独自の世界を作り上げた。86年度毎日ファション大賞受賞。1992年、ダーバン(D'URBAN)とヨウジヤマモトのコラボレーションブランド、AAR(Against All Risks)がデビュー。
1999年には、香水「YOHJI HOMME」を発売。2002年、山本耀司と「臨床」という境界面に哲学的思考を切り込んできた鷲田清一のコラボレーション本「Talking to Myself」を刊行。ドローイング、デッサンほか図版も多数収録。
2003春夏プレタポルテコレクションを、あえて2002秋冬オートクチュールの直前に開催し、停滞するオートクチュールに新風を吹き込む。
2002年、無印良品の衣服雑貨の監修を担当。
2003年5月、東京都品川区の「原美術館」で「山本耀司−May I help you?」展開催。館内や庭に山本自身が監修した衣服のインスタレーションも展示。
2003年10月、アディダスとのコラボレートブランド「Y-3」を発表。アディダスは2001年秋冬から山本耀司とコラボレートした「アディダス・フォー・ヨウジ・ヤマモト」のコレクションを開始し、一部のショップでシューズなどを展開していたが、これをさらに発展させ、「アディダス・スポーツ・スタイル・ザ・フューチャー・イン・スポーツウエア」のクリエイティブディレクターに山本耀司を起用。よりファッション性の高いスポーツウェアを展開する。アディダスのトレードマークである3本線の位置やパターンを変えて、トレンドを表現した。日本では2003年秋冬からスタート。
2003年12月20日、Y's(ワイズ)の旗艦店となる六本木ヒルズ店、オープン。商品の陳列スペースは4つのターンテーブルになっており、それぞれが360度回転し続ける。
2004年4月、学問や芸能、スポーツ、技術開発などの分野で功績があった人に贈られる紫綬褒章受章。
2004年10月、2005春夏コレクションはオートクチュール期間中ではなく、パリ・プレタポルテコレクションで発表。
2005年1月13日、イタリア・トスカーナ州の「銀の旗」賞授与。フィレンツェで授賞式が行われ、「東洋の洗練された美と欧米の近代性を一つにした、非常に価値の高い作品をつくっている」というのが授賞理由。
2005年4月、パリのMusee de la Modeで山本耀司の回顧展「Juste des Vetements(単なる服)」が開かれる。耀司の製作過程を明らかにし、100以上の作品を展示。「私たちは、マテリアルから最終デザインまでそれらのステップをすべて示したかった」と耀司のスポークスマン、Nathalie Ours。「時間の経過を示すことができたならば、私は幸せに思います」と山本耀司。
2005年6月、フィレンツェのピッティ・ウォモで新メンズライン「Y」を発表。新ラインは耀司の創造性とユニークなカットを組み合わせたテーラードラインで、すべてイタリア製。日本の外で生まれる初のコレクションで、スーツ、ジャケット、パンツ、コート、シャツ・タイ、靴、ベルトを含むフルコレクション展開。スーツの価格は2006春夏で1300-1600ユーロ、秋冬が1600-2200ユーロとなる予定。価格はシグネチャーラインとY'sの中間に設定される。
2005年9月、これまでパリで披露していた「Y-3」ラインの発表の場をNYへ変更。
2005年10月フランス政府から、国家功労勲章受章。
2006年4月22日、アディダスジャパンは「Y-3(ワイスリー)」の旗艦店「Y-3 Tokyo」をオープン。
2007年春夏から、イタリアのバッグメーカー、Mandarina Duckとコラボレートし、トラベルバッグやアクセサリーの「Y’s Mandarina moniker」をミラノ、パリ、アントワープ、ニューヨーク、東京でデビュー。コレクションはMandarinaと山本耀司の共同デザイン。バッグは専門店、百貨店とY'sの直営店、マンダリナ・ダック店で発売される。
Yves Saint Laurent イヴ・サン ローラン France
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解説・歴史
イブ・サン ローランは1936年、アルジェリア、オラン生まれ。17歳で国際羊毛事務局(IWS)のデザインコンクールでカクテルドレスが最優秀賞を受賞。翌年、「ヴォーグ」誌の編集長だったド・ブリュノフの推薦により、ディオールのメゾンに迎えられる。1957年、ディオールの急死を受け、わずか21歳でディオールの後継者に任命され、継承後、初のコレクションである1958春に、「トラベーズ(台形)・ライン」を発表。「ヴォーグ」は「議論の余地のない完全な成功」と絶賛した。
しかし、その後発表したひざ丈のホッブルスカート(裾幅の極端に狭いスカート)や、「ビート・ルック」と称されたストリート感覚のスタイルはディオールのエレガンスにそぐわないとして、不評だった。一説には、彼の感覚が一般の客よりも先に進んでいたせいともいわれる。
その後、アルジェリア戦争に召集され、ディオールは代理の主任デザイナーに当時34歳だったマルク・ポワンを起用。ポワンは1回目のコレクションで「スリム・ライン」を発表し大好評を得た。イヴがパリに戻ったときにはディオールのデザイナーには、マルク・ポワンが採用され、彼は事実上解雇された。
1961年、イヴはPRマンだったピエール・ベルジュと組み独立して、メゾン「イブ・サンローラン」を開設。バレンシアガを意識したニューモードは好評を呼び、プレタポルテの「イブ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」の1号店をパリ左岸に開いた。1963年、サン・ローランは、近代ポスターのパイオニアであり第一人者であるカサンドラ(A.M. Cassandre)に自らのロゴのデザインを依頼。YとS、Lを華麗に組み合わせたロゴはこのとき生まれた。以後、ロゴを用いたデザインは「カサンドラ・ライン」と呼ばれることとなる。65年に発表した「モンドリアン・ルック」はサン・ローランの名を一層、高めることとなる。
ココ・シャネルは「サンローランこそ私の後継者」と発言し、60年代後半にはそれ以外にも、大腿部までのロングブーツやサファリ・ルック、シースルー・ドレス、ポップアート・ドレス、ミリタリー・ルック、パンタロン・スーツなどを発表。どれもファッション界に衝撃を与え、70年代にはコサック・ルックやフォークロア調の服が知られ、その頃からオートクチュールにも磨きがかかり、その巧みな色彩感覚とともに「モード界の帝王」と呼ばれる。1998年、フランスワールドカップを記念してブランドの歴史を振り返るような壮大なコレクションを開催。
だが、1999年、LVMHがグッチへの敵対的買収をかけた騒動の余波を受け、仏ピノー・プランタン・ルドゥット(PPR、流通業)のオーナーである仏実業家のフランソワ・ピノーは、同氏のホールディングであるアルテミスを通じて、仏サノフィ・ボテ(化粧品・香水、仏イヴ・サン・ローランを傘下に置く。仏石油エルフ・アキテーヌ傘下)を60億フランで買収し、同額でグッチに再売却すると発表。これにより、YSLはグッチグループに入り、デザイナーもアルベール・エルバスを経て、2000年、トム・フォードがYSLクチュール社のクリエイティブディレクターに就任。当初、オートクチュール部門はアルテミス傘下に残ったため、イヴ・サン・ローランと、イヴ・サン・ローラン・オート・クチュールの間には、資本関係はなくなったが、同じヴィジョンを以て経営に当たることになるとされ、サンローラン本人が担当することで、その「創造性を発揮できる」場所を確保した。グッチは、イヴ・サン・ローランのライセンスの大半を更新せず、経営体質の改善を図った。
トム・フォードによる初のYSLコレクションとなった2000年春夏のメンズコレクションで、彼は60年代後期のサンローラン絶頂期ともいえる、ウェストシェイプ、ハイショルダー、フレアージャケットのスタイルを打ち出し、大絶賛を受けた。2001年9月29日、日本国内でも新生イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュの旗艦店となる青山店がトム・フォードによるメンズ・ウィメンズのコレクションをそろえてオープン。そして、2002年1月22日に行われた、パリ オートクチュール・コレクションを最後に、イヴ・サンローランは引退。オートクチュール部門は閉鎖され、今後はリヴ・ゴーシュのみの展開となった。
2003年、ブランドステータスを引き上げるため、停止していたロゴを用いた「カサンドラ・ライン」を復活。YSLのロゴをバックポケットに刺繍したジーンズなどを展開。
2004年3月、トム・フォードとドメニコ・デ・ソーレの辞任に伴い、2005春夏からトムの右腕でプラダ出身のステファノ・ピラッティがクリエイティブ・ディレクターに就任。
2005年3月青山に次ぐ、旗艦店を丸の内にオープン。2006年2月エスキスの改装に伴い、表参道ヒルズに旗艦店をオープン。
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Van Cleef & Arpels ヴァン クリーフ&アーぺル France
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歴史・解説
世界屈指の宝飾ブランド、ヴァン・クリーフ&アーぺル。1906年、幾代も続く宝石商でダイヤモンド研磨工の血筋をひくジュリアン、ルイ、シャルルのアーペル3兄弟と義兄のアルフレツド・ヴァン・クリーフの活動的な4人の若者が、ヴァンドーム広場にあるつつましい店に彼らの名前をつけたことから。その歴史は始まる。
イラン王妃載冠式用のクラウンを製作したことで一躍世界的に有名になる。「愛・美・夢」と女性の永遠テーマをジュエリーに盛り込み、甘い気品が漂う花、蝶、リボンなどが代表的なモチーフ。柔らかなラインと洗練のフォルム、独創性と高級感を併せ持つデザインが魅力のブランド。1949年に2代目ピエール・アペルが自分自身だけの時計を作ったのが始まりで、腕時計も生産するようになった。
2004年9月17日、日本橋三越本店本館6Fにニューコンセプト・ブティックをオープン。「アパルトマンのくつろぎ」をコンセプトに、英国人デザイナー、アヌシュカ・ヘンペル女史が手がけた店内は、ラグジュアリーでありながら「ZEN」の神秘を感じさせる空間。オープンを記念して、代表的モチーフであるダイヤモンドの蝶(パピヨン)が輝くイヤクリップ「ドゥ パピヨン イヤクリップ」を先行発売。
2005年6月9日、銀座本店を以前に同じリシュモングループのランセルがあった場所に移転し、グランドオープン。日本橋三越店と同様にイギリスの建築デザイナー、アヌシュカ・ヘンペルが室内装飾を手がけた新ショップのコンセプトは「アパルトマンのくつろぎ」。新店は2階建てで、婚約・結婚指輪が見やすい幅3メートルのバーカウンター型の展示台も設けた。オープン記念の限定商品は「アルハンブラ・ミニ・ペンダント」。他に新作時計、ピンクマザーオブパールダイヤルの「ミス カデナ」などが先行発売された。
Valentino Garabani ヴァレンティノ・ガラヴァーニ Italy
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解説・歴史
ヴァレンティノ・ガラヴァーニは1933年、北イタリアのヴォゲラ生まれ。パリ・オートクチュール組合学校で学んだ後、ジャン・デッセ、ギ・ラロッシュのアシスタントとして約10年働いた後、1959年独立。ローマにオートクチュールの店を開く。60年に最初のコレクションを発表。62年フィレンツェのピッティ宮殿で開かれた「白だけの服」が注目を集め一躍国際的に知られることとなる。
67年に「ニーマン・マーカス賞」を受賞。68年のホワイトコレクションで初めて「V」をマークとして採用。1984年、サラエボ・オリンピックおよびロサンゼルス・オリンピックでのイタリア選手団のユニフォームデザイナーに選ばれ、1985年、イタリア政府から「グランデ・ウフィッチャーレ」勲章。1986年にイタリア最高の勲章である騎士大十字勲章を授与される。1996年、イタリア共和国誕生50周年に際して、スカルファロ大統領よりカヴァリエーレ・ディ・ラヴォーロ(功労騎士)に叙される。2000年には、CFDA(アメリカ ファッションデザイナーズ協会)より生涯功労賞が贈られる。
2001年春夏からディヒュージョンライン「ヴァレンティノ ローマ」を発表。ヴァレンティノのデザインの原点となっているローマをネーミングし、ヴァレンティノらしい優雅で洗練された世界に加え、若さあふれるコレクションとなっている。
良質の素材から作り出される洗練されたエレガンスが特徴。シンプルな中にも優雅さを感じさせ、インテリアから小物まで、ライセンスを含んで幅広く展開している。
VERONIQUE BRANQUINHO ヴェロニク・ブランキーノ Belgium.
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歴史・解説
デザイナー、ヴェロニク・ブランキーノ(VERONIQUE BRANQUINHO)は1973年ベルギー生まれ。絵画を学んだ後、アントワープ王立アカデミーに入学し、95年、卒業。卒業テーマは「エチケット」。97年コレクションデビューと同時に会社設立。98年秋冬からパリコレクションに参加。99春夏から99秋冬まで、イタリアの高級革製品メーカー、ルッフォ社の「ルッフォ・リサーチ」のデザインを、ラフ・シモンズとともに担当。2003年1月パリで発表された2003秋冬からメンズラインスタート。
フルレングスのスカート、フリルなど全体的に「可愛い」服が多い。しかし、単に甘いガーリーではなく、良家の寄宿舎で暮らす可愛い娘なんだけど、ちょっと危険な香りも併せ持つようなイメージ。
ヴェロニク・ブランキーノを語るとき、デビュー・イメージでもある森を駆け抜ける少女のイメージを外すことはできません。80年代のデビッド・ハミルトンを思わせる、幻想的な、キャミソールドレスの裾を翻して、でも必死に森の中を駆け抜ける少女のイメージ。ちなみに撮影はロナルド・ストゥープス。イメージはシルフ(sylph)だったらしいです。あれは衝撃的でした。2003秋冬のパリコレクションでもこのイメージは続いており、今回発表されたものは森をぬけて祖母に会いに行く、赤いフードをかぶった赤頭巾ちゃん。シンプルなAラインで装飾は、ほとんどなく、たまに魔女に見立てたような黒い服が登場するものの、それでも純粋に「可愛い服」が多いのがヴェロニクらしいところ。
Vivienne Westwood ヴィヴィアン・ウエストウッド England
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解説・歴史
本名、 ヴィヴィアン・イザベル・スウェアは1941年4月8日、イギリス、ダービーシャー州グロソップ生まれ。17才の時、家族とともにロンドンへ移住。教師になる勉強をしていたが、1971年、当時のパートナーであるマルコム・マクラーレンと共にデザインを始め、ロンドン・キングスロード430番地のショップを開く。
この店は新しいコンセプトの度に、名前と店の装飾を変え、1971年には「Let It Rock(レット・イット・ロック)」、1972年は「Too Fast To Live, Too Young To Die(生きるには早すぎ、死ぬには若すぎる)」、1974年では「SEX」となり、1976年に「Seditionaries(セディショナリーズ)」。そして、やっと現在にも残る「World's End(ワールズ エンド)」となる。ロック・ミュージシャンやパンクを中心に顧客が広がリ、当時の若者文化を体現する店として有名になる。とくに80年代初めのパイレーツ・ルックやボロ・ルックは話題となった。
1981年秋・冬ロンドンで初のコレクションを発表。1982年10月、マリー・クヮント以来2人目のイギリス人デザイナーとして発表の場をパリコレクションへと移動。同時にロンドンに2番目のショップ「Nostalgia Of Mud(ノスタルジア オブ マッド)」をオープン。その後1984年後半、この店の閉店の頃マルコムと別れる。
1984年秋、東京で行われた「The Best Of Five」に、ジャンフランコ・フェレ、カルバン・クライン、クロード・モンタナ、森英恵らと共に選ばれ来日、コレクションを開催。この頃に「伝統をもって未来を創る」という意味を持った地球に十字が添えられたORBロゴが使われた。
レディスコレクションの中での発表ではなく、1990年7月フローレンスでのプッティ・ウォモで初の独立したメンズコレクションを発表。この年「British designer Of the year」に選ばれる。1991年1月には、クリスチャン・ラクロワ、アイザック・ミザリそしてフランシスコ・モスキーノと共にファッションサミットに参加するため、東京でコレクションを発表。1992年、再び「British designer Of the year」に選ばれる。12月、エリザベス2世よりO.B.E(大英帝国勲章=Officer of the British Empire)を受賞。
1993年レディスウェアをファーストライン「Gold Label(ゴールド・レーベル)」とプレタポルテラインである「Red Label(レッド レーベル)」とに分割。メンズは、1996年のミラノコレクション開催中に独立して発表。1996年 9月日本初のフラッグシップショップ「Vivienne Westwood Tokyo」を日比谷にオープン(現在はクローズしています)するために来日、フロアショー並びにトークショーを開催。1998年、ヤング層向けのカジュアルラインとして「Anglomania(アングロマニア)」、同じ年に初めてのフレグランス「Boudoir」発表。1999年、ニューヨークにプレス・ショールームを兼ね備えたフラッグシップショップをオープン。2000年セカンドフレグランス「Libertine(リバティン)」を発表。2001年、モスクワ、韓国、ミラノにフラッグシップショップをオープン。
2004年4月1日から7月11日まで、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館で回顧展を開催。この展覧会で、新フレグランス「Anglomania」を発表。
2005年3月、2005秋冬パリコレクションでダイヤモンド・ジュエリー・コレクション「Vivienne Westwood Hardcore Diamonds」を披露。新コレクションはウエストウッドのシグネチャー、「オーブ(orb)」を特色とし、カフリンクス、イアリング、リング、ネックレスなどで展開。コレクションでは、ジュエリーはホワイト・ゴールドの安全ピンで吊り下げられ、「安全ピンは実際に光り輝くものです。それらは美しく見え、働く女性には最適です」とウエストウッド。
2005年6月、初のコスメティクスを日本で先行発売。メイクアップからツールまでのフルライン展開で、アイカラー、チークカラー、リップカラーはヴィヴィアン・ウエストウッド本人が一色ごとにセレクト。自ら、「マースイエロー」「ワインブラック」「アブソリュートローズ」などと名づけた。パウダー、ファンデーション、チークカラー、アイカラー専用のコンパクトは、シルバーミラーにブランドの象徴である「ORB(オーブ)」のロゴが浮かび上がる。
Van Cleef & Arpels ヴァン クリーフ&アーぺルの高額商品はこちら
歴史・解説
世界屈指の宝飾ブランド、ヴァン・クリーフ&アーぺル。1906年、幾代も続く宝石商でダイヤモンド研磨工の血筋をひくジュリアン、ルイ、シャルルのアーペル3兄弟と義兄のアルフレツド・ヴァン・クリーフの活動的な4人の若者が、ヴァンドーム広場にあるつつましい店に彼らの名前をつけたことから。その歴史は始まる。
イラン王妃載冠式用のクラウンを製作したことで一躍世界的に有名になる。「愛・美・夢」と女性の永遠テーマをジュエリーに盛り込み、甘い気品が漂う花、蝶、リボンなどが代表的なモチーフ。柔らかなラインと洗練のフォルム、独創性と高級感を併せ持つデザインが魅力のブランド。1949年に2代目ピエール・アペルが自分自身だけの時計を作ったのが始まりで、腕時計も生産するようになった。
2004年9月17日、日本橋三越本店本館6Fにニューコンセプト・ブティックをオープン。「アパルトマンのくつろぎ」をコンセプトに、英国人デザイナー、アヌシュカ・ヘンペル女史が手がけた店内は、ラグジュアリーでありながら「ZEN」の神秘を感じさせる空間。オープンを記念して、代表的モチーフであるダイヤモンドの蝶(パピヨン)が輝くイヤクリップ「ドゥ パピヨン イヤクリップ」を先行発売。
2005年6月9日、銀座本店を以前に同じリシュモングループのランセルがあった場所に移転し、グランドオープン。日本橋三越店と同様にイギリスの建築デザイナー、アヌシュカ・ヘンペルが室内装飾を手がけた新ショップのコンセプトは「アパルトマンのくつろぎ」。新店は2階建てで、婚約・結婚指輪が見やすい幅3メートルのバーカウンター型の展示台も設けた。オープン記念の限定商品は「アルハンブラ・ミニ・ペンダント」。他に新作時計、ピンクマザーオブパールダイヤルの「ミス カデナ」などが先行発売された。
Valentino Garabani ヴァレンティノ・ガラヴァーニ Italy
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解説・歴史
ヴァレンティノ・ガラヴァーニは1933年、北イタリアのヴォゲラ生まれ。パリ・オートクチュール組合学校で学んだ後、ジャン・デッセ、ギ・ラロッシュのアシスタントとして約10年働いた後、1959年独立。ローマにオートクチュールの店を開く。60年に最初のコレクションを発表。62年フィレンツェのピッティ宮殿で開かれた「白だけの服」が注目を集め一躍国際的に知られることとなる。
67年に「ニーマン・マーカス賞」を受賞。68年のホワイトコレクションで初めて「V」をマークとして採用。1984年、サラエボ・オリンピックおよびロサンゼルス・オリンピックでのイタリア選手団のユニフォームデザイナーに選ばれ、1985年、イタリア政府から「グランデ・ウフィッチャーレ」勲章。1986年にイタリア最高の勲章である騎士大十字勲章を授与される。1996年、イタリア共和国誕生50周年に際して、スカルファロ大統領よりカヴァリエーレ・ディ・ラヴォーロ(功労騎士)に叙される。2000年には、CFDA(アメリカ ファッションデザイナーズ協会)より生涯功労賞が贈られる。
2001年春夏からディヒュージョンライン「ヴァレンティノ ローマ」を発表。ヴァレンティノのデザインの原点となっているローマをネーミングし、ヴァレンティノらしい優雅で洗練された世界に加え、若さあふれるコレクションとなっている。
良質の素材から作り出される洗練されたエレガンスが特徴。シンプルな中にも優雅さを感じさせ、インテリアから小物まで、ライセンスを含んで幅広く展開している。
VERONIQUE BRANQUINHO ヴェロニク・ブランキーノ Belgium.
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歴史・解説
デザイナー、ヴェロニク・ブランキーノ(VERONIQUE BRANQUINHO)は1973年ベルギー生まれ。絵画を学んだ後、アントワープ王立アカデミーに入学し、95年、卒業。卒業テーマは「エチケット」。97年コレクションデビューと同時に会社設立。98年秋冬からパリコレクションに参加。99春夏から99秋冬まで、イタリアの高級革製品メーカー、ルッフォ社の「ルッフォ・リサーチ」のデザインを、ラフ・シモンズとともに担当。2003年1月パリで発表された2003秋冬からメンズラインスタート。
フルレングスのスカート、フリルなど全体的に「可愛い」服が多い。しかし、単に甘いガーリーではなく、良家の寄宿舎で暮らす可愛い娘なんだけど、ちょっと危険な香りも併せ持つようなイメージ。
ヴェロニク・ブランキーノを語るとき、デビュー・イメージでもある森を駆け抜ける少女のイメージを外すことはできません。80年代のデビッド・ハミルトンを思わせる、幻想的な、キャミソールドレスの裾を翻して、でも必死に森の中を駆け抜ける少女のイメージ。ちなみに撮影はロナルド・ストゥープス。イメージはシルフ(sylph)だったらしいです。あれは衝撃的でした。2003秋冬のパリコレクションでもこのイメージは続いており、今回発表されたものは森をぬけて祖母に会いに行く、赤いフードをかぶった赤頭巾ちゃん。シンプルなAラインで装飾は、ほとんどなく、たまに魔女に見立てたような黒い服が登場するものの、それでも純粋に「可愛い服」が多いのがヴェロニクらしいところ。
Vivienne Westwood ヴィヴィアン・ウエストウッド England
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解説・歴史
本名、 ヴィヴィアン・イザベル・スウェアは1941年4月8日、イギリス、ダービーシャー州グロソップ生まれ。17才の時、家族とともにロンドンへ移住。教師になる勉強をしていたが、1971年、当時のパートナーであるマルコム・マクラーレンと共にデザインを始め、ロンドン・キングスロード430番地のショップを開く。
この店は新しいコンセプトの度に、名前と店の装飾を変え、1971年には「Let It Rock(レット・イット・ロック)」、1972年は「Too Fast To Live, Too Young To Die(生きるには早すぎ、死ぬには若すぎる)」、1974年では「SEX」となり、1976年に「Seditionaries(セディショナリーズ)」。そして、やっと現在にも残る「World's End(ワールズ エンド)」となる。ロック・ミュージシャンやパンクを中心に顧客が広がリ、当時の若者文化を体現する店として有名になる。とくに80年代初めのパイレーツ・ルックやボロ・ルックは話題となった。
1981年秋・冬ロンドンで初のコレクションを発表。1982年10月、マリー・クヮント以来2人目のイギリス人デザイナーとして発表の場をパリコレクションへと移動。同時にロンドンに2番目のショップ「Nostalgia Of Mud(ノスタルジア オブ マッド)」をオープン。その後1984年後半、この店の閉店の頃マルコムと別れる。
1984年秋、東京で行われた「The Best Of Five」に、ジャンフランコ・フェレ、カルバン・クライン、クロード・モンタナ、森英恵らと共に選ばれ来日、コレクションを開催。この頃に「伝統をもって未来を創る」という意味を持った地球に十字が添えられたORBロゴが使われた。
レディスコレクションの中での発表ではなく、1990年7月フローレンスでのプッティ・ウォモで初の独立したメンズコレクションを発表。この年「British designer Of the year」に選ばれる。1991年1月には、クリスチャン・ラクロワ、アイザック・ミザリそしてフランシスコ・モスキーノと共にファッションサミットに参加するため、東京でコレクションを発表。1992年、再び「British designer Of the year」に選ばれる。12月、エリザベス2世よりO.B.E(大英帝国勲章=Officer of the British Empire)を受賞。
1993年レディスウェアをファーストライン「Gold Label(ゴールド・レーベル)」とプレタポルテラインである「Red Label(レッド レーベル)」とに分割。メンズは、1996年のミラノコレクション開催中に独立して発表。1996年 9月日本初のフラッグシップショップ「Vivienne Westwood Tokyo」を日比谷にオープン(現在はクローズしています)するために来日、フロアショー並びにトークショーを開催。1998年、ヤング層向けのカジュアルラインとして「Anglomania(アングロマニア)」、同じ年に初めてのフレグランス「Boudoir」発表。1999年、ニューヨークにプレス・ショールームを兼ね備えたフラッグシップショップをオープン。2000年セカンドフレグランス「Libertine(リバティン)」を発表。2001年、モスクワ、韓国、ミラノにフラッグシップショップをオープン。
2004年4月1日から7月11日まで、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館で回顧展を開催。この展覧会で、新フレグランス「Anglomania」を発表。
2005年3月、2005秋冬パリコレクションでダイヤモンド・ジュエリー・コレクション「Vivienne Westwood Hardcore Diamonds」を披露。新コレクションはウエストウッドのシグネチャー、「オーブ(orb)」を特色とし、カフリンクス、イアリング、リング、ネックレスなどで展開。コレクションでは、ジュエリーはホワイト・ゴールドの安全ピンで吊り下げられ、「安全ピンは実際に光り輝くものです。それらは美しく見え、働く女性には最適です」とウエストウッド。
2005年6月、初のコスメティクスを日本で先行発売。メイクアップからツールまでのフルライン展開で、アイカラー、チークカラー、リップカラーはヴィヴィアン・ウエストウッド本人が一色ごとにセレクト。自ら、「マースイエロー」「ワインブラック」「アブソリュートローズ」などと名づけた。パウダー、ファンデーション、チークカラー、アイカラー専用のコンパクトは、シルバーミラーにブランドの象徴である「ORB(オーブ)」のロゴが浮かび上がる。
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Tiffany ティファニー U.S.A.
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歴史・解説
1837年、チャールズ・ルイス・ティファニーとジョン・B・ヤングの二人が、ニューヨーク・ブロードウェイ259番地に文房具と装飾品の店「Tiffany&Young」をオープンしたのがティファニーの歴史の始まり。資本金はチャールズが父親から借りた1000ドル。ファンシーグッズやステーショナリー、日本や中国から輸入した骨とう品を扱う小さな店だった。1845年、「Tiffany,Young&Ellis」社として最初のカタログを発行。これは、現在発行されているカタログにも「ブルー・ブック」として継承されている。ティファニー・ブルーはここから生まれた。この頃からケースなどにも水色のパッケージが使われるようになる。
1848年、2月革命から逃れたフランスの貴族たちより宝石を入手。アメリカに最初に渡った重要な宝石として記録される。これによりティファニーは、アメリカを代表する宝石商としての地位を確立した。チャールズ・ルイス・ティファニーは、「キング・オブ・ダイヤモンド」として広く知れ渡る。
1850年、「Tiffany,Reed & Co.」社、パリ出店。1851年、ニューヨークの銀細工師、ジョン・C・ムーアの事業を買収。銀製品製造を開始。アメリカ企業としては初のスターリングシルバー基準を適用。銀の純度を92.5%に定める標準純銀法の制定、後にアメリカ合衆国の純銀標準として採用される。
1853年、チャールズ・ルイス・ティファニーが共同経営者達から経営権を買い取り、「Tiffany & Co.」と改称、ブロードウェイ550番地に移転。
1867年、パリ万博にて、ティファニー社はアメリカ企業としては初の銀器部門で優秀賞を獲得。1871年銀器のデザイン「オーデュボン」を発表。1873年ティファニー製の水差しがアメリカ製銀製品としては初めてボストン美術館に所蔵される。エドワード・C・ムーアは、銀工芸の礎を築き、ポールディング・ファーンハムは、蘭の花シリーズなどジュエリーデザインの傑作を制作した。また、この時期、先住民族インディアンのモチーフなども取り入れた。
1878年、前年、南アフリカのキンバリーで発見された287.42カラットのイエロー・ダイヤモンドの原石を、1万8千ドルで購入。Dr.ジョージ・フレデリック・クンツにカットさせる。Dr.クンツによりカラットが世界標準単位となる。現在、このダイヤは 90面カット・128.54カラットの有名なティファニー・ダイヤモンドとして5番街本店の入り口に展示中。
1885年アメリカ合衆国公印のデザインを製作。1ドル紙幣に使用される(現在でも使われています)。1886年ダイヤモンドを6本の爪で支える「ティファニー・セッティング」を発表。爪で隠れる部分を最小限にすることで、横からも光をとり入れることができ、カット技術が引き出した輝きがさらに増して、石を美しく見せることができる。1902年 創設者チャールズの息子、ルイス・ティファニーがティファニー・アート・ジュエリーを設立(アール・ヌーボーを代表する芸術家です)。同年、チャールズは副社長のC・T・クックに後を託して他界。1926年ティファニー社が採用しているプラチナの純度基準を、アメリカ合衆国政府が公認する。1940年本社を現在の5番街57丁目に移転。1952年パリ店を閉店。1955年、ウォルター・ホービングがティファニー家からビジネスを買い取って3代目経営者に。
1956年マスター・ジュエリー・デザイナーであるジーン・シュランバーセー(JEAN SCHLUMBERGER、副社長)が、ニューヨークのティファニー本店にサロンをオープン。フランス生まれのシュランバーゼーは、鳥や海の生物など自然界をモチーフにしたものが多く、エメラルドやサファイアなどの色石とエナメル、ダイヤ、ゴールドを組み合わせる独特の色遣いが特徴。代表作に、傑作「バード・オブ・パラダイス(楽園の鳥)」「勇者のトロフィー」など。80歳で亡くなる87年まで、ティファニー社の専属デザイナーとして活躍。死後、ルーブル美術館で回顧展が開催された、ただ一人のジュエリーデザイナーである。1963年サンフランシスコ店オープン。1969年チャールズ・ルイス・ティファニーの玄孫、ヘンリー・B・プラット ティファニーはタンザニアで発見されたブルーのカラーストーン「タンザナイト」を発表。
1972年三越日本橋店に出店。ティファニー・ジャパンには当初、三越が出資していたため三越を中心に店舗網が築かれた。1974年エルサ・ペレッティ(ELSA PERETTI)が、ティファニー専属デザイナーとして作品を発表。1940年、イタリア生まれのペレッティは、モデル時代に、服飾デザイナーのジョルジョ・ディ・サンタンジェロのショーで、彼女のジュエリーが使われたことがきっかけで、その才能を認められ、ベストセラー商品「オープンハート」を手がけた。ハートや涙などを素材にしたものや、骨や豆、星など自然界のモチーフも多く、「滑らかな線や形」で作り出される完成されたフォルムに定評がある。
1980年パロマ・ピカソ(PALOMA PICASSO)、ジュエリー・コレクションを発表。1949年、パブロ・ピカソの娘として誕生した彼女の宝飾デザインの才能を最初に評価したのは、イブ・サンローラン。色石を中心にした父親譲りとも思える大胆な色遣いと力強いフォルム。X(キス・マーク)の文字やハートを使った連続性のあるモチーフが特徴。
1986年第2次世界大戦後に閉店していたロンドン店をオープン。1987年ニューヨーク証券取引所に上場。創設150周年記念として、銀器・宝飾品の回顧展がアメリカ自然史博物館・ボストン美術館・フィールド自然史博物館・メトロポリタン美術館で開催。同年、社名を冠した香水「TIFFANY」を発表。1996年、マイケル・J・コワルスキーが、社長に選出される。1996年、銀座に旗艦店オープン。1997年ニュージャージー州にカスタマーサービスセンターをオープン。1999年ダイヤモンド・リング「Lucida」を発表。2004年9月丸の内店オープン。
2005年11月、スペイン・ビルバオのグッケンハイム美術館やフォッシルのウォッチデザインで知られる建築家フランク・ゲーリー(Frank Gehry)と新パートナーシップを締結。フランク・ゲーリーがクリエイトするティファニーの新コレクションは2006年4月から発売。日本では、ティファニー本店、丸の内店、新宿三越アルコット、伊勢丹新宿、横浜高島屋、名古屋店、大阪梅田店、そごう心斎橋本店、大丸神戸、福岡店で先行発売された。
Tsumori Chisato ツモリ・チサト Japan.
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歴史・解説
デザイナー、津森千里(つもり・ちさと)は、1954年埼玉県生まれ。1976年、文化服装学院デザイン科ファッション課程卒業。1977年株式会社イッセイ ミヤケ入社。「イッセイ・スポーツ」のデザイナーとなる。
1983年11月「イッセイ・スポーツ」より「I.S.Chisato Tsumori Design」にブランド名を変更しチーフデザイナーとなる。1985年9月第3回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞。1990年4月「I.S.」ブランドのチーフを後任に譲り、「TSUMORI CHISATO」ブランドを発表。津森千里デザインスタジオ設立。以降、東京コレクションに参加。1995年9月TSUMORI CHISATO青山店オープン。1999年8月TSUMORI CHISATO SHOPをパリにープン。2000年12月TSUMORI CHISATO SHOP代官山店オープン。2001年3月TSUMORI CHISATO SHOP神戸店オープン。2003年8月からは老舗百貨店「ボン・マルシェ」にも出店。2003年10月に開催される2004年春夏からパリコレクションに参加。
三宅一生系列でZUCCAなども持つ、エイ・ネットによって展開されている。ツモリチサトは生活を十分に楽しみ、人との出会いやコミュニケーションを大切にする、そしていつも最高の気分を味わっていたい、といった気持ちに語りかける服作りを目指している。メンズラインが手に入るのは青山、代官山、渋谷PARCO、神戸の4店のみ。
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歴史・解説
1837年、チャールズ・ルイス・ティファニーとジョン・B・ヤングの二人が、ニューヨーク・ブロードウェイ259番地に文房具と装飾品の店「Tiffany&Young」をオープンしたのがティファニーの歴史の始まり。資本金はチャールズが父親から借りた1000ドル。ファンシーグッズやステーショナリー、日本や中国から輸入した骨とう品を扱う小さな店だった。1845年、「Tiffany,Young&Ellis」社として最初のカタログを発行。これは、現在発行されているカタログにも「ブルー・ブック」として継承されている。ティファニー・ブルーはここから生まれた。この頃からケースなどにも水色のパッケージが使われるようになる。
1848年、2月革命から逃れたフランスの貴族たちより宝石を入手。アメリカに最初に渡った重要な宝石として記録される。これによりティファニーは、アメリカを代表する宝石商としての地位を確立した。チャールズ・ルイス・ティファニーは、「キング・オブ・ダイヤモンド」として広く知れ渡る。
1850年、「Tiffany,Reed & Co.」社、パリ出店。1851年、ニューヨークの銀細工師、ジョン・C・ムーアの事業を買収。銀製品製造を開始。アメリカ企業としては初のスターリングシルバー基準を適用。銀の純度を92.5%に定める標準純銀法の制定、後にアメリカ合衆国の純銀標準として採用される。
1853年、チャールズ・ルイス・ティファニーが共同経営者達から経営権を買い取り、「Tiffany & Co.」と改称、ブロードウェイ550番地に移転。
1867年、パリ万博にて、ティファニー社はアメリカ企業としては初の銀器部門で優秀賞を獲得。1871年銀器のデザイン「オーデュボン」を発表。1873年ティファニー製の水差しがアメリカ製銀製品としては初めてボストン美術館に所蔵される。エドワード・C・ムーアは、銀工芸の礎を築き、ポールディング・ファーンハムは、蘭の花シリーズなどジュエリーデザインの傑作を制作した。また、この時期、先住民族インディアンのモチーフなども取り入れた。
1878年、前年、南アフリカのキンバリーで発見された287.42カラットのイエロー・ダイヤモンドの原石を、1万8千ドルで購入。Dr.ジョージ・フレデリック・クンツにカットさせる。Dr.クンツによりカラットが世界標準単位となる。現在、このダイヤは 90面カット・128.54カラットの有名なティファニー・ダイヤモンドとして5番街本店の入り口に展示中。
1885年アメリカ合衆国公印のデザインを製作。1ドル紙幣に使用される(現在でも使われています)。1886年ダイヤモンドを6本の爪で支える「ティファニー・セッティング」を発表。爪で隠れる部分を最小限にすることで、横からも光をとり入れることができ、カット技術が引き出した輝きがさらに増して、石を美しく見せることができる。1902年 創設者チャールズの息子、ルイス・ティファニーがティファニー・アート・ジュエリーを設立(アール・ヌーボーを代表する芸術家です)。同年、チャールズは副社長のC・T・クックに後を託して他界。1926年ティファニー社が採用しているプラチナの純度基準を、アメリカ合衆国政府が公認する。1940年本社を現在の5番街57丁目に移転。1952年パリ店を閉店。1955年、ウォルター・ホービングがティファニー家からビジネスを買い取って3代目経営者に。
1956年マスター・ジュエリー・デザイナーであるジーン・シュランバーセー(JEAN SCHLUMBERGER、副社長)が、ニューヨークのティファニー本店にサロンをオープン。フランス生まれのシュランバーゼーは、鳥や海の生物など自然界をモチーフにしたものが多く、エメラルドやサファイアなどの色石とエナメル、ダイヤ、ゴールドを組み合わせる独特の色遣いが特徴。代表作に、傑作「バード・オブ・パラダイス(楽園の鳥)」「勇者のトロフィー」など。80歳で亡くなる87年まで、ティファニー社の専属デザイナーとして活躍。死後、ルーブル美術館で回顧展が開催された、ただ一人のジュエリーデザイナーである。1963年サンフランシスコ店オープン。1969年チャールズ・ルイス・ティファニーの玄孫、ヘンリー・B・プラット ティファニーはタンザニアで発見されたブルーのカラーストーン「タンザナイト」を発表。
1972年三越日本橋店に出店。ティファニー・ジャパンには当初、三越が出資していたため三越を中心に店舗網が築かれた。1974年エルサ・ペレッティ(ELSA PERETTI)が、ティファニー専属デザイナーとして作品を発表。1940年、イタリア生まれのペレッティは、モデル時代に、服飾デザイナーのジョルジョ・ディ・サンタンジェロのショーで、彼女のジュエリーが使われたことがきっかけで、その才能を認められ、ベストセラー商品「オープンハート」を手がけた。ハートや涙などを素材にしたものや、骨や豆、星など自然界のモチーフも多く、「滑らかな線や形」で作り出される完成されたフォルムに定評がある。
1980年パロマ・ピカソ(PALOMA PICASSO)、ジュエリー・コレクションを発表。1949年、パブロ・ピカソの娘として誕生した彼女の宝飾デザインの才能を最初に評価したのは、イブ・サンローラン。色石を中心にした父親譲りとも思える大胆な色遣いと力強いフォルム。X(キス・マーク)の文字やハートを使った連続性のあるモチーフが特徴。
1986年第2次世界大戦後に閉店していたロンドン店をオープン。1987年ニューヨーク証券取引所に上場。創設150周年記念として、銀器・宝飾品の回顧展がアメリカ自然史博物館・ボストン美術館・フィールド自然史博物館・メトロポリタン美術館で開催。同年、社名を冠した香水「TIFFANY」を発表。1996年、マイケル・J・コワルスキーが、社長に選出される。1996年、銀座に旗艦店オープン。1997年ニュージャージー州にカスタマーサービスセンターをオープン。1999年ダイヤモンド・リング「Lucida」を発表。2004年9月丸の内店オープン。
2005年11月、スペイン・ビルバオのグッケンハイム美術館やフォッシルのウォッチデザインで知られる建築家フランク・ゲーリー(Frank Gehry)と新パートナーシップを締結。フランク・ゲーリーがクリエイトするティファニーの新コレクションは2006年4月から発売。日本では、ティファニー本店、丸の内店、新宿三越アルコット、伊勢丹新宿、横浜高島屋、名古屋店、大阪梅田店、そごう心斎橋本店、大丸神戸、福岡店で先行発売された。
Tsumori Chisato ツモリ・チサト Japan.
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歴史・解説
デザイナー、津森千里(つもり・ちさと)は、1954年埼玉県生まれ。1976年、文化服装学院デザイン科ファッション課程卒業。1977年株式会社イッセイ ミヤケ入社。「イッセイ・スポーツ」のデザイナーとなる。
1983年11月「イッセイ・スポーツ」より「I.S.Chisato Tsumori Design」にブランド名を変更しチーフデザイナーとなる。1985年9月第3回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞。1990年4月「I.S.」ブランドのチーフを後任に譲り、「TSUMORI CHISATO」ブランドを発表。津森千里デザインスタジオ設立。以降、東京コレクションに参加。1995年9月TSUMORI CHISATO青山店オープン。1999年8月TSUMORI CHISATO SHOPをパリにープン。2000年12月TSUMORI CHISATO SHOP代官山店オープン。2001年3月TSUMORI CHISATO SHOP神戸店オープン。2003年8月からは老舗百貨店「ボン・マルシェ」にも出店。2003年10月に開催される2004年春夏からパリコレクションに参加。
三宅一生系列でZUCCAなども持つ、エイ・ネットによって展開されている。ツモリチサトは生活を十分に楽しみ、人との出会いやコミュニケーションを大切にする、そしていつも最高の気分を味わっていたい、といった気持ちに語りかける服作りを目指している。メンズラインが手に入るのは青山、代官山、渋谷PARCO、神戸の4店のみ。
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Salvatore Ferragamo サルヴァトーレ・フェラガモ Italy
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歴史・解説
サルヴァトーレ・フェラガモは1898年にイタリア、ボニートで生まれ、幼い頃から靴屋で働き16歳でアメリカに渡る。マレーネ・デートリッヒ、キャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマンらを顧客にし、名声を高めた後、イタリアに戻り、27年フィレンツェで開業。
甲部を透明なナイロン糸で作った「見えない靴」、波状のウェッジ・ヒール、フラットフォームソールなどを生み出し、350の特許を取得。流行だけでなく、足にフィットした履き心地のよい靴を信条とし、死後(1960年)もブランドは妻と子供たちに受け継がれている。
「メード・イン・イタリー」にこだわり、ライセンス契約もサングラス以外には行っていない。
67年からは次女のジョバンナがレディス、メンズのプレタポルテを含めたトータルファッションを展開。現在のフェラガモ社のトップは45年、イタリア生まれで創始者のサルヴァトーレ、ワンダ夫妻の長男である、フェルッチオ・フェラガモCEO。18歳の時から家業に参加している。副社長でファッション部門の統括は次女の ジョヴァンナ・ジェンティーレ。
2000-2001年秋冬コレクションより、「チェルッティ」、「エルメス」、「トラサルディ」などで活躍し、プレタポルテの世界に積極的にストレッチ素材を導入したマーク・オディベがレディスのデザインを担当。2003年春夏からは、アルマーニにいたグレエム・グラックがデザイナーに就任。2002年秋冬からは初のスニーカーライン「FREEDOM」が登場。側面の「ガンチーニ」がフェラガモらしさを主張している。また、2003年5月7日には、700平方メートルの旗艦店を銀座中央通りにオープン。レディスからメンズのすべてのラインがそろい、オープン時には限定商品も発売。2003年11月、初のウォッチ発売。エレガントな曲線が連なるステンレスケース、クラシカルな数字を配したデザインで、デザインコンセプトは1939年のウェッジシューズ「ゼッパ」。
2004年10月5日、大阪ヒルトンプラザウエストに梅田本店オープン。レディスとメンズの全アイテムがそろう関西地区最大のブティックで、オープン記念限定商品は、フェラガモを代表するオーナメント「ガンチーニ」をファブリックにエンボス加工した、レザー&ファブリックのコンビ使いバッグ。形違いで3種類展開。記念限定商品は、レディス6種(バッグ・小物)、メンズ4種(シューズ・小物)の全10アイテムを用意。各レディスアイテムには「OSAKA opening 2004」と刻印されたガンチーニ型レザーチャーム付き。メンズはアニマルプリントが施されたヘアカーフ素材のローファー。その他、同素材のベルト、財布、キーリングは梅田品店と銀座本店のみの限定商品。
2004年11月、ジャカード織素材のバッグ、小物の新シリーズ「ガンチョ・ロゴ」を発売。ブランドの象徴でもある「ガンチーニ」を織の模様に使用。リボンとカーフを組み合わせた。
日本ではアオイ系列のフェラガモ・ジャパンが展開している。
Samantha Thavasa サマンサ・タバサ Japan
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歴史・解説
サマンサタバサは1996年、創業。Gal系ファッションに身を包んだ、女のコに人気のバッグブランド。コンセプトは魔女の「マジカルエレガンス」、5年間に売り上げは12倍にまで躍進した。ブランド名は1960年代のアメリカの人気テレビ番組「奥様は魔女」の主人公サマンサと、その娘タバサの名前に由来する。また、ヒルトン姉妹を広告に起用。カジュアルで、キュート&カラフルで、かわいいバッグが多い。「JJ」は毎月サマンサのページを掲載しており、ANAの限定バッグやフジテレビとのコラボによる女子アナバッグも有名。
2002年11月12日、 銀座2丁目に旗艦店をオープン。2003年2月、代官山にサマンサベガとバイオレットハンガーの旗艦店をオープン。2003年4月、六本木ヒルズにサマンサ・タバサ・ニューヨークオープン。また、2003年4月からはジュエリーをスタート。ジュエリーのイメージガールは、ベッカム夫人のヴィクトリア・ベッカム。6月に青山骨董通りの近くにジュエリー専門店「サマンサティアラbyサマンサタバサ青山店」オープン。オープニングテープカットは、もちろん、ヴィクトリア・ベッカム。同店は2フロア構成。1階は白を基調とした空間でトレンド感のあるジュエリーを2万円代から。2階はダークブラウンを基調にエレガント感のある空間で、モナコ在住デザイナーのファニー・ブロンシュロンドゥのジュエリーをはじめ、ハイクラスのジュエリーを、価格は20万円代から展開する。2003年11月には銀座中央通りにもサマンサタバサのジュエリー専門店を開き、2003秋には新宿、心斎橋、神戸などにも出店。2004年2月までに10店体制にする方針。ジュエリーにはヒルトン姉妹の姉のほうがデザインするラインも予定されている。
2004秋冬のキャンペーンモデルはビヨンセ。2004年小物ラインの「サマンサ・タバサ・プチ・チョイス」開始。2005年3月「サマンサタバサデラックス」とジュエリーブランド「サマンサシルヴァ by サマンサティアラ」のプロモーションモデルに蛯原友里を起用。
2005年4月20日、表参道交差点角に「サマンサタバサDELUXE表参道GATES店」をオープン。内装は森田恭通が手掛け、桐島ローランドが撮影した写真を外壁にエッチング処理で使用。同ビル屋上の大型看板ボード3面には、毎月同ブランドのプロモーションモデルの広告やニュースなどが映し出される。1階フロアではバッグ、2階フロアではバッグとジュエリー、3階にはリラクゼーションスペース「セレブリティティルーム」や、同ビル5階にオープンした「フェイスプラス」のフェイスエステやマッサージが受けられるサマンサタバサメンバーズ用の「サマンサタバサリゾート」が設置されている。
サマンサタバサには「サマンサ・タバサ」、「サマンサ・タバサ・ニューヨーク」、「サマンサ・ベガ」、「バイオレット・ハンガー」、「ダーリン・ダーリン」の5ラインがある。それぞれの特徴は、
サマンサ・タバサ
基幹ブランド。定番商品はオルラーレ。持ち手部分が木なのが特徴だったが、ラインストーンのついたものも登場。最近では、クレエトートを定番化しようとしている。
サマンサ・ベガ
サマンサ・タバサの妹的存在で、タバサよりもっと可愛いめのデザイン。珍しい形のも多く、価格もややリーズナブル。元気、キュートがキーワードでニューカジュアルを提案。
サマンサ・タバサ・ニューヨーク
逆にニューヨークはサマンサタバサのお姉さんブランド。大人っぽく、落着いたデザインで、サマンサタバサいわく「都会に生きる大人の女性向け」ブランド。ヒルトン姉妹の妹のほうニッキーがデザインしているのもこのライン。ニッキーの好きな星座をモチーフにしたものも多い。価格はやや高め。2003春夏からNYのデザイナー2名を起用した。
バイオレット・ハンガー
エレガントでセクシーをテーマにした大人向けブランド。いまいち、ニューヨークとの違いがよくわからないけど、こちらのほうがセクシー。サイケデリックバッグなどを展開している。
ダーリン・ダーリン
スタイリストのえなみ真理子と組み、ヨーロピアン感覚の服やインテリア雑貨も加えたセレクトショップにする方針。2003年3月28日、銀座にオープンした路面店は、カフェも併設している。
Stella McCartney ステラ・マッカートニー England.
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歴史・解説
ステラ・マッカートニーは1971年9月13日、元ビートルズのメンバーだったポール(Paul)とリンダ・マッカートニー(Linda McCartney、旧姓Linda Eastman)の次女としてロンドンに生まれる(リンダにはステラの前に前夫との間に生まれた女の子が一人いて、後にポールが養女としました。このため、資料によっては三女と記載されているものもあります)。
両親は彼女に厳しいしつけを与え、ステラは、あえて東サセックスの地元の州立学校で教育を受ける。彼女は欲しい服を買うために地元のレストランで皿洗いのアルバイトをしたという。
12歳で、初めてジャケットをデザイン。15歳で、クリスチャン・ラクロワの最初のクチュールコレクションの仕事をし、その後、サビル・ローで修行を積む。
1995年、ロンドンのセント・マーティン(St Martins College of Art & Design)卒業コレクションで、モデルに友人であるナオミ・キャンベルやケイト・モスを起用。彼女の両親の名声もあり、一躍脚光を浴びる。彼女のコレクションはロンドンの有名セレクトショップ、トキオ(Tokio)によって買い占められ、自らのブランドを開始。彼女のデザインは、パッツィ・ケンジット、ケイト・モスらがすぐに着用するようになる。
1997年3月、カール・ラガーフェルドの後継者として、フランスのクチュールブランド、クロエのチーフ・デザイナーに指名される。当初、この指名はクロエを所有するヴァンドームグループ(現・リシュモン)の宣伝戦略と見られていた。事実、カール・ラガーフェルドは、独特の言い回しで、彼女を「Tシャツデザイナー」と呼んだ。しかし、1997年10月にパリで披露された彼女の最初のコレクションは、センセーショナルかつロマンティックで、魅力的にに仕上げられたレイシー・ペチコート・スカート、確かな技術に裏付けられたテーラーリング、70年代風な微妙なカシミアのトラウザースーツを見事に90年代風に仕立て上げた、すばらしいコレクションで、彼女の才能についての疑いを払拭した。次のシーズンには、彼女の功績はクロエに再び脚光を浴びせただけでなく、利益も上昇。ステラはクロエの売上げ高を500パーセント増加させた。
1998年4月、彼女の母親リンダが乳がんで亡くなったこともあり、リンダの影響を受けたステラは、動物愛護活動に熱心に取り組むようになる。PeTA (People for the Ethical Treatment of Animals)と協力して、毛皮流行週間の1か月後、動物愛護のビデオをリリース。2000年、ステラは彼女を「Stelly」と呼ぶマドンナのウェディングドレスをデザイン。
2000年4月、クロエとの契約を更新。このとき、グッチがYSLを買収したことに伴い、トム・フォードがYSLのデザイナーに移籍し、後任にステラを抜擢するとの噂が流れたが、革製品が重要なアイテムとなるグッチでの仕事を彼女は断り、あえてグッチよりも低いオファーのクロエを選んだという。2000年、VH1アワードおよび、ヴォーグ・ファッション・アンド・ミュージック・デザイナー・オブ・ザ・イアー受賞。
2001年3月、グッチはグローバルなラグジュアリーブランドとして、ステラの名を冠したブランドを開始すると発表。ステラはグッチとのパ−トナーシップの下、彼女のラベル「Stella McCartney」をスタートさせる。クロエの後任はステラの右腕として働いていたフィービー・フィロー(Phoebe Philo)が就任した。
この背景には、ステラと兄妹のように親しいトム・フォードがやはり、彼女の才能を捨て切れなかったことと、クロエから見ても毛皮は重要なアイテムであり、このことでクロエ上層部とステラがもめたと噂されている。
ステラ・マッカートニーのデビュー・コレクションは2001年10月の2002春夏パリコレクションで披露された。2001年8月、ステラが「Wallpaper」マガジンの発行者でグッチ好きで知られるアラスデア・ウィリス(Alasdhair Willis)とデートし始めたことが報道される。
2002年8月30日、かねてから噂のあったウィリスとスコットランドのビュート島で結婚。結婚式には、母親リンダが着用したウェディングドレスを基に、彼女とトム・フォードが共同でデザインしたドレスを着用。式にはマドンナ夫妻、リブ・タイラー、プリテンダーズのボーカルのクリッシー・ハインド、コールドプレイのクリス・マーティン、ケイト・モス、グウィネス・パルトロー、ピアース・ブロスナンらが出席した。2003年9月、バラの香りをベースにした初の香水「ステラ」を発売。同年同月、ロサンゼルス・ハリウッドにショップをオープン。
2005年春からはアディダスと提携し、女性のためのスポーツウェアライン、「Adidas by Stella McCartney(アディダス・バイ・ステラ・マッカートニー)」をスタートさせる。新ラインは、ランニングシューズやウェア、フィットネスウェア、水着などで構成され、2005年2月から発売される。「女性にとっては、スポーツもスタイルもどちらも大切です。なぜ私たちは、どちらか1つを犠牲にしなければならなかったのでしょう?」とステラ。アディダスによれば、これは長期にわたるコラボレートの始まりであり、今後すべてのスポーツ分野に展開していく予定だという。2005秋冬には新たにノルディックウォーキング(ヨーロッパでスキーやバイアスロンの選手が夏のトレーニングとして採用したエクササイズの一つ。ヨーロッパで新たなフィットネススポーツとして普及している)と登山ウェアを追加した。2006春夏にはテニス、2006秋冬にはスノボなどウィンタースポーツを加えた。
2005年には、2004秋のカール・ラガーフェルドに続き、H&Mとコラボレーション。ステラはアンダーウェアからアクセサリーまで40のアイテムをデザイン。ステラは、「H&Mのためにデザインすることが、私の服を多くの女性に紹介する最も刺激的で革新的な方法だと思いました」とのコメントを発表。H&Mのデザイン・ディレクター、Margareta Van den Boschは「私たちはステラをカール・ラガーフェルドの続きと見なしたくありませんでした。私たちは完全に異なるものがほしかったのです。それは、とてもフェミニンで、ソフトカラー、そしてとてもスウィートです」と語った。
2006年2月には初のアクセサリーフルコレクションを発表。上質でカラフルな、バッグ、財布、ラゲッジ、シューズ、ベルト、ジュエリーで、アクセサリーラインはすべてイタリア製。素材はナイロン、天然繊維、ビーズなどで革は使用されていない。コレクションは6月からステラ・マッカートニーの旗艦店などで販売される。小売価格は、95ドルから1595ドル。バックは195ドルから1395ドルで9ラインあり、それぞれAppaloosa、Dartmoor、Morgan、Brumby、Palomino、Mustang、Falabella、Pinto、Golborneと名づけられた。「バッグは靴、コート、ドレスと同じくらい重要です。女性は彼女自身を表現するためにバッグを使います」。しかし、ロゴは真鍮のメダルに使われるぐらいで、「私の顧客はロゴを見せびらかすようなことは好きではないと思います」とマッカートニー。
シューズは10ラインで395ドルから。「確かに革を使わないことは、私たちのポイントです。でも、それだけではなく、顧客が欲しいものがあるのでこのコレクションを買ってくれることを望みます。2005秋冬のひざ上ブーツは売り切れました。私は、顧客の90パーセントが、それらが革でないことを知らなかったことに喜んで賭けます」。ステラ・マッカートニーの最高経営責任者Marco Bizzarriは現在年間売上の約16パーセントしか占めていないアクセサリーの売上が3年以内に約30パーセントになるだろうと予測している。
彼女は厳密な菜食主義者で、毛皮を用いた仕事をすることを拒否。フレグランスでさえ、すべて自然な成分が使われているという。トム・フォードは、ステラを「彼女は、成功するための条件、強い意志とインテリジェンスを持っている。また、彼女はグレート・スタイル、テーストを持っている」と語る。
Swarovski スワロフスキー Austria
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歴史・解説
スワロフスキーの歴史は、19世紀に始まる。1892年、ボヘミア(現在のチェコ)の父親が働いていたガラス研磨工場で腕を磨いていたガラス職人のダニエル・スワロフスキー1世がジュエリーストーンをカットする機械を発明。それまでのハンドカットに比べ、時間も手間も大幅に短縮できたため、この機械はジュエリー業界に衝撃を与えた。
1895年、ダニエルは発明したカットマシーンの動力を確保するため、オーストリア・チロル州のワテンズにクリスタル工場を開く。同地にはアルプスの山から流れる豊富な水があり、まだその土地は未開拓だった。
やがて、ガラス原料の生産からクリスタルの生産にいたるまで、自社工場ですべて可能なシステムを作り、溶解炉や研磨工具なども開発。現在では自社ダムまで持ち、ジュエリーからファッション、インテリア照明、建築まで手がけている。白鳥をあしらったシンボルマークは、ガラスの純度の高さと透明度の象徴。
スワロフスキーが同じクリスタルでも、輝いているのは原料の配分に秘密がある。通常、クリスタルガラスは、珪砂、ソーダ灰、炭酸カルシウム、酸化鉛によってつくられるが、通常のガラスよりも酸化鉛の分量を多くし、透明度の高い光沢を生み出しているのである。
また、1935年には、天体観測と自然観察に興味を持っていたダニエル・スワロフスキーの息子ウィルヘルムが自分で使うための双眼鏡を製作。当初は、スワロフスキー社の中で双眼鏡を作り始め、1949年には近くのアブサムに光学製品の専門工場を設立。これが後のスワロフスキー・オプティック社となる。
当初は、洋服の装飾やアクセサリー用などの業務用を製造していたが、1976年ネズミの置物が市販され、知名度が高まる。
創立100年を迎えた1992年には、インスブルック・ワテンズにミュージアム「スワロフスキー・クリスタルヴェルテン」をオープン。地下にはクリスタルの迷宮、595の鏡で作られたクリスタルドームや世界最大のクリスタル「センテナー」などがある。2003年12月にはリニューアルし、年間60万人が訪れる。
日本法人は1973年に設立され、現在では世界中に12000店舗を展開。45万人のスワロフスキーコレクターを持つといわれている。
スワロフスキー・コレクターズ・ソサエティ(SCS)
1987年、世界中のクリスタル愛好家たちの熱烈な要望により誕生したSCSは、現在25カ国で30万人近くの会員がおり、会員だけが購入できる特別製品も販売。モダンダンスの情熱を語った2002年度限定作品「イザドラ」に続き、2003年「アントニオ」ではフラメンコの燃えるような激しい気質を表現。2004年はSCS三部作「マジック・オブ・ダンス」のフィナーレを飾るバレーリーナ「アンナ」が登場。
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歴史・解説
サルヴァトーレ・フェラガモは1898年にイタリア、ボニートで生まれ、幼い頃から靴屋で働き16歳でアメリカに渡る。マレーネ・デートリッヒ、キャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマンらを顧客にし、名声を高めた後、イタリアに戻り、27年フィレンツェで開業。
甲部を透明なナイロン糸で作った「見えない靴」、波状のウェッジ・ヒール、フラットフォームソールなどを生み出し、350の特許を取得。流行だけでなく、足にフィットした履き心地のよい靴を信条とし、死後(1960年)もブランドは妻と子供たちに受け継がれている。
「メード・イン・イタリー」にこだわり、ライセンス契約もサングラス以外には行っていない。
67年からは次女のジョバンナがレディス、メンズのプレタポルテを含めたトータルファッションを展開。現在のフェラガモ社のトップは45年、イタリア生まれで創始者のサルヴァトーレ、ワンダ夫妻の長男である、フェルッチオ・フェラガモCEO。18歳の時から家業に参加している。副社長でファッション部門の統括は次女の ジョヴァンナ・ジェンティーレ。
2000-2001年秋冬コレクションより、「チェルッティ」、「エルメス」、「トラサルディ」などで活躍し、プレタポルテの世界に積極的にストレッチ素材を導入したマーク・オディベがレディスのデザインを担当。2003年春夏からは、アルマーニにいたグレエム・グラックがデザイナーに就任。2002年秋冬からは初のスニーカーライン「FREEDOM」が登場。側面の「ガンチーニ」がフェラガモらしさを主張している。また、2003年5月7日には、700平方メートルの旗艦店を銀座中央通りにオープン。レディスからメンズのすべてのラインがそろい、オープン時には限定商品も発売。2003年11月、初のウォッチ発売。エレガントな曲線が連なるステンレスケース、クラシカルな数字を配したデザインで、デザインコンセプトは1939年のウェッジシューズ「ゼッパ」。
2004年10月5日、大阪ヒルトンプラザウエストに梅田本店オープン。レディスとメンズの全アイテムがそろう関西地区最大のブティックで、オープン記念限定商品は、フェラガモを代表するオーナメント「ガンチーニ」をファブリックにエンボス加工した、レザー&ファブリックのコンビ使いバッグ。形違いで3種類展開。記念限定商品は、レディス6種(バッグ・小物)、メンズ4種(シューズ・小物)の全10アイテムを用意。各レディスアイテムには「OSAKA opening 2004」と刻印されたガンチーニ型レザーチャーム付き。メンズはアニマルプリントが施されたヘアカーフ素材のローファー。その他、同素材のベルト、財布、キーリングは梅田品店と銀座本店のみの限定商品。
2004年11月、ジャカード織素材のバッグ、小物の新シリーズ「ガンチョ・ロゴ」を発売。ブランドの象徴でもある「ガンチーニ」を織の模様に使用。リボンとカーフを組み合わせた。
日本ではアオイ系列のフェラガモ・ジャパンが展開している。
Samantha Thavasa サマンサ・タバサ Japan
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歴史・解説
サマンサタバサは1996年、創業。Gal系ファッションに身を包んだ、女のコに人気のバッグブランド。コンセプトは魔女の「マジカルエレガンス」、5年間に売り上げは12倍にまで躍進した。ブランド名は1960年代のアメリカの人気テレビ番組「奥様は魔女」の主人公サマンサと、その娘タバサの名前に由来する。また、ヒルトン姉妹を広告に起用。カジュアルで、キュート&カラフルで、かわいいバッグが多い。「JJ」は毎月サマンサのページを掲載しており、ANAの限定バッグやフジテレビとのコラボによる女子アナバッグも有名。
2002年11月12日、 銀座2丁目に旗艦店をオープン。2003年2月、代官山にサマンサベガとバイオレットハンガーの旗艦店をオープン。2003年4月、六本木ヒルズにサマンサ・タバサ・ニューヨークオープン。また、2003年4月からはジュエリーをスタート。ジュエリーのイメージガールは、ベッカム夫人のヴィクトリア・ベッカム。6月に青山骨董通りの近くにジュエリー専門店「サマンサティアラbyサマンサタバサ青山店」オープン。オープニングテープカットは、もちろん、ヴィクトリア・ベッカム。同店は2フロア構成。1階は白を基調とした空間でトレンド感のあるジュエリーを2万円代から。2階はダークブラウンを基調にエレガント感のある空間で、モナコ在住デザイナーのファニー・ブロンシュロンドゥのジュエリーをはじめ、ハイクラスのジュエリーを、価格は20万円代から展開する。2003年11月には銀座中央通りにもサマンサタバサのジュエリー専門店を開き、2003秋には新宿、心斎橋、神戸などにも出店。2004年2月までに10店体制にする方針。ジュエリーにはヒルトン姉妹の姉のほうがデザインするラインも予定されている。
2004秋冬のキャンペーンモデルはビヨンセ。2004年小物ラインの「サマンサ・タバサ・プチ・チョイス」開始。2005年3月「サマンサタバサデラックス」とジュエリーブランド「サマンサシルヴァ by サマンサティアラ」のプロモーションモデルに蛯原友里を起用。
2005年4月20日、表参道交差点角に「サマンサタバサDELUXE表参道GATES店」をオープン。内装は森田恭通が手掛け、桐島ローランドが撮影した写真を外壁にエッチング処理で使用。同ビル屋上の大型看板ボード3面には、毎月同ブランドのプロモーションモデルの広告やニュースなどが映し出される。1階フロアではバッグ、2階フロアではバッグとジュエリー、3階にはリラクゼーションスペース「セレブリティティルーム」や、同ビル5階にオープンした「フェイスプラス」のフェイスエステやマッサージが受けられるサマンサタバサメンバーズ用の「サマンサタバサリゾート」が設置されている。
サマンサタバサには「サマンサ・タバサ」、「サマンサ・タバサ・ニューヨーク」、「サマンサ・ベガ」、「バイオレット・ハンガー」、「ダーリン・ダーリン」の5ラインがある。それぞれの特徴は、
サマンサ・タバサ
基幹ブランド。定番商品はオルラーレ。持ち手部分が木なのが特徴だったが、ラインストーンのついたものも登場。最近では、クレエトートを定番化しようとしている。
サマンサ・ベガ
サマンサ・タバサの妹的存在で、タバサよりもっと可愛いめのデザイン。珍しい形のも多く、価格もややリーズナブル。元気、キュートがキーワードでニューカジュアルを提案。
サマンサ・タバサ・ニューヨーク
逆にニューヨークはサマンサタバサのお姉さんブランド。大人っぽく、落着いたデザインで、サマンサタバサいわく「都会に生きる大人の女性向け」ブランド。ヒルトン姉妹の妹のほうニッキーがデザインしているのもこのライン。ニッキーの好きな星座をモチーフにしたものも多い。価格はやや高め。2003春夏からNYのデザイナー2名を起用した。
バイオレット・ハンガー
エレガントでセクシーをテーマにした大人向けブランド。いまいち、ニューヨークとの違いがよくわからないけど、こちらのほうがセクシー。サイケデリックバッグなどを展開している。
ダーリン・ダーリン
スタイリストのえなみ真理子と組み、ヨーロピアン感覚の服やインテリア雑貨も加えたセレクトショップにする方針。2003年3月28日、銀座にオープンした路面店は、カフェも併設している。
Stella McCartney ステラ・マッカートニー England.
Stella McCartney ステラ・マッカートニーの高額商品はこちら
歴史・解説
ステラ・マッカートニーは1971年9月13日、元ビートルズのメンバーだったポール(Paul)とリンダ・マッカートニー(Linda McCartney、旧姓Linda Eastman)の次女としてロンドンに生まれる(リンダにはステラの前に前夫との間に生まれた女の子が一人いて、後にポールが養女としました。このため、資料によっては三女と記載されているものもあります)。
両親は彼女に厳しいしつけを与え、ステラは、あえて東サセックスの地元の州立学校で教育を受ける。彼女は欲しい服を買うために地元のレストランで皿洗いのアルバイトをしたという。
12歳で、初めてジャケットをデザイン。15歳で、クリスチャン・ラクロワの最初のクチュールコレクションの仕事をし、その後、サビル・ローで修行を積む。
1995年、ロンドンのセント・マーティン(St Martins College of Art & Design)卒業コレクションで、モデルに友人であるナオミ・キャンベルやケイト・モスを起用。彼女の両親の名声もあり、一躍脚光を浴びる。彼女のコレクションはロンドンの有名セレクトショップ、トキオ(Tokio)によって買い占められ、自らのブランドを開始。彼女のデザインは、パッツィ・ケンジット、ケイト・モスらがすぐに着用するようになる。
1997年3月、カール・ラガーフェルドの後継者として、フランスのクチュールブランド、クロエのチーフ・デザイナーに指名される。当初、この指名はクロエを所有するヴァンドームグループ(現・リシュモン)の宣伝戦略と見られていた。事実、カール・ラガーフェルドは、独特の言い回しで、彼女を「Tシャツデザイナー」と呼んだ。しかし、1997年10月にパリで披露された彼女の最初のコレクションは、センセーショナルかつロマンティックで、魅力的にに仕上げられたレイシー・ペチコート・スカート、確かな技術に裏付けられたテーラーリング、70年代風な微妙なカシミアのトラウザースーツを見事に90年代風に仕立て上げた、すばらしいコレクションで、彼女の才能についての疑いを払拭した。次のシーズンには、彼女の功績はクロエに再び脚光を浴びせただけでなく、利益も上昇。ステラはクロエの売上げ高を500パーセント増加させた。
1998年4月、彼女の母親リンダが乳がんで亡くなったこともあり、リンダの影響を受けたステラは、動物愛護活動に熱心に取り組むようになる。PeTA (People for the Ethical Treatment of Animals)と協力して、毛皮流行週間の1か月後、動物愛護のビデオをリリース。2000年、ステラは彼女を「Stelly」と呼ぶマドンナのウェディングドレスをデザイン。
2000年4月、クロエとの契約を更新。このとき、グッチがYSLを買収したことに伴い、トム・フォードがYSLのデザイナーに移籍し、後任にステラを抜擢するとの噂が流れたが、革製品が重要なアイテムとなるグッチでの仕事を彼女は断り、あえてグッチよりも低いオファーのクロエを選んだという。2000年、VH1アワードおよび、ヴォーグ・ファッション・アンド・ミュージック・デザイナー・オブ・ザ・イアー受賞。
2001年3月、グッチはグローバルなラグジュアリーブランドとして、ステラの名を冠したブランドを開始すると発表。ステラはグッチとのパ−トナーシップの下、彼女のラベル「Stella McCartney」をスタートさせる。クロエの後任はステラの右腕として働いていたフィービー・フィロー(Phoebe Philo)が就任した。
この背景には、ステラと兄妹のように親しいトム・フォードがやはり、彼女の才能を捨て切れなかったことと、クロエから見ても毛皮は重要なアイテムであり、このことでクロエ上層部とステラがもめたと噂されている。
ステラ・マッカートニーのデビュー・コレクションは2001年10月の2002春夏パリコレクションで披露された。2001年8月、ステラが「Wallpaper」マガジンの発行者でグッチ好きで知られるアラスデア・ウィリス(Alasdhair Willis)とデートし始めたことが報道される。
2002年8月30日、かねてから噂のあったウィリスとスコットランドのビュート島で結婚。結婚式には、母親リンダが着用したウェディングドレスを基に、彼女とトム・フォードが共同でデザインしたドレスを着用。式にはマドンナ夫妻、リブ・タイラー、プリテンダーズのボーカルのクリッシー・ハインド、コールドプレイのクリス・マーティン、ケイト・モス、グウィネス・パルトロー、ピアース・ブロスナンらが出席した。2003年9月、バラの香りをベースにした初の香水「ステラ」を発売。同年同月、ロサンゼルス・ハリウッドにショップをオープン。
2005年春からはアディダスと提携し、女性のためのスポーツウェアライン、「Adidas by Stella McCartney(アディダス・バイ・ステラ・マッカートニー)」をスタートさせる。新ラインは、ランニングシューズやウェア、フィットネスウェア、水着などで構成され、2005年2月から発売される。「女性にとっては、スポーツもスタイルもどちらも大切です。なぜ私たちは、どちらか1つを犠牲にしなければならなかったのでしょう?」とステラ。アディダスによれば、これは長期にわたるコラボレートの始まりであり、今後すべてのスポーツ分野に展開していく予定だという。2005秋冬には新たにノルディックウォーキング(ヨーロッパでスキーやバイアスロンの選手が夏のトレーニングとして採用したエクササイズの一つ。ヨーロッパで新たなフィットネススポーツとして普及している)と登山ウェアを追加した。2006春夏にはテニス、2006秋冬にはスノボなどウィンタースポーツを加えた。
2005年には、2004秋のカール・ラガーフェルドに続き、H&Mとコラボレーション。ステラはアンダーウェアからアクセサリーまで40のアイテムをデザイン。ステラは、「H&Mのためにデザインすることが、私の服を多くの女性に紹介する最も刺激的で革新的な方法だと思いました」とのコメントを発表。H&Mのデザイン・ディレクター、Margareta Van den Boschは「私たちはステラをカール・ラガーフェルドの続きと見なしたくありませんでした。私たちは完全に異なるものがほしかったのです。それは、とてもフェミニンで、ソフトカラー、そしてとてもスウィートです」と語った。
2006年2月には初のアクセサリーフルコレクションを発表。上質でカラフルな、バッグ、財布、ラゲッジ、シューズ、ベルト、ジュエリーで、アクセサリーラインはすべてイタリア製。素材はナイロン、天然繊維、ビーズなどで革は使用されていない。コレクションは6月からステラ・マッカートニーの旗艦店などで販売される。小売価格は、95ドルから1595ドル。バックは195ドルから1395ドルで9ラインあり、それぞれAppaloosa、Dartmoor、Morgan、Brumby、Palomino、Mustang、Falabella、Pinto、Golborneと名づけられた。「バッグは靴、コート、ドレスと同じくらい重要です。女性は彼女自身を表現するためにバッグを使います」。しかし、ロゴは真鍮のメダルに使われるぐらいで、「私の顧客はロゴを見せびらかすようなことは好きではないと思います」とマッカートニー。
シューズは10ラインで395ドルから。「確かに革を使わないことは、私たちのポイントです。でも、それだけではなく、顧客が欲しいものがあるのでこのコレクションを買ってくれることを望みます。2005秋冬のひざ上ブーツは売り切れました。私は、顧客の90パーセントが、それらが革でないことを知らなかったことに喜んで賭けます」。ステラ・マッカートニーの最高経営責任者Marco Bizzarriは現在年間売上の約16パーセントしか占めていないアクセサリーの売上が3年以内に約30パーセントになるだろうと予測している。
彼女は厳密な菜食主義者で、毛皮を用いた仕事をすることを拒否。フレグランスでさえ、すべて自然な成分が使われているという。トム・フォードは、ステラを「彼女は、成功するための条件、強い意志とインテリジェンスを持っている。また、彼女はグレート・スタイル、テーストを持っている」と語る。
Swarovski スワロフスキー Austria
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歴史・解説
スワロフスキーの歴史は、19世紀に始まる。1892年、ボヘミア(現在のチェコ)の父親が働いていたガラス研磨工場で腕を磨いていたガラス職人のダニエル・スワロフスキー1世がジュエリーストーンをカットする機械を発明。それまでのハンドカットに比べ、時間も手間も大幅に短縮できたため、この機械はジュエリー業界に衝撃を与えた。
1895年、ダニエルは発明したカットマシーンの動力を確保するため、オーストリア・チロル州のワテンズにクリスタル工場を開く。同地にはアルプスの山から流れる豊富な水があり、まだその土地は未開拓だった。
やがて、ガラス原料の生産からクリスタルの生産にいたるまで、自社工場ですべて可能なシステムを作り、溶解炉や研磨工具なども開発。現在では自社ダムまで持ち、ジュエリーからファッション、インテリア照明、建築まで手がけている。白鳥をあしらったシンボルマークは、ガラスの純度の高さと透明度の象徴。
スワロフスキーが同じクリスタルでも、輝いているのは原料の配分に秘密がある。通常、クリスタルガラスは、珪砂、ソーダ灰、炭酸カルシウム、酸化鉛によってつくられるが、通常のガラスよりも酸化鉛の分量を多くし、透明度の高い光沢を生み出しているのである。
また、1935年には、天体観測と自然観察に興味を持っていたダニエル・スワロフスキーの息子ウィルヘルムが自分で使うための双眼鏡を製作。当初は、スワロフスキー社の中で双眼鏡を作り始め、1949年には近くのアブサムに光学製品の専門工場を設立。これが後のスワロフスキー・オプティック社となる。
当初は、洋服の装飾やアクセサリー用などの業務用を製造していたが、1976年ネズミの置物が市販され、知名度が高まる。
創立100年を迎えた1992年には、インスブルック・ワテンズにミュージアム「スワロフスキー・クリスタルヴェルテン」をオープン。地下にはクリスタルの迷宮、595の鏡で作られたクリスタルドームや世界最大のクリスタル「センテナー」などがある。2003年12月にはリニューアルし、年間60万人が訪れる。
日本法人は1973年に設立され、現在では世界中に12000店舗を展開。45万人のスワロフスキーコレクターを持つといわれている。
スワロフスキー・コレクターズ・ソサエティ(SCS)
1987年、世界中のクリスタル愛好家たちの熱烈な要望により誕生したSCSは、現在25カ国で30万人近くの会員がおり、会員だけが購入できる特別製品も販売。モダンダンスの情熱を語った2002年度限定作品「イザドラ」に続き、2003年「アントニオ」ではフラメンコの燃えるような激しい気質を表現。2004年はSCS三部作「マジック・オブ・ダンス」のフィナーレを飾るバレーリーナ「アンナ」が登場。
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Ralph Lauren ラルフ・ローレン U.S.A.
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歴史・解説
ラルフ・ローレン(ラルフ・リフシッツ、ローレンは後に父親が姓を変更したため)は1939年アメリカ・ニューヨークに4人兄弟の末っ子として生まれた。両親はロシア系ユダヤ人の移民。ブルックス・ブラザースのネクタイ売り場を担当していた頃、彼のアイデアではじめた幅広のネクタイが大ヒットし、これがきっかけとなり67年ボー・フランメル社に迎えられ、「ポロ」のブランド名で本格的に高級な手作りネクタイの部門を開設する。ここで発表したワイドタイがヒットして、独立。68年、メンズウェアを手がける「ポロ・ラルフ ローレン」社を設立、コレクションを発表。ブリティッシュ・マインドの中に、機能性やアメリカらしいカジュアル感を持ち込んだ新しいアメリカン・トラディショナルを打ち出す。
70年、メンズウェア部門でコティ賞受賞。71年からは、婦人服も手がけ、上品で伝統的なテーラードスーツが好評を得る。この年、初の路面店をビバリーヒルズにオープン。メンズウェア部門でトニー賞受賞。73年映画「華麗なるギャッビー」、77年にはウッディ・アレン監督でアカデミー賞受賞作品「アニーホール」の衣装を手がけ、とくにアニーホールのダイアン・キートンの衣装は一躍、マニッシュスタイルのブームを巻き起こした。
78年、初のフレグランス「POLO FOR MEN」、「LAUREN FOR WOMEN」発表。ボーイズウェア「POLO FOR BOYS」発表。米国トランスワールド航空のユニフォームをデザイン。弟ブランドともいえるメンズウェア「チャップス・ラルフ ローレン」発表。79年、メンズ用フレグランス「CHAPS」発表。81年、ロンドン、ボンド・ストリートに路面店をオープン。ガールズウェア「RALPH LAUREN FOR GIRLS」発表。ポロ初の複数ページキャンペーン開始。米国ファッションデザイナー協議会賞受賞。
82年、FOOTWEAR発表。83年、ホームファニシング「THE RALPH LAULEN HOME COLLECTION」発表。85年、婦人バッグ発表。86年、ニューヨーク・マジソンアベニュー72丁目に本店をオープン。89年、ゴルフウェア「POLO BY RALPH LAUREN FUNCTIONAL GOLFWEAR」発表。
90年、サファリファッションに合わせ、レディス用フレグランス「SAFARI」発売。クリスタル、陶器、テーブルリネンなどの「RALPH RAUREN TABLETOP COLLECTION」発表。91年、メンズ用フレグランス「POLO CREST」発表。92年、アメリカズカップ「アメリカ・キューブ・ファンデーション」にユニフォームとスポーツウェアを提供。93年「RRL(ダブルアールエル)」発表。マジソンに「ポロ・スポーツ・ショップ」をオープンし、「ポロ・スポーツ」開始。94年、ウィメンズ新ライン「RALPH」発表。
95年、最高級ラインであるイタリア縫製のメンズライン「RALPH LAUREN PURPLE LABEL」発表。ベビー・トドラーライン「RALPH LAULEN INFANTS AND TODDLERS」、「RALPH LAULEN LAYETTE」発表。96年、彼の息子世代に向けて「POLO JEANS CO.(ポロ・ジーンズ カンパニー)発表。ウィメンズ新ブランド「LAUREN」発表。98年、レディス用フレグランス「ロマンス」発表。
国内展開
国内では、当初、西武百貨店 ラルフ・ローレン事業部が展開。後に西武百貨店100%出資の「ポロ・ラルフ ローレン ジャパンを設立し、ここがブランド管理と広報宣伝を展開。シャツ、ソックス、タイと各アイテムごとに違う会社にライセンスを行っていたが、後にオンワードに集約。現在ではオンワードの関連会社であるインパクト21が店舗展開も含め、レディスを展開。オンワード以外では子供服、ソックス、ゴルフをナイガイが、寝具を市田が、インパクト21のグループ企業、パートナー21がポロ・ジーンズ、アクティ21がメンズを展開している。
2003年、オンワード、西武、米国本社が出資する、新生「ポロ・ラルフ ローレン ジャパン」社を設立予定。インパクト21、パートナー21、アクティ21はインパクト21に合併される。ポロ・ラルフ ローレン ジャパンは米国本社が50%、オンワードが45%、西武が5%出資、米国本社は新生インパクト21にも18.1%出資する。また、同社設立に伴い、2003年2月に原宿店閉店を受けて、2006年3月、表参道に旗艦店をオープン。
各ライン
ラルフ・ローレンのライン数は多いので、これも結構わかりにくいのですが、レディスでは「コレクション」、「ブラック」、「アールエル」、「スポーツ」の4ライン。アメリカ本国ではこれに、カジュアル向けで平場対応の「ラルフ」が存在します。
「コレクション」はRALPH LAURENブランドのファーストラインで、最高のクオリティーにファッション性を加味したスタイリング。メンズでの「パープル・レーベル」にあたり、米国および日本では、コレクションショップのみで展開。日本で展開しているのは表参道、銀座、池袋西武、神戸店のみ。
「ブラック」は「コレクション」に準じるラインで、シンプルなエレガンス・スタイル。「アールエル」は贅沢な素材とシンプルなデザインで、ファッション性をより強調。99年秋に「ラルフ」に変わって登場したモダンでニューヨーク的な、ニューキャリアスタイルの新ライン。「スポーツ」はトラディショナルではなくファッション志向の強い贅沢で高品質なスポーツマインドウエアを求めている女性のためにデザインされるブリッジ・コレクション。
メンズは最高級の「パープル」と通常の「ブルー」の2ライン。これにジーンズ、ソックス、ホームコレクション、子供服などが加わります。
アメリカの象徴でもあり、ある種「星条旗」を背負って立つブランド、それが「ラルフ・ローレン」。事実、ポロ・ジーンズには星条旗が描かれています。アメリカ人の心に根付いたブランドでもあり、あの高視聴率TVドラマ「フレンズ」にもレイチェルが勤務する会社として登場。レイチェルはラルフ・ローレン本社勤務で、ドラマには本物のラルフ・ローレンも出演しました。画面には「ラルフ・ローレン登場!」のテロップまで流れ、ちなみに日本語吹き替え版の声は有本欽隆。
REBECCA TAYLOR レベッカ・テイラー U.S.A.
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解説・歴史
レベッカ・テーラーは1969年、ニュージーランド生まれ。ウェリントン・スクール・オブ・デザイン(The Wellington School of Design)を卒業後、アメリカに渡り、シンシア・ローリーで5年間アシスタントデザイナーとしてドレス部門を担当。1996年、ビジネスパートナーであるElizabeth Hutchensと独立し、オリジナルブランドを創設。1999年にニューヨークコレクションデビュー。
子猫を思わせるセクシーなデザインと、ロマンティックでフェミニンな服が特徴。ジェニファー・ロペス、アシュレイ・ジャッド、ミニー・ドライバー、キャメロン・ディアス、ジュリア・スタイルズ、サラ・ジェシカ・パーカーらが着用。
2000年にはCFDAアワード、ペリー・エリス新人賞にノミネートされ、NYのニーマン・マーカス、ブルーミンデール、バーニーズ・ニューヨーク、LAのフレッド・シーガルなどで販売されている。
日本では2000年からレナウンによって展開されている。
Rochas ロシャス France.
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歴史・解説
ロシャスは1925年、マルセル・ロシャス(Marcel Rochas)によってパリに創立された。マルセル・ロシャスは1902年、パリに生まれ(1955年死去)、結婚後の1925年フォーブル・サントノーレにクチュール・メゾンを出店。すそをひきずるようなサファリ・スーツやシープスキンのジャケット、コルセットなどさまざまなアイデアを発表。国際的な評価と20世紀ファッションの多くを予言したデザイナーとして知られる。1930年には「ガラ」と呼ばれる大夜会で自分の顧客8人に同じドレスを着せてあえて鉢合わせさせるという、当時(今でも?)のタブーを犯したドタバタ劇を仕組んだなどのエピソードも知られている。
ロシャスは30年代に、ホワイトカラーを特徴とした白と黒のドレスを発表。ストロングショルダーが彼の特徴となる。1933年、後のスキャパレリ(SCHIAPARELLI)をイメージするようなビッグショルダーを発表。後に、スキャパレリと、この肩幅の広いシルエットのアイデアの主導権を巡って論争となる。
若々しく、シンプリシティ、個性を信条とした戦後モードへの先駆的な作品も多く、1932年のグレーフランネルのスーツ、1939年のシャツ型ブラウス、1941年には、砂時計型にロングスカートを組み合わせたディオールのニュールック風デザインを発表。そして1943年、彼の発明となるビスチェ(bustiers)を発表する。20世紀が進むとともに、コルセットの役割は減りつつあったが、1940年代には、ディオールがニュールックで細いウエストに注目が集まり、1945年には、マルセル・ロシャスは、腰まで覆った・ストラップブラ・ガードルを導入した。
50年代には、ロシャスは、カジュアルパンツやスーツへと転換。それは、またロシャスの別な斬新さをアピールすることとなる。ロシャスは、フラワーパターンを好み、四分の三丈コートをアピールし、スカートに始めてポケットを付けたデザイナーとしても知られている(諸説あります)。また、彼もまた、アクセサリー分野にも進出し、彼のブティックでそれらを販売した(当時、服のデザイナーとアクセサリーのデザイナーは完全に分かれていました)。
映画などにも深く関わり、自ら出演するほか衣装デザインも手がけ、Joan Crawford(ジョーン・クロフォード)、Marlene Dietrich(マレーネ・デートリッヒ)、Jean Harlow(ジーン・ハーロー)らに愛された。
1955年、マルセル・ロシャスは53歳で死去。ロシャスの妻、Heleneが、デザインを引き継ぐ。その後、多くのデザイナーがロシャスで働くこととなる。
1987年には、ドイツの化粧品大手ウエラが、ロシャスを買収。服よりもフレグランスブランドとして、名声を高めることとなる。1989年、アイルランド人デザイナー、ピーター・オブライアン(Peter O'Brien)がチーフ・デザイナーとして参加。オブライエンは、ロンドンのセント・マーティン(Central St. Martin's)とニュー・ヨークのパーソンズで学び、マルク・ボアン(Marc Bohan)、ディオール、ジバンシイ、クロエでキャリアを積んでいた。やがて、ロシャスはプレタポルテの開始を決定し、オブライエンは、2002年10月パリ・コレクションにおいて、ロシャス初のプレタポルテ、2003春夏コレクションを発表する。
2002年11月、ピーター・オブライアンが去ると、ロシャスは、わずか25歳のベルギー人デザイナー、オリヴィエ・ティスケンス(Olivier Theyskins)を次期デザイナー(アーティスティック・ディレクター)に採用する。
オリヴィエ・ティスケンス(Olivier Theyskins)
オリヴィエ・ティスケンスは1977年1月4日、ベルギー・ブリュッセル生まれ。ベルギー人の父とフランス人の母を持ち、Ecole Nationale Superieure des Arts Visuels de la Cambreで6ヶ月間だけ学び、彼がデザインしたドレスをたまたま、マドンナのスタイリストが彼女に見せたことにより彼の運命は一変する。世界中の誰もが、まだ、彼の名前を知らなかったにも関わらず、1999年のオスカー授賞式で、マドンナはオリヴィエがデザインした黄色いドレスを着用。彼の名前が一夜にして世界中に鳴り響くこととなる。
2001年秋、自らのブランド名で初のコレクションをパリで開催。1920年代のジーン・ハーローとグレタ・ガルボをイメージしたこのコレクションは大成功を収める。続いて2002年春夏コレクションも好評を収め、彼がパリの若手デザイナーの中で、最も有望な一人であることを証明した。2002年11月、ロシャスのチーフ・デザイナーに指名され、2003年3月の2003年秋冬で、彼の最初のコレクションが披露された。
ディスケンスの服は、マドンナの他、ニコール・キッドマン、ジェニファー・アニストンらが着用し、各有名ブランドから様々なオファーが寄せられたが、その中から彼はあえてロシャスを選んだ。「私が知っていたロシャス、それはまさに私向けでした」。
2004年オリヴィエ初のクリエイトによるフレグランス「Poupe(プペ)」発売(日本では5月発売)。フランス語で「人形」を意味し、ロシャスの名香「ファム」にインスピレーションを得た。ロシャスの洋服がかかるハンガーと同素材のオレンジのキャップに、オレンジの香り。
日本では香水と同様にウェアもブルーベル・ジャパンにより、2004-2005年秋冬から輸入販売される。
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歴史・解説
ラルフ・ローレン(ラルフ・リフシッツ、ローレンは後に父親が姓を変更したため)は1939年アメリカ・ニューヨークに4人兄弟の末っ子として生まれた。両親はロシア系ユダヤ人の移民。ブルックス・ブラザースのネクタイ売り場を担当していた頃、彼のアイデアではじめた幅広のネクタイが大ヒットし、これがきっかけとなり67年ボー・フランメル社に迎えられ、「ポロ」のブランド名で本格的に高級な手作りネクタイの部門を開設する。ここで発表したワイドタイがヒットして、独立。68年、メンズウェアを手がける「ポロ・ラルフ ローレン」社を設立、コレクションを発表。ブリティッシュ・マインドの中に、機能性やアメリカらしいカジュアル感を持ち込んだ新しいアメリカン・トラディショナルを打ち出す。
70年、メンズウェア部門でコティ賞受賞。71年からは、婦人服も手がけ、上品で伝統的なテーラードスーツが好評を得る。この年、初の路面店をビバリーヒルズにオープン。メンズウェア部門でトニー賞受賞。73年映画「華麗なるギャッビー」、77年にはウッディ・アレン監督でアカデミー賞受賞作品「アニーホール」の衣装を手がけ、とくにアニーホールのダイアン・キートンの衣装は一躍、マニッシュスタイルのブームを巻き起こした。
78年、初のフレグランス「POLO FOR MEN」、「LAUREN FOR WOMEN」発表。ボーイズウェア「POLO FOR BOYS」発表。米国トランスワールド航空のユニフォームをデザイン。弟ブランドともいえるメンズウェア「チャップス・ラルフ ローレン」発表。79年、メンズ用フレグランス「CHAPS」発表。81年、ロンドン、ボンド・ストリートに路面店をオープン。ガールズウェア「RALPH LAUREN FOR GIRLS」発表。ポロ初の複数ページキャンペーン開始。米国ファッションデザイナー協議会賞受賞。
82年、FOOTWEAR発表。83年、ホームファニシング「THE RALPH LAULEN HOME COLLECTION」発表。85年、婦人バッグ発表。86年、ニューヨーク・マジソンアベニュー72丁目に本店をオープン。89年、ゴルフウェア「POLO BY RALPH LAUREN FUNCTIONAL GOLFWEAR」発表。
90年、サファリファッションに合わせ、レディス用フレグランス「SAFARI」発売。クリスタル、陶器、テーブルリネンなどの「RALPH RAUREN TABLETOP COLLECTION」発表。91年、メンズ用フレグランス「POLO CREST」発表。92年、アメリカズカップ「アメリカ・キューブ・ファンデーション」にユニフォームとスポーツウェアを提供。93年「RRL(ダブルアールエル)」発表。マジソンに「ポロ・スポーツ・ショップ」をオープンし、「ポロ・スポーツ」開始。94年、ウィメンズ新ライン「RALPH」発表。
95年、最高級ラインであるイタリア縫製のメンズライン「RALPH LAUREN PURPLE LABEL」発表。ベビー・トドラーライン「RALPH LAULEN INFANTS AND TODDLERS」、「RALPH LAULEN LAYETTE」発表。96年、彼の息子世代に向けて「POLO JEANS CO.(ポロ・ジーンズ カンパニー)発表。ウィメンズ新ブランド「LAUREN」発表。98年、レディス用フレグランス「ロマンス」発表。
国内展開
国内では、当初、西武百貨店 ラルフ・ローレン事業部が展開。後に西武百貨店100%出資の「ポロ・ラルフ ローレン ジャパンを設立し、ここがブランド管理と広報宣伝を展開。シャツ、ソックス、タイと各アイテムごとに違う会社にライセンスを行っていたが、後にオンワードに集約。現在ではオンワードの関連会社であるインパクト21が店舗展開も含め、レディスを展開。オンワード以外では子供服、ソックス、ゴルフをナイガイが、寝具を市田が、インパクト21のグループ企業、パートナー21がポロ・ジーンズ、アクティ21がメンズを展開している。
2003年、オンワード、西武、米国本社が出資する、新生「ポロ・ラルフ ローレン ジャパン」社を設立予定。インパクト21、パートナー21、アクティ21はインパクト21に合併される。ポロ・ラルフ ローレン ジャパンは米国本社が50%、オンワードが45%、西武が5%出資、米国本社は新生インパクト21にも18.1%出資する。また、同社設立に伴い、2003年2月に原宿店閉店を受けて、2006年3月、表参道に旗艦店をオープン。
各ライン
ラルフ・ローレンのライン数は多いので、これも結構わかりにくいのですが、レディスでは「コレクション」、「ブラック」、「アールエル」、「スポーツ」の4ライン。アメリカ本国ではこれに、カジュアル向けで平場対応の「ラルフ」が存在します。
「コレクション」はRALPH LAURENブランドのファーストラインで、最高のクオリティーにファッション性を加味したスタイリング。メンズでの「パープル・レーベル」にあたり、米国および日本では、コレクションショップのみで展開。日本で展開しているのは表参道、銀座、池袋西武、神戸店のみ。
「ブラック」は「コレクション」に準じるラインで、シンプルなエレガンス・スタイル。「アールエル」は贅沢な素材とシンプルなデザインで、ファッション性をより強調。99年秋に「ラルフ」に変わって登場したモダンでニューヨーク的な、ニューキャリアスタイルの新ライン。「スポーツ」はトラディショナルではなくファッション志向の強い贅沢で高品質なスポーツマインドウエアを求めている女性のためにデザインされるブリッジ・コレクション。
メンズは最高級の「パープル」と通常の「ブルー」の2ライン。これにジーンズ、ソックス、ホームコレクション、子供服などが加わります。
アメリカの象徴でもあり、ある種「星条旗」を背負って立つブランド、それが「ラルフ・ローレン」。事実、ポロ・ジーンズには星条旗が描かれています。アメリカ人の心に根付いたブランドでもあり、あの高視聴率TVドラマ「フレンズ」にもレイチェルが勤務する会社として登場。レイチェルはラルフ・ローレン本社勤務で、ドラマには本物のラルフ・ローレンも出演しました。画面には「ラルフ・ローレン登場!」のテロップまで流れ、ちなみに日本語吹き替え版の声は有本欽隆。
REBECCA TAYLOR レベッカ・テイラー U.S.A.
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解説・歴史
レベッカ・テーラーは1969年、ニュージーランド生まれ。ウェリントン・スクール・オブ・デザイン(The Wellington School of Design)を卒業後、アメリカに渡り、シンシア・ローリーで5年間アシスタントデザイナーとしてドレス部門を担当。1996年、ビジネスパートナーであるElizabeth Hutchensと独立し、オリジナルブランドを創設。1999年にニューヨークコレクションデビュー。
子猫を思わせるセクシーなデザインと、ロマンティックでフェミニンな服が特徴。ジェニファー・ロペス、アシュレイ・ジャッド、ミニー・ドライバー、キャメロン・ディアス、ジュリア・スタイルズ、サラ・ジェシカ・パーカーらが着用。
2000年にはCFDAアワード、ペリー・エリス新人賞にノミネートされ、NYのニーマン・マーカス、ブルーミンデール、バーニーズ・ニューヨーク、LAのフレッド・シーガルなどで販売されている。
日本では2000年からレナウンによって展開されている。
Rochas ロシャス France.
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歴史・解説
ロシャスは1925年、マルセル・ロシャス(Marcel Rochas)によってパリに創立された。マルセル・ロシャスは1902年、パリに生まれ(1955年死去)、結婚後の1925年フォーブル・サントノーレにクチュール・メゾンを出店。すそをひきずるようなサファリ・スーツやシープスキンのジャケット、コルセットなどさまざまなアイデアを発表。国際的な評価と20世紀ファッションの多くを予言したデザイナーとして知られる。1930年には「ガラ」と呼ばれる大夜会で自分の顧客8人に同じドレスを着せてあえて鉢合わせさせるという、当時(今でも?)のタブーを犯したドタバタ劇を仕組んだなどのエピソードも知られている。
ロシャスは30年代に、ホワイトカラーを特徴とした白と黒のドレスを発表。ストロングショルダーが彼の特徴となる。1933年、後のスキャパレリ(SCHIAPARELLI)をイメージするようなビッグショルダーを発表。後に、スキャパレリと、この肩幅の広いシルエットのアイデアの主導権を巡って論争となる。
若々しく、シンプリシティ、個性を信条とした戦後モードへの先駆的な作品も多く、1932年のグレーフランネルのスーツ、1939年のシャツ型ブラウス、1941年には、砂時計型にロングスカートを組み合わせたディオールのニュールック風デザインを発表。そして1943年、彼の発明となるビスチェ(bustiers)を発表する。20世紀が進むとともに、コルセットの役割は減りつつあったが、1940年代には、ディオールがニュールックで細いウエストに注目が集まり、1945年には、マルセル・ロシャスは、腰まで覆った・ストラップブラ・ガードルを導入した。
50年代には、ロシャスは、カジュアルパンツやスーツへと転換。それは、またロシャスの別な斬新さをアピールすることとなる。ロシャスは、フラワーパターンを好み、四分の三丈コートをアピールし、スカートに始めてポケットを付けたデザイナーとしても知られている(諸説あります)。また、彼もまた、アクセサリー分野にも進出し、彼のブティックでそれらを販売した(当時、服のデザイナーとアクセサリーのデザイナーは完全に分かれていました)。
映画などにも深く関わり、自ら出演するほか衣装デザインも手がけ、Joan Crawford(ジョーン・クロフォード)、Marlene Dietrich(マレーネ・デートリッヒ)、Jean Harlow(ジーン・ハーロー)らに愛された。
1955年、マルセル・ロシャスは53歳で死去。ロシャスの妻、Heleneが、デザインを引き継ぐ。その後、多くのデザイナーがロシャスで働くこととなる。
1987年には、ドイツの化粧品大手ウエラが、ロシャスを買収。服よりもフレグランスブランドとして、名声を高めることとなる。1989年、アイルランド人デザイナー、ピーター・オブライアン(Peter O'Brien)がチーフ・デザイナーとして参加。オブライエンは、ロンドンのセント・マーティン(Central St. Martin's)とニュー・ヨークのパーソンズで学び、マルク・ボアン(Marc Bohan)、ディオール、ジバンシイ、クロエでキャリアを積んでいた。やがて、ロシャスはプレタポルテの開始を決定し、オブライエンは、2002年10月パリ・コレクションにおいて、ロシャス初のプレタポルテ、2003春夏コレクションを発表する。
2002年11月、ピーター・オブライアンが去ると、ロシャスは、わずか25歳のベルギー人デザイナー、オリヴィエ・ティスケンス(Olivier Theyskins)を次期デザイナー(アーティスティック・ディレクター)に採用する。
オリヴィエ・ティスケンス(Olivier Theyskins)
オリヴィエ・ティスケンスは1977年1月4日、ベルギー・ブリュッセル生まれ。ベルギー人の父とフランス人の母を持ち、Ecole Nationale Superieure des Arts Visuels de la Cambreで6ヶ月間だけ学び、彼がデザインしたドレスをたまたま、マドンナのスタイリストが彼女に見せたことにより彼の運命は一変する。世界中の誰もが、まだ、彼の名前を知らなかったにも関わらず、1999年のオスカー授賞式で、マドンナはオリヴィエがデザインした黄色いドレスを着用。彼の名前が一夜にして世界中に鳴り響くこととなる。
2001年秋、自らのブランド名で初のコレクションをパリで開催。1920年代のジーン・ハーローとグレタ・ガルボをイメージしたこのコレクションは大成功を収める。続いて2002年春夏コレクションも好評を収め、彼がパリの若手デザイナーの中で、最も有望な一人であることを証明した。2002年11月、ロシャスのチーフ・デザイナーに指名され、2003年3月の2003年秋冬で、彼の最初のコレクションが披露された。
ディスケンスの服は、マドンナの他、ニコール・キッドマン、ジェニファー・アニストンらが着用し、各有名ブランドから様々なオファーが寄せられたが、その中から彼はあえてロシャスを選んだ。「私が知っていたロシャス、それはまさに私向けでした」。
2004年オリヴィエ初のクリエイトによるフレグランス「Poupe(プペ)」発売(日本では5月発売)。フランス語で「人形」を意味し、ロシャスの名香「ファム」にインスピレーションを得た。ロシャスの洋服がかかるハンガーと同素材のオレンジのキャップに、オレンジの香り。
日本では香水と同様にウェアもブルーベル・ジャパンにより、2004-2005年秋冬から輸入販売される。
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Paul Smith ポール・スミス England
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歴史・解説
ポール・スミスは1946年、イギリス・ノッティンガム生まれ。15歳で洋服の卸問屋を手伝うようになり、1970年、24歳のときに自分の店「ポール・スミス・ショップ」をノッティンガムにオープン。自らデザインも手がける。伝統的なブリティッシュスタイルとロンドンのストリート感覚を融合させたモダンなメンズファッションが好評を得る。1974年、その噂を聞きつけた「ブラウンズ社」に、専任のコーディネーター兼デザイナーとして採用され、自らのショップを経営しながら、3年間同社の買いつけとブラウンズブランドの商品デザインを担当。77年、ポール・スミスブランドのシャツを縫っていたアールニューボールド工場が不景気のためつぶれそうになり、100年余りの歴史ある工場から伝統を守りたいと思ったポールは工場を買い取る。これが後に「本物のウエアを作り出す」というコンセプトのもと、アール・ニューボールドをスタートさせることとなる。無駄を省いたデザインの服は今でもこの工場を拠点とし、ウエアを生産している。
1977年パリでコレクションを発表。1979年、ロンドン市内コベントガーデンにショップをオープン。1982年、日本のジョイックス・コーポレーションと業務提携。1984年青山、1987年にはニューヨークにショップがオープン。1990年、従来よりも上の世代を狙った「ポール・スミス コレクション」スタート。展開店も区別し、イタリアを中心にした素材と縫製、「フレンチ・アンピレ」様式と称されるネオ・クラシカルなショップインテリアなど上質なクラシカルスタイルを追求した。1991年、英国産業デザイナー賞を受賞。1993年、ジーンズブランドとして「ポール・スミス・ジーンズ」を発表。1994年、カジュアルラインとして「アール・ニューボールド」を発表。1994年春夏よりレディスライン、「ポール・スミスウィメン」を発表。同年、エリザベス女王よりCBE勲章授与。1995年、ロンドンのデザインミュージアムでポール・スミスの展覧会「Paul Smith True Brit」を開催。これは後の1998年には日本の東京、神戸、福岡をでも開催された。1997年、イギリスのローバー社とのコラボレーションでミニをデザイン。1998年、「GQマン・オブ・ジ・イアー」を受賞。2000年7月、ロンドンとパリで香水「ポール・スミス パルファン」を発表。2001年、デザインへの勲功によりエリザベス女王よりナイト爵位(Sir)を授与される。2002年4月にイタリアで開催された家具のミラノ・サローネでCappellini社からモンド・コレクションが発表される。コレクションはソファー、チェアー、キャビネット、テーブル、アウトドア用テーブル&チェアー、ベッドなどで構成。ポール・スミス自身が撮影した写真が表面に直接プリントされたキャビネットやソファー、だまし絵のように座椅子部分に財布やスパゲッティーの写真がプリントされた椅子カバーなど。「ポール・スミス ウィメン」の路面旗艦店(フラッグシップショップ)を、2002年10月1日に南青山骨董通り沿いにオープン。
2006年3月10日、神宮前の「SPUTNIK PUD」跡地に、国内初のメンズ・レディス複合ショップ「Paul Smith SPACE(ポール・スミス スペース)」をオープン。地下1-3階の4フロアで、1階は、バッグやシューズ、2階に、オリジナルライン、コレクションラインの各メンズウエアのセレクト商品と、「Paul Smith Blue」などのウイメンズウエア。芝生のテラスが占める3階は、国内外のアーティストによる定期的な展示会場など、フリースペースとして使用する。地下1階は、メンズ・レディスの各カジュアルラインに、ポール・スミス自身が集めた書籍や小物をディスプレーするコーナーもある。
日本ではメンズがジョイックス、レディスがオンワード樫山によって展開されている。
PAULE KA ポール・カ France
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歴史・解説
ポール・カのデザイナー、セルジュ・キャシュファンジェ(Serge Cajfinger)は、1955年フランス生まれ。幼い頃から、ファッションに興味を持ち、母親とおば、Pauleからパリジャンのためのドレスメイキングを習う。1974年、わずか19歳で、自らの服をブティックで売り始め、1987年自らのブランドをスタート。ブランド名は彼のおばの名前から付けられた。
デザインソースは、彼自身の憧れでもあるオードリー・ヘプバーン、グレース・ケリー、ジャッキー・ケネディのような上品な女性。1998年には、アクセサリーラインを開始し、ハンドバッグ、シューズ、レザーグッズも展開している。「ポール・カのスタイルとは頭の先から爪先までシック」。
会社は家族経営で、直営ブティックはパリに3店、リヨン、ロンドン、香港、東京にあり、その他全世界の100を超えるショップで販売されている。
日本へは95年に上陸。2000年9月には、丸の内に旗艦店がオープン。三菱商事が日本への独占輸入権を所有し、同社の100%子会社であるユーロモーダが展開していたが、2004年、ビスケーHDがユーロモーダの発行済株式の51%を取得し子会社化した。
PRADA プラダ Italy
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歴史・解説
1913年創業。創業者のマリオ・プラダとその兄弟が、ミラノに皮革製品のインポート・ショップをオープン。旅行カバンや革小物を発表して以来、エレガントでハイセンスな商品をつくり続けている。1970年に国立ミラノ大学政治学科を卒業したミウッチャ(Miuccia・Prada)が祖父マリオの死後ビジネスに加わり、72年パトリツィオ・ベルテッリとの共同ビジネス開始。78年、ミウッチャ・プラダが3代目デザイナーに就任。85年シューズコレクションを発表。カジュアルなナイロン地であるポコノを使ったハンドバッグやリュックが大ヒット。88年レディースコレクションを発表し、1989年からウェアラインがスタート。92年姉妹ブランド「ミュウミュウ」、94年メンズコレクションを開始。
98年秋からは「アクティブスポーツ」というスポーツラインが登場。赤いラインが特徴だが、これは2000年から参加しているヨットのアメリカズカップで、プラダ号のセールにも掲げられている。アメリカ杯への参加後、このラインは「PRADA SPORTS」となった。
1999年、3月「ヘルムート・ラング(HELMUT LANG)」を買収。続いて8月、「ジル・サンダー(JIL SANDER)」を買収。9月にはイギリス靴の「チャーチ(CHURCHS)」も買収し、さらにLVMHと共同出資により「フェンディ(FENDI)」も買収した(後にLVMHに売却)。
日本法人はプラダ本社100%出資のプラダ・ジャパンに、ジル・サンダー、ヘルムート・ラング、チャーチの各ブランドと、アイウェアのEID、コスメティックのCIDの6社。いずれもプラダジャパンの青木栄子(前)社長が代表となっていたが、すべて独立法人であり、事業展開も独立して進められている。ただし、日本市場の戦略は事実上、プラダジャパンが統括して戦略の整合性をとっているほか、物流やITなど企業基盤の共通化も進めている。国内でのジル・サンダーは2001年春夏物、従来のサンフレールから新しいジャパン社の事業にすべて切り替わり、直営店は青山と大阪の路面店、百貨店インショップはレディス6店、メンズ1店を継続し、丸の内にも新しい路面店を出す計画。ヘルムート・ラングは2000年秋冬物から小売り及び卸売りを新しいジャパン社が行っている。チャーチも2000年秋冬物から新しいジャパン社が事業を引き継いでいる。(現在のプラダ・ジャパンの社長は本国から送り込まれたダヴィデ・セジア)。
2003年3月に銀座、6月7日青山に直営店を出店。青山店は「東京を舞台に世界に発信するプロジェクト」として位置付けられ、世界で2店舗目の「エピセンター(震源地)」と呼ぶブティック。ちなみに1店目は2001年末、元美術館の古いレンガ作りビルを改装したソーホーの店で、オランダ人建築家、レム・コールハウスが設計。壁面一杯のカラフルな絵、オブジェのような2倍サイズのマネキン、天井からぶら下がる移動式ゲージ、買物客が中に入ると液晶パネルのドアが透明から不透明に変わる試着室などで知られる。こうした設備の一部は青山店にも踏襲されると思われる。青山店の設計はヘルツォーグ&ド・ムロン。ジャック・ヘルツォーグとピエール・ド・ムーロンは、2000年に開館した、世界一の大きさを誇るモダンアートの美術館「テート・モダン」(ロンドン)の設計で脚光を浴びた。「エピセンター」はロサンゼルスにも開店する予定。
2004年には香水、新分野の高級時計と宝飾品に参入し、大阪、福岡にも路面店をオープンする。2004年、青山店限定で4種類の香水発売。
Pringle プリングル Scotland
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歴史・解説
プリングルは、キャラクタ−のライオンでも有名だが、イギリスを代表する英国王室御用達の老舗ニットブランド。1815年創業の老舗カシミヤメーカーで、最近は若返りをはかり、ベッカム夫妻、ジュリア・ロバーツなど、多くのセレブ愛用のブランドとして注目されている。アーガイル柄やツインニットなどを創り出したことでも有名。
創業者のロバート・プリングル(Robert Pringle)は1780年代に生まれ、ソックス、アンダーウェアなどの製造会社を1815年、スコットランドのHarwickに設立した。
プリングルは、カシミア、ラム、シェットランド、メリノなどのウールを展開するスコットランド最大の会社となり、長年、ドーソン・インターナショナル(Dawson International、世界最大のウールメーカー)の子会社だった。
1920-30年代にかけて、プリングルはカシミアのツイン・ニット、カーディガン、セーターで有名となり、ウィーン生まれのデザイナー、Otto Weiszはハリウッドの有名スターを顧客にかけ、ブランドをハイ・ファッションの位置にまで引き上げた。皇太后も、プリングルを愛していたといわれる。
2000年香港のファング・ブラザース・ニッティング社(Kenneth Fang)に900万ドルで買収されたことで、デザインチームを一新。CEOにキム・ウィンザー(Kim Winser)が就任し、2000年秋冬からイメージチェンジに取り組み、2001年春夏からは広告イメージも刷新。アイテムの幅も広げ、ニットアクセサリーやレザーグッズなども発売している。一方で、40、50年代のプリングルオリジナルのデザインを復刻させたものや、スワロフスキークリスタルのボタンを使用するなどデザイン性の高い商品も充実。ディフュージョンの「プリングル・カジュアルズ」も売り出し、ニット以外の素材を使ったアイテムにも積極的に取り組んでいる。ラムウールやコットンジャージーなどカジュアルな素材を使ったニットラインや、デニム、コーデュロイを使ったコート、ジャケットなどのアウターにも初挑戦。ジーンズやデニムスカートなどのボトムもそろえている。メンズラインのワッペンや、ナンバーを入れたVネックセーターは、学生服を思わせるデザイン。
2002年、デザイナーにスチュワート・ストックデイル(Stuart Stockdale)が就任。
スチュワート・スコットデイルは1970年生まれ。セントラル・セント・マーティン(Central St. Martins Fashion College)のデザイン科とロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学び、ロメオ・ジジリ、ジャスパー・コンラン、J・クルーを経てプリングルに入社した。
2002年秋にはロンドン・ボンドストリートと東京・青山にショップを同時にオープン。2003年春夏にはキャンペーンモデルに、ソフィー・ダールを起用し、さらなるイメージ進化を進め、また2003年春夏よりロンドンコレクションにも参加。2003年秋冬にはキャンペーンモデルは、ハイジ・クラムが引き継いだ。メンズラインは2003秋冬からミラノコレクションで発表されている。2005-2006秋冬コレクションからレディスもミラノで発表。
2005年5月スチュワート・ストックデール(Stuart Stockdale)が会社を去ったと発表。ストックデールは「別な創造的事業を手がける」とされているが、その詳細については明らかにされていない。
2005年7月、新クリエイティブディレクターに元グッチのClare Waight Kellerを起用すると発表。同時に新アクセサリーデザイナーに、同じく元グッチのSimona Ciacchiが加わる。
34歳のKellerは、2歳になる双子の母親で、セント・マーティンのファッション・アンド・テキスタイル科とロイヤル・カレッジ・オブ・アートのニットウェア科を卒業。カルバン・クラインでキャリアをスタートし、ラルフ・ローレンにいた時にトム・フォードにヘッドハントされ、2000年からグッチのデザインチームに加わっていた。プリングルのCEO、キム・ウィンザー(Kim Winser)は創設190周年を迎える9月までに新デザイナーを決定したいと考えていたとされ、「クレアはイタリアとアメリカのラグジュアリー・ブランドでのデザインに優れた実績を持っています。レディス・メンズ共に豊富な経験を持っており、これはプリングルにとって重大な要素です。ニットウェアに対する彼女の情熱と合わせて、これはプリングルが国際的な開発を継続するための完璧な選択です」とコメント。
Paul Smith ポール・スミスの高額商品はこちら
歴史・解説
ポール・スミスは1946年、イギリス・ノッティンガム生まれ。15歳で洋服の卸問屋を手伝うようになり、1970年、24歳のときに自分の店「ポール・スミス・ショップ」をノッティンガムにオープン。自らデザインも手がける。伝統的なブリティッシュスタイルとロンドンのストリート感覚を融合させたモダンなメンズファッションが好評を得る。1974年、その噂を聞きつけた「ブラウンズ社」に、専任のコーディネーター兼デザイナーとして採用され、自らのショップを経営しながら、3年間同社の買いつけとブラウンズブランドの商品デザインを担当。77年、ポール・スミスブランドのシャツを縫っていたアールニューボールド工場が不景気のためつぶれそうになり、100年余りの歴史ある工場から伝統を守りたいと思ったポールは工場を買い取る。これが後に「本物のウエアを作り出す」というコンセプトのもと、アール・ニューボールドをスタートさせることとなる。無駄を省いたデザインの服は今でもこの工場を拠点とし、ウエアを生産している。
1977年パリでコレクションを発表。1979年、ロンドン市内コベントガーデンにショップをオープン。1982年、日本のジョイックス・コーポレーションと業務提携。1984年青山、1987年にはニューヨークにショップがオープン。1990年、従来よりも上の世代を狙った「ポール・スミス コレクション」スタート。展開店も区別し、イタリアを中心にした素材と縫製、「フレンチ・アンピレ」様式と称されるネオ・クラシカルなショップインテリアなど上質なクラシカルスタイルを追求した。1991年、英国産業デザイナー賞を受賞。1993年、ジーンズブランドとして「ポール・スミス・ジーンズ」を発表。1994年、カジュアルラインとして「アール・ニューボールド」を発表。1994年春夏よりレディスライン、「ポール・スミスウィメン」を発表。同年、エリザベス女王よりCBE勲章授与。1995年、ロンドンのデザインミュージアムでポール・スミスの展覧会「Paul Smith True Brit」を開催。これは後の1998年には日本の東京、神戸、福岡をでも開催された。1997年、イギリスのローバー社とのコラボレーションでミニをデザイン。1998年、「GQマン・オブ・ジ・イアー」を受賞。2000年7月、ロンドンとパリで香水「ポール・スミス パルファン」を発表。2001年、デザインへの勲功によりエリザベス女王よりナイト爵位(Sir)を授与される。2002年4月にイタリアで開催された家具のミラノ・サローネでCappellini社からモンド・コレクションが発表される。コレクションはソファー、チェアー、キャビネット、テーブル、アウトドア用テーブル&チェアー、ベッドなどで構成。ポール・スミス自身が撮影した写真が表面に直接プリントされたキャビネットやソファー、だまし絵のように座椅子部分に財布やスパゲッティーの写真がプリントされた椅子カバーなど。「ポール・スミス ウィメン」の路面旗艦店(フラッグシップショップ)を、2002年10月1日に南青山骨董通り沿いにオープン。
2006年3月10日、神宮前の「SPUTNIK PUD」跡地に、国内初のメンズ・レディス複合ショップ「Paul Smith SPACE(ポール・スミス スペース)」をオープン。地下1-3階の4フロアで、1階は、バッグやシューズ、2階に、オリジナルライン、コレクションラインの各メンズウエアのセレクト商品と、「Paul Smith Blue」などのウイメンズウエア。芝生のテラスが占める3階は、国内外のアーティストによる定期的な展示会場など、フリースペースとして使用する。地下1階は、メンズ・レディスの各カジュアルラインに、ポール・スミス自身が集めた書籍や小物をディスプレーするコーナーもある。
日本ではメンズがジョイックス、レディスがオンワード樫山によって展開されている。
PAULE KA ポール・カ France
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歴史・解説
ポール・カのデザイナー、セルジュ・キャシュファンジェ(Serge Cajfinger)は、1955年フランス生まれ。幼い頃から、ファッションに興味を持ち、母親とおば、Pauleからパリジャンのためのドレスメイキングを習う。1974年、わずか19歳で、自らの服をブティックで売り始め、1987年自らのブランドをスタート。ブランド名は彼のおばの名前から付けられた。
デザインソースは、彼自身の憧れでもあるオードリー・ヘプバーン、グレース・ケリー、ジャッキー・ケネディのような上品な女性。1998年には、アクセサリーラインを開始し、ハンドバッグ、シューズ、レザーグッズも展開している。「ポール・カのスタイルとは頭の先から爪先までシック」。
会社は家族経営で、直営ブティックはパリに3店、リヨン、ロンドン、香港、東京にあり、その他全世界の100を超えるショップで販売されている。
日本へは95年に上陸。2000年9月には、丸の内に旗艦店がオープン。三菱商事が日本への独占輸入権を所有し、同社の100%子会社であるユーロモーダが展開していたが、2004年、ビスケーHDがユーロモーダの発行済株式の51%を取得し子会社化した。
PRADA プラダ Italy
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歴史・解説
1913年創業。創業者のマリオ・プラダとその兄弟が、ミラノに皮革製品のインポート・ショップをオープン。旅行カバンや革小物を発表して以来、エレガントでハイセンスな商品をつくり続けている。1970年に国立ミラノ大学政治学科を卒業したミウッチャ(Miuccia・Prada)が祖父マリオの死後ビジネスに加わり、72年パトリツィオ・ベルテッリとの共同ビジネス開始。78年、ミウッチャ・プラダが3代目デザイナーに就任。85年シューズコレクションを発表。カジュアルなナイロン地であるポコノを使ったハンドバッグやリュックが大ヒット。88年レディースコレクションを発表し、1989年からウェアラインがスタート。92年姉妹ブランド「ミュウミュウ」、94年メンズコレクションを開始。
98年秋からは「アクティブスポーツ」というスポーツラインが登場。赤いラインが特徴だが、これは2000年から参加しているヨットのアメリカズカップで、プラダ号のセールにも掲げられている。アメリカ杯への参加後、このラインは「PRADA SPORTS」となった。
1999年、3月「ヘルムート・ラング(HELMUT LANG)」を買収。続いて8月、「ジル・サンダー(JIL SANDER)」を買収。9月にはイギリス靴の「チャーチ(CHURCHS)」も買収し、さらにLVMHと共同出資により「フェンディ(FENDI)」も買収した(後にLVMHに売却)。
日本法人はプラダ本社100%出資のプラダ・ジャパンに、ジル・サンダー、ヘルムート・ラング、チャーチの各ブランドと、アイウェアのEID、コスメティックのCIDの6社。いずれもプラダジャパンの青木栄子(前)社長が代表となっていたが、すべて独立法人であり、事業展開も独立して進められている。ただし、日本市場の戦略は事実上、プラダジャパンが統括して戦略の整合性をとっているほか、物流やITなど企業基盤の共通化も進めている。国内でのジル・サンダーは2001年春夏物、従来のサンフレールから新しいジャパン社の事業にすべて切り替わり、直営店は青山と大阪の路面店、百貨店インショップはレディス6店、メンズ1店を継続し、丸の内にも新しい路面店を出す計画。ヘルムート・ラングは2000年秋冬物から小売り及び卸売りを新しいジャパン社が行っている。チャーチも2000年秋冬物から新しいジャパン社が事業を引き継いでいる。(現在のプラダ・ジャパンの社長は本国から送り込まれたダヴィデ・セジア)。
2003年3月に銀座、6月7日青山に直営店を出店。青山店は「東京を舞台に世界に発信するプロジェクト」として位置付けられ、世界で2店舗目の「エピセンター(震源地)」と呼ぶブティック。ちなみに1店目は2001年末、元美術館の古いレンガ作りビルを改装したソーホーの店で、オランダ人建築家、レム・コールハウスが設計。壁面一杯のカラフルな絵、オブジェのような2倍サイズのマネキン、天井からぶら下がる移動式ゲージ、買物客が中に入ると液晶パネルのドアが透明から不透明に変わる試着室などで知られる。こうした設備の一部は青山店にも踏襲されると思われる。青山店の設計はヘルツォーグ&ド・ムロン。ジャック・ヘルツォーグとピエール・ド・ムーロンは、2000年に開館した、世界一の大きさを誇るモダンアートの美術館「テート・モダン」(ロンドン)の設計で脚光を浴びた。「エピセンター」はロサンゼルスにも開店する予定。
2004年には香水、新分野の高級時計と宝飾品に参入し、大阪、福岡にも路面店をオープンする。2004年、青山店限定で4種類の香水発売。
Pringle プリングル Scotland
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歴史・解説
プリングルは、キャラクタ−のライオンでも有名だが、イギリスを代表する英国王室御用達の老舗ニットブランド。1815年創業の老舗カシミヤメーカーで、最近は若返りをはかり、ベッカム夫妻、ジュリア・ロバーツなど、多くのセレブ愛用のブランドとして注目されている。アーガイル柄やツインニットなどを創り出したことでも有名。
創業者のロバート・プリングル(Robert Pringle)は1780年代に生まれ、ソックス、アンダーウェアなどの製造会社を1815年、スコットランドのHarwickに設立した。
プリングルは、カシミア、ラム、シェットランド、メリノなどのウールを展開するスコットランド最大の会社となり、長年、ドーソン・インターナショナル(Dawson International、世界最大のウールメーカー)の子会社だった。
1920-30年代にかけて、プリングルはカシミアのツイン・ニット、カーディガン、セーターで有名となり、ウィーン生まれのデザイナー、Otto Weiszはハリウッドの有名スターを顧客にかけ、ブランドをハイ・ファッションの位置にまで引き上げた。皇太后も、プリングルを愛していたといわれる。
2000年香港のファング・ブラザース・ニッティング社(Kenneth Fang)に900万ドルで買収されたことで、デザインチームを一新。CEOにキム・ウィンザー(Kim Winser)が就任し、2000年秋冬からイメージチェンジに取り組み、2001年春夏からは広告イメージも刷新。アイテムの幅も広げ、ニットアクセサリーやレザーグッズなども発売している。一方で、40、50年代のプリングルオリジナルのデザインを復刻させたものや、スワロフスキークリスタルのボタンを使用するなどデザイン性の高い商品も充実。ディフュージョンの「プリングル・カジュアルズ」も売り出し、ニット以外の素材を使ったアイテムにも積極的に取り組んでいる。ラムウールやコットンジャージーなどカジュアルな素材を使ったニットラインや、デニム、コーデュロイを使ったコート、ジャケットなどのアウターにも初挑戦。ジーンズやデニムスカートなどのボトムもそろえている。メンズラインのワッペンや、ナンバーを入れたVネックセーターは、学生服を思わせるデザイン。
2002年、デザイナーにスチュワート・ストックデイル(Stuart Stockdale)が就任。
スチュワート・スコットデイルは1970年生まれ。セントラル・セント・マーティン(Central St. Martins Fashion College)のデザイン科とロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学び、ロメオ・ジジリ、ジャスパー・コンラン、J・クルーを経てプリングルに入社した。
2002年秋にはロンドン・ボンドストリートと東京・青山にショップを同時にオープン。2003年春夏にはキャンペーンモデルに、ソフィー・ダールを起用し、さらなるイメージ進化を進め、また2003年春夏よりロンドンコレクションにも参加。2003年秋冬にはキャンペーンモデルは、ハイジ・クラムが引き継いだ。メンズラインは2003秋冬からミラノコレクションで発表されている。2005-2006秋冬コレクションからレディスもミラノで発表。
2005年5月スチュワート・ストックデール(Stuart Stockdale)が会社を去ったと発表。ストックデールは「別な創造的事業を手がける」とされているが、その詳細については明らかにされていない。
2005年7月、新クリエイティブディレクターに元グッチのClare Waight Kellerを起用すると発表。同時に新アクセサリーデザイナーに、同じく元グッチのSimona Ciacchiが加わる。
34歳のKellerは、2歳になる双子の母親で、セント・マーティンのファッション・アンド・テキスタイル科とロイヤル・カレッジ・オブ・アートのニットウェア科を卒業。カルバン・クラインでキャリアをスタートし、ラルフ・ローレンにいた時にトム・フォードにヘッドハントされ、2000年からグッチのデザインチームに加わっていた。プリングルのCEO、キム・ウィンザー(Kim Winser)は創設190周年を迎える9月までに新デザイナーを決定したいと考えていたとされ、「クレアはイタリアとアメリカのラグジュアリー・ブランドでのデザインに優れた実績を持っています。レディス・メンズ共に豊富な経験を持っており、これはプリングルにとって重大な要素です。ニットウェアに対する彼女の情熱と合わせて、これはプリングルが国際的な開発を継続するための完璧な選択です」とコメント。
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Orla Kiely オーラカイリー England
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解説・歴史
オーラカイリー(Orla Kiely)はロンドンで活躍するアイルランド人デザイナー。アイルランドのダブリンにあるNational College of Art & Designにて勉強した後、ロンドン王立芸術大学(The Royal College of Art)の芸術修士課程(1990-1992年)を終了。現在も講師である彼女のブランドは1993年、ハロッズのために帽子をデザインをしたことから始まる。そのデザインが好評を得たことからラインはバッグやアクセサリーに拡大。1994年、現社長であり夫であるMr.Dermott Rowan(ダーモット ローワン)と共に会社(Kiely Rowan Ltd.)を設立。本格的にブランドをスタートさせた。1999年にはニューデザインスタジオをロンドンにオープンするとともに、衣類のコレクションもスタート。また、Paul CostelloでのアシスタントやEsprit、Club Monacoなどでのデザイン経験もある。
現在では、世界の300店舗を超える取引先から支持され、特に独創的な素材使いで演出されたバッグのコレクションが注目。プリントの定番トートバッグの他にもコルク素材にプリントしたバッグなど楽しいながらも機能的にデザインされている。
日本では、銀座山形屋の子会社であるシンパシーが、2002年秋冬物からの日本市場における独占販売契約を交わし、商品開発及び輸入販売を行っている(2003年4月に銀座山形屋はシンパシーをリベラルに営業譲渡)。従来の「Orla Kiely」ブランドに加え「ディフュージョンレーベル」もデビューした。現在、洋服までのフルラインナップがそろうのは、2003年4月にオープンした六本木ヒルズと新宿高島屋のみ。
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解説・歴史
オーラカイリー(Orla Kiely)はロンドンで活躍するアイルランド人デザイナー。アイルランドのダブリンにあるNational College of Art & Designにて勉強した後、ロンドン王立芸術大学(The Royal College of Art)の芸術修士課程(1990-1992年)を終了。現在も講師である彼女のブランドは1993年、ハロッズのために帽子をデザインをしたことから始まる。そのデザインが好評を得たことからラインはバッグやアクセサリーに拡大。1994年、現社長であり夫であるMr.Dermott Rowan(ダーモット ローワン)と共に会社(Kiely Rowan Ltd.)を設立。本格的にブランドをスタートさせた。1999年にはニューデザインスタジオをロンドンにオープンするとともに、衣類のコレクションもスタート。また、Paul CostelloでのアシスタントやEsprit、Club Monacoなどでのデザイン経験もある。
現在では、世界の300店舗を超える取引先から支持され、特に独創的な素材使いで演出されたバッグのコレクションが注目。プリントの定番トートバッグの他にもコルク素材にプリントしたバッグなど楽しいながらも機能的にデザインされている。
日本では、銀座山形屋の子会社であるシンパシーが、2002年秋冬物からの日本市場における独占販売契約を交わし、商品開発及び輸入販売を行っている(2003年4月に銀座山形屋はシンパシーをリベラルに営業譲渡)。従来の「Orla Kiely」ブランドに加え「ディフュージョンレーベル」もデビューした。現在、洋服までのフルラインナップがそろうのは、2003年4月にオープンした六本木ヒルズと新宿高島屋のみ。
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Neil Barrett ニール・バレット England
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解説・歴史
ニール・バレットは1965年、イギリス デヴォンにてテーラーの家に生まれる。セント・マーチンズを卒業後、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで修士号を取得。1989年、卒業発表を見たグッチにスカウトされ、89年から93年までの5年間、グッチのシニア・メンズデザイナーになり、94年からはプラダメンズウェアのスタート時に、ディレクターに就任。8シーズンにわたってプラダウォモのコレクションを手掛ける。98年、バッグメーカ−で有名なサムソナイトのアクティヴウェアのデザイナーに就任。1999年1月、はじめてニール・バレットの名でメンズコレクションをミラノで発表。2000年、ピッティ・イマジネ・ウォモの期間中、初のショーを開き、メンズとレディスの秋冬コレクションを発表。2001年春夏シーズンよりレディスコレクションをミラノコレクションにて発表。2001年8月29日、世界初の路面店を東京、青山にオープン。
スポーティーでありながら、ユーティリティー(機能的な)なウエアが特徴。コンフォータブルな着心地、フィット感を重視。英国の伝統的なテーラリング技術を投影させつつ、オーセンティックなアイテムで、上質な天然素材を多用している。
日本では、サン・フレールによって展開されている。
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解説・歴史
ニール・バレットは1965年、イギリス デヴォンにてテーラーの家に生まれる。セント・マーチンズを卒業後、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで修士号を取得。1989年、卒業発表を見たグッチにスカウトされ、89年から93年までの5年間、グッチのシニア・メンズデザイナーになり、94年からはプラダメンズウェアのスタート時に、ディレクターに就任。8シーズンにわたってプラダウォモのコレクションを手掛ける。98年、バッグメーカ−で有名なサムソナイトのアクティヴウェアのデザイナーに就任。1999年1月、はじめてニール・バレットの名でメンズコレクションをミラノで発表。2000年、ピッティ・イマジネ・ウォモの期間中、初のショーを開き、メンズとレディスの秋冬コレクションを発表。2001年春夏シーズンよりレディスコレクションをミラノコレクションにて発表。2001年8月29日、世界初の路面店を東京、青山にオープン。
スポーティーでありながら、ユーティリティー(機能的な)なウエアが特徴。コンフォータブルな着心地、フィット感を重視。英国の伝統的なテーラリング技術を投影させつつ、オーセンティックなアイテムで、上質な天然素材を多用している。
日本では、サン・フレールによって展開されている。
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Marc Jacobs マーク・ジェイコブス U.S.A.
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歴史・解説
マーク・ジェイコブスは1963年4月9日、ニューヨーク生まれ。ハイスクール・オブ・アート・デザインに通いながら、当時コロンバス・アヴェニューにあったヨーロッパ・ブランドのセレクトショップ、シャリパリで働く。81年卒業後、パーソンズ・スクール・オブ・デザインに入学。在学中の84年、卒業制作につくったニットのセーターが、ペリー・エリス金の指ぬき賞を受賞。86年カシヤマU.S.A.のバックアップにより初のコレクションを開催。87年、ペリー・エリス賞(新人デザイナー賞)を最年少で受賞。この頃、セブンス・アヴェニューのアパレル・メーカー、ルーベン・トーマス社で「スケッチ・ブック」という新ブランドのデザイナーとなる。ロバート・ダフィー(現在のMarc Jacobs International社長)と知り合い、パートナーシップを組みむ。
89年ペリー・エリスと契約し、チーフ・デザイナーに。グランジをハイファッションに持ち込んで、話題を集める。ちなみにこのとき、ペリー・エリスのデザインルームにはトム・フォードもいた。92年、米ファッション界の最高の名誉であるウーマンズ・デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。93年、ロバート・ダフィーとともに、ライセンスとデザインの会社、マーク・ジェイコブス・インターナショナル社を設立。94年、自身のコレクションでニューヨークコレクションに初参加。
95年、イタリア・ジルマー社の「アイスバーグ」のリニュアール時に協力を要請されたあと、レナウンルック(レナウンの子会社、現ルック)と契約し、ブリッジライン「マーク・ジェイコブス・ルック」スタート。97年にはアメリカ・ソーホーにファーストラインのフラッグショップオープン。自身のブランドでCFDAの「ウーマンズ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー賞」を受賞。
98年、ルイ・ヴィトンのレディスおよびメンズのプレタポルテとバッグ、シューズ製品のアーティスティック・ディレクターに指名され3月、初のコレクションを発表。2度目の「ウーマンズ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。初のメンズコレクションを発表。2000年秋冬から、マーク・ジェイコブス・コレクションラインで初めてのハンドバッグ・コレクションを発表。ソフィア・コッポラをキャンペーンモデルに起用し、世界キャンペーンを行う。 8月ソーホーに続く全米で2店舗目のマーク・ジェイコブス・コレクション直営店をサンフランシスコに、9月にはマーク・ジェイコブス・コレクションのメンズショップをブリーカー・ストリートにオープン。セカンドライン「マークbyマーク・ジェイコブス」をニューヨーク・コレクションで発表。2001年、初のフレグランスを発表。2004年8月、フォッシル社とウォッチのライセンス締結。契約では男女両方を含み、「マーク・ジェイコブス」、「マーク・バイ・マーク・ジェイコブス」の2ライン発売される。ともにスイス製で、マーク・ジェイコブスのブティックおよび百貨店などで発売。「マーク・ジェーコブス」ラインは2005年秋に発売開始され、クラシックでゴージャスなデザインが特徴。「マーク・バイ・マーク・ジェイコブス」は2006年に発売される。
2006秋、犬用グッズ「Bark Jacobs」、子供服「リトル・マーク(Little Marc)」を展開。
MARNI マルニ Italy
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歴史・解説
マルニのデザイナーはコンスエロ・カスティリオーニ(Consuelo Castiglioni)。もとはフェンディの毛皮などを手がける工場の社長夫人。1994年、「自分が本当に着たいものを、自分の手で」というコンセプトで、ブランドをスタート。当初は、毛皮コレクションのみを発表していたが、1996年から織物・ニット・アクセサリーを加えたトータルブランドとしてミラノコレクションに参加。1999年には伊「マルニ」とオンワード樫山の子会社バスストップとの合弁でマルニジャパンを設立。本格的なビジネスがスタートした。2000年秋以降、直営店のオープンがロンドン、ミラノ、パリ、ニューヨークと続き、南青山に、広さ約330平方メートルと、最も大きい旗艦店を開いた。2003年4月新宿高島屋にアクセサリーブティックオープン。
幼さの残るロマンティックな雰囲気、贅沢な素材使い、明るい色が、マルニのイメージ。色遣いと手仕事のぬくもりが残り、トレンドを敏感に反映しながら、優しくかわいい印象をアピールできるブランド。
メンズも展開されているが、これが手に入るのは青山店と渋谷モビィーダのみ。
Martin Margiela マルタン・マルジェラ Belgium
Martin Margiela マルタン・マルジェラの高額商品はこちら
歴史・解説
デザイナー、マルタン・マルジェラは1957年ベルギーに生れる。80年、アントワープ王立芸術学院卒業後ミラノで学び、84年より、ジャンポール・ゴルチェの下で修行を積む。88年10月の89春夏パリ・コレクションにてデビュー。シルエットの細いジャケットやボトムを提案し、これ以降の10年間、それまでのゆったりとしたミラノモードに対して、ボディ・フィット(スリム)なシルエットが全盛となったといわれる。その後、病院や駅でコレクションを行い、そこでボロ布を用いた衣装を発表し、注目を集める。コレクションでも、入り口でリボンが配られ、それを手首に巻くとリボンに書かれた文章がつながったり、古着の再生や新しい服の古着風加工など、独自の視点からの服作りを行う。90年代には逆に「大きめの服」を発表。94秋冬から大柄の女性と男性用に「XXL」サイズ開始。1998春夏ではコムデギャルソンとのコラボレーションを行う。98年から「エルメス」のレディス・プレタポルテのデザインも担当。98秋冬ではマーク・ボドウィックによるビデオ・プレゼンテーションやジェーン・ハウが人物大の人形を使って表現したインスタレーションを行う。99春夏からメンズラインスタート。2000年9月に世界初となる路面店を恵比寿にオープンした。2002年、青山店、2003年8月大阪店オープン。2004年春夏シーズンからレディスの新ライン「4」の販売を開始する。「4」は「6」よりも高価格の設定となる予定。2005春夏からベーシックライン「14」、2005秋冬からアクセサリーライン「11」、シューズライン「22」をスタート。
いわゆるシャビー・ルックの旗手として従来のモード界に新風を巻き起こし、以後グランジファッションの元祖的デザイナーとしての地位を確立した。ベルギー出身のアントワープ派デザイナーの中では別格の存在とされている。シャビールック(shabby look)とは高級志向の1980年代のアンチテーゼとして、マルタン・マルジェラが80年代の終わりに打ち出した貧困者風のスタイル。色あせたり、ほつれたり、わざと古着風に仕上げるなど、新しい価値観をもったファッションが注目され、90年代の新しい流れを作り上げた。基本的にインタビューは受け付けず、メディアへの対応はファックスなどによるアンケート形式をとる。
マルタン・マルジェラは数字にこだわっており、コレクションラインも数字ごとに分かれている。有名なカレンダータグに該当する数字に○が打たれ、「1」はレディスのコレクションライン。「6」女性のためのベーシックな服。「10」メンズライン。また、「9」がラッキーナンバーであり、フランスでマルタン・マルジェラを展開する会社はフランス語の「9」を意味する「ナフ(neuf)」と名づけられ、これに準じて日本での合弁会社は日本語で「9」を表す「ここのつ」から「ここのえ」と名づけられた。
日本ではワールド子会社のオリゾンティを経て、マルジェラを展開する仏ヌフ(パリ)、三菱商事、オリゾンティが共同で設立した「ここのえ(マルタン マルジェラ ジャパン)」によって販売されている。
2006年恵比寿の旗艦店を移転、リニューアル。より広くなった、ショップは工場だった造りを生かしながら、内装は以前と同じ白を基調に、コンテナや浴室があったり、天井からはチェーンが吊り下げられていたりと斬新なデザイン。
Mint Designs ミント・デザインズ Japan
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歴史・解説
ロンドンのセントラル・セントマーチンズ・カレッジ・オブ・アート ・アンド・デザインで同じ学年だった八木奈央と勝井北斗。そこに日本で服飾を学んでいた竹山祐輔が加わり、立ち上げられたブランド、ミントデザインズ。2001年にブランド開始。2002年10月東京コレクションに参加。人形型の柄をプリントした服は話題を呼び、2003年秋冬物では、ニットにも挑戦している。ブランド名の「ミント」には、さわやかなハーブのミントのほか、オークション用語で一番いい状態を指す「ミント・コンディション」、「真新しい」、イギリス英語のスラングで「いいね」、「希少価値のある」などの意味がある。そんなイメージを併せ持つ服作りを目指す。
勝井北斗(designer/director)は1973年、東京生まれ。1995-97年にパーソンズ・スクールオブデザイン・ニューヨーク・ウーマンズウェアデザイン科で学んだ後、1997年-2000年、セントラル・セントマーチンズ・カレッジオブアート&デザイン・ファッションデザイン&プリント科在学中にアレキサンダー・マックィーンのもとでアシスタントとして働く。2000年6月卒業コレクションにおいてセントマーチン代表として、GALA SHOW にて作品発表。2000年、セントマーチンズ卒業後i-D magazine(ロンドン)にて、ブック・プロジェクト 「SMILE- i-D」の制作に携わり、アシスタント・クリエイティブ・ディレクターとして働く。2001年4月、帰国。
八木奈央(designer/studio manager)は1973年、大阪府生まれ。1992年-96年、同志社大学、文学部、美術芸術学専攻。1997年-2000年、セントラル・セントマーチンズ・カレッジオブアート&デザインファッション デザイン・ウーマンズ科で学ぶ。2000年4月14日、中国服装協会主催の第8回ブラザーカップ国際青年デザイナーコンクールを作品テーマ「連接」で銅賞受賞。2000年-01年、セントマーチンズを首席で卒業後、フセイン・チャラヤンにてアシスタントデザイナーとして働く。2001年4月、帰国。
竹山祐輔 (chief creative technician)は1978年、埼玉県生まれ。1997年-00年、文化服装学院ファッション工科専門課程アパレル技術科で学び、2000年-01年卒業後、ロンドン、パリに滞在。帰国後、(株)モンブランで生産システム、縫製技術を学ぶ。
2003春夏コレクションは、東京・神宮前の一軒家を改装したカフェで開催。テーマは創作過程の間違いや偶然を前向きに生かそうという「ハッピーミステーク」。グラフィックデザインのプリント、ボタンはウオッシャブルの紙製、カットソーやワンピース、パンツなど、すべてコットン素材の日常着を提案した。
2003-04秋冬コレクションは原宿のカフェ、オーバカナルで行われた。置かれているコーヒーカップやグラスなどは白い毛糸のかぎ編みニットでくるまれ、ニットへの挑戦をアピールした。
miumiu ミュウミュウ Italy
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歴史・解説
1992年、ミウッチャ・プラダが自分自身のワードロープに影響されて、創出。ミュウミュウとはミウッチャの子供の頃の愛称。プラダと同様にシンプルでありながら、女の子特有の甘さや可愛らしさを表現。イメージガールにはドリュー・バリモアやクロエ・セヴィニーをキャスト。
2004秋冬キャンペーンボモデルはハリウッド女優の、MAGGIE GYLLENHAAL(マギー・ギレンホール)。
2006年秋冬コレクションから、発表の場をミラノからパリに移す。
Montblanc モンブラン German
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歴史・解説
1906年、ドイツの港町ハンブルグで小さな文房具店の主人クラウス・ヨハネス・フォス、銀行家クリスティアン・ラウゼン、ベルリン出身の技師ヴィルヘルム・ジャンポアの3人によって万年筆が製作される。これが、モンブランの起源となる。最初はキャップと軸だけを作り、ペン先はアメリカから輸入。スポイト式でエボナイト製だった。1908年、シンプロ・フィラー・ペン社が設立される。1910年、「赤い星」のマークがついたセイフティ・タイプ・ファウンテン・ペン「ルージュ・エ・ノワール」を発表。このネーミングはスタンダールの「赤と黒」から取ったとも言われている。同時にセイフティ型の「ディプロマット」も販売されたが、こちらのマークは「白い星」。この「白い星」は「世界一」を目指してヨーロッパ・アルプスの最高峰であるモンブランの名前にちなんでつけられたもの。現在に続く、「モンブラン」ブランドはここから始まる。ちなみに、ペン先の数字4810は、モンブランの標高を表している。1913年、「白い星(ホワイトスター)」を商標登録。
1919年には社名をジンプロ・フュルフェーダー株式会社と改める。この年にはドイツ海軍の将校であった、E・ロイスラーが技術統括責任者として入社して生産設備の機械化を進め、ペン先を自社工場で製造するようになる。
1924年、最初の「マイスターシュテュック」を製作。エボナイト製でセイフティ・タイプ。1927年、レバー・フィリング式のものが「マイスターシュテュック」のラインに加えられ、1929年ボタン・フィラーの「マイスターシュテュック」を製作。1934年に社名をモンブラン・ジンプロに変更。1935年、デスクアクセサリー開始。1957年、学生向きの低価格万年筆「モンテローザ」を発売。1973年、金属製のスリムなシリンダー型万年筆「ノブレス」を製作。
1977年、アルフレッド・ダンヒル社がモンブラン社の株を買い占め、1985年、ダンヒルがモンブランを買収。現在はダンヒルを買収したリシュモン・グループに属している。グループ内での売上高は、「カルティエ」に次ぐ規模を誇る。
1986年、「the art of writing」のコピー発表。1992年、限定品作家シリーズ開始。第1回はヘミングウェイ。1995年レザーコレクション開始。1996年、男性向けアクセサリーを皮切りにジュエリーライン開始。1997年ジュネーブサロンに参加し時計スタート。2000年「モンブラン ボエム」スタート。2001年、男性向けのフレグランス「Presence」発売、女性向けのバッグも開始する。
日本では、ダイや産業が輸入販売していたが、98年に日本法人を設立。現在は、モンブラン・ジャパン社によって展開され、1997年、銀座8丁目・並木通りに「モンブラン 銀座」オープン。
2001年9月4日ニューヨーク、シンガポールに次ぎ世界で3店舗目となる、直営フラッグシップショップ「モンブラン 銀座」を、7丁目にオープン。
2003年7月、新作筆記具コレクション「StarWalker(スターウォーカー)」発売。キャップトップは透明樹脂で成形され、そこにホワイトスターが浮かび上がる斬新なデザイン。宙を漂うような軽やかさがスターウォーカーの由来。スリムなボディに、やや樽型をしたキャップのフォルム。太めのクリップリングにはモンブランのロゴが刻まれている。
2004年2月、若い世代に向けた新作筆記具コレクション「SCENIUM(シニアム)発売。コンセプトは「究極のミニマリズム」で、マット仕上げされたスリムなボディ、シルバー・カラーのクリップにモンブラン・ロゴ、キャップトップに「ホワイトスター」というシンプリシティを追求したモダンデザイン。
Marc Jacobs マーク・ジェイコブスの高額商品はこちら
歴史・解説
マーク・ジェイコブスは1963年4月9日、ニューヨーク生まれ。ハイスクール・オブ・アート・デザインに通いながら、当時コロンバス・アヴェニューにあったヨーロッパ・ブランドのセレクトショップ、シャリパリで働く。81年卒業後、パーソンズ・スクール・オブ・デザインに入学。在学中の84年、卒業制作につくったニットのセーターが、ペリー・エリス金の指ぬき賞を受賞。86年カシヤマU.S.A.のバックアップにより初のコレクションを開催。87年、ペリー・エリス賞(新人デザイナー賞)を最年少で受賞。この頃、セブンス・アヴェニューのアパレル・メーカー、ルーベン・トーマス社で「スケッチ・ブック」という新ブランドのデザイナーとなる。ロバート・ダフィー(現在のMarc Jacobs International社長)と知り合い、パートナーシップを組みむ。
89年ペリー・エリスと契約し、チーフ・デザイナーに。グランジをハイファッションに持ち込んで、話題を集める。ちなみにこのとき、ペリー・エリスのデザインルームにはトム・フォードもいた。92年、米ファッション界の最高の名誉であるウーマンズ・デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。93年、ロバート・ダフィーとともに、ライセンスとデザインの会社、マーク・ジェイコブス・インターナショナル社を設立。94年、自身のコレクションでニューヨークコレクションに初参加。
95年、イタリア・ジルマー社の「アイスバーグ」のリニュアール時に協力を要請されたあと、レナウンルック(レナウンの子会社、現ルック)と契約し、ブリッジライン「マーク・ジェイコブス・ルック」スタート。97年にはアメリカ・ソーホーにファーストラインのフラッグショップオープン。自身のブランドでCFDAの「ウーマンズ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー賞」を受賞。
98年、ルイ・ヴィトンのレディスおよびメンズのプレタポルテとバッグ、シューズ製品のアーティスティック・ディレクターに指名され3月、初のコレクションを発表。2度目の「ウーマンズ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。初のメンズコレクションを発表。2000年秋冬から、マーク・ジェイコブス・コレクションラインで初めてのハンドバッグ・コレクションを発表。ソフィア・コッポラをキャンペーンモデルに起用し、世界キャンペーンを行う。 8月ソーホーに続く全米で2店舗目のマーク・ジェイコブス・コレクション直営店をサンフランシスコに、9月にはマーク・ジェイコブス・コレクションのメンズショップをブリーカー・ストリートにオープン。セカンドライン「マークbyマーク・ジェイコブス」をニューヨーク・コレクションで発表。2001年、初のフレグランスを発表。2004年8月、フォッシル社とウォッチのライセンス締結。契約では男女両方を含み、「マーク・ジェイコブス」、「マーク・バイ・マーク・ジェイコブス」の2ライン発売される。ともにスイス製で、マーク・ジェイコブスのブティックおよび百貨店などで発売。「マーク・ジェーコブス」ラインは2005年秋に発売開始され、クラシックでゴージャスなデザインが特徴。「マーク・バイ・マーク・ジェイコブス」は2006年に発売される。
2006秋、犬用グッズ「Bark Jacobs」、子供服「リトル・マーク(Little Marc)」を展開。
MARNI マルニ Italy
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歴史・解説
マルニのデザイナーはコンスエロ・カスティリオーニ(Consuelo Castiglioni)。もとはフェンディの毛皮などを手がける工場の社長夫人。1994年、「自分が本当に着たいものを、自分の手で」というコンセプトで、ブランドをスタート。当初は、毛皮コレクションのみを発表していたが、1996年から織物・ニット・アクセサリーを加えたトータルブランドとしてミラノコレクションに参加。1999年には伊「マルニ」とオンワード樫山の子会社バスストップとの合弁でマルニジャパンを設立。本格的なビジネスがスタートした。2000年秋以降、直営店のオープンがロンドン、ミラノ、パリ、ニューヨークと続き、南青山に、広さ約330平方メートルと、最も大きい旗艦店を開いた。2003年4月新宿高島屋にアクセサリーブティックオープン。
幼さの残るロマンティックな雰囲気、贅沢な素材使い、明るい色が、マルニのイメージ。色遣いと手仕事のぬくもりが残り、トレンドを敏感に反映しながら、優しくかわいい印象をアピールできるブランド。
メンズも展開されているが、これが手に入るのは青山店と渋谷モビィーダのみ。
Martin Margiela マルタン・マルジェラ Belgium
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歴史・解説
デザイナー、マルタン・マルジェラは1957年ベルギーに生れる。80年、アントワープ王立芸術学院卒業後ミラノで学び、84年より、ジャンポール・ゴルチェの下で修行を積む。88年10月の89春夏パリ・コレクションにてデビュー。シルエットの細いジャケットやボトムを提案し、これ以降の10年間、それまでのゆったりとしたミラノモードに対して、ボディ・フィット(スリム)なシルエットが全盛となったといわれる。その後、病院や駅でコレクションを行い、そこでボロ布を用いた衣装を発表し、注目を集める。コレクションでも、入り口でリボンが配られ、それを手首に巻くとリボンに書かれた文章がつながったり、古着の再生や新しい服の古着風加工など、独自の視点からの服作りを行う。90年代には逆に「大きめの服」を発表。94秋冬から大柄の女性と男性用に「XXL」サイズ開始。1998春夏ではコムデギャルソンとのコラボレーションを行う。98年から「エルメス」のレディス・プレタポルテのデザインも担当。98秋冬ではマーク・ボドウィックによるビデオ・プレゼンテーションやジェーン・ハウが人物大の人形を使って表現したインスタレーションを行う。99春夏からメンズラインスタート。2000年9月に世界初となる路面店を恵比寿にオープンした。2002年、青山店、2003年8月大阪店オープン。2004年春夏シーズンからレディスの新ライン「4」の販売を開始する。「4」は「6」よりも高価格の設定となる予定。2005春夏からベーシックライン「14」、2005秋冬からアクセサリーライン「11」、シューズライン「22」をスタート。
いわゆるシャビー・ルックの旗手として従来のモード界に新風を巻き起こし、以後グランジファッションの元祖的デザイナーとしての地位を確立した。ベルギー出身のアントワープ派デザイナーの中では別格の存在とされている。シャビールック(shabby look)とは高級志向の1980年代のアンチテーゼとして、マルタン・マルジェラが80年代の終わりに打ち出した貧困者風のスタイル。色あせたり、ほつれたり、わざと古着風に仕上げるなど、新しい価値観をもったファッションが注目され、90年代の新しい流れを作り上げた。基本的にインタビューは受け付けず、メディアへの対応はファックスなどによるアンケート形式をとる。
マルタン・マルジェラは数字にこだわっており、コレクションラインも数字ごとに分かれている。有名なカレンダータグに該当する数字に○が打たれ、「1」はレディスのコレクションライン。「6」女性のためのベーシックな服。「10」メンズライン。また、「9」がラッキーナンバーであり、フランスでマルタン・マルジェラを展開する会社はフランス語の「9」を意味する「ナフ(neuf)」と名づけられ、これに準じて日本での合弁会社は日本語で「9」を表す「ここのつ」から「ここのえ」と名づけられた。
日本ではワールド子会社のオリゾンティを経て、マルジェラを展開する仏ヌフ(パリ)、三菱商事、オリゾンティが共同で設立した「ここのえ(マルタン マルジェラ ジャパン)」によって販売されている。
2006年恵比寿の旗艦店を移転、リニューアル。より広くなった、ショップは工場だった造りを生かしながら、内装は以前と同じ白を基調に、コンテナや浴室があったり、天井からはチェーンが吊り下げられていたりと斬新なデザイン。
Mint Designs ミント・デザインズ Japan
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歴史・解説
ロンドンのセントラル・セントマーチンズ・カレッジ・オブ・アート ・アンド・デザインで同じ学年だった八木奈央と勝井北斗。そこに日本で服飾を学んでいた竹山祐輔が加わり、立ち上げられたブランド、ミントデザインズ。2001年にブランド開始。2002年10月東京コレクションに参加。人形型の柄をプリントした服は話題を呼び、2003年秋冬物では、ニットにも挑戦している。ブランド名の「ミント」には、さわやかなハーブのミントのほか、オークション用語で一番いい状態を指す「ミント・コンディション」、「真新しい」、イギリス英語のスラングで「いいね」、「希少価値のある」などの意味がある。そんなイメージを併せ持つ服作りを目指す。
勝井北斗(designer/director)は1973年、東京生まれ。1995-97年にパーソンズ・スクールオブデザイン・ニューヨーク・ウーマンズウェアデザイン科で学んだ後、1997年-2000年、セントラル・セントマーチンズ・カレッジオブアート&デザイン・ファッションデザイン&プリント科在学中にアレキサンダー・マックィーンのもとでアシスタントとして働く。2000年6月卒業コレクションにおいてセントマーチン代表として、GALA SHOW にて作品発表。2000年、セントマーチンズ卒業後i-D magazine(ロンドン)にて、ブック・プロジェクト 「SMILE- i-D」の制作に携わり、アシスタント・クリエイティブ・ディレクターとして働く。2001年4月、帰国。
八木奈央(designer/studio manager)は1973年、大阪府生まれ。1992年-96年、同志社大学、文学部、美術芸術学専攻。1997年-2000年、セントラル・セントマーチンズ・カレッジオブアート&デザインファッション デザイン・ウーマンズ科で学ぶ。2000年4月14日、中国服装協会主催の第8回ブラザーカップ国際青年デザイナーコンクールを作品テーマ「連接」で銅賞受賞。2000年-01年、セントマーチンズを首席で卒業後、フセイン・チャラヤンにてアシスタントデザイナーとして働く。2001年4月、帰国。
竹山祐輔 (chief creative technician)は1978年、埼玉県生まれ。1997年-00年、文化服装学院ファッション工科専門課程アパレル技術科で学び、2000年-01年卒業後、ロンドン、パリに滞在。帰国後、(株)モンブランで生産システム、縫製技術を学ぶ。
2003春夏コレクションは、東京・神宮前の一軒家を改装したカフェで開催。テーマは創作過程の間違いや偶然を前向きに生かそうという「ハッピーミステーク」。グラフィックデザインのプリント、ボタンはウオッシャブルの紙製、カットソーやワンピース、パンツなど、すべてコットン素材の日常着を提案した。
2003-04秋冬コレクションは原宿のカフェ、オーバカナルで行われた。置かれているコーヒーカップやグラスなどは白い毛糸のかぎ編みニットでくるまれ、ニットへの挑戦をアピールした。
miumiu ミュウミュウ Italy
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歴史・解説
1992年、ミウッチャ・プラダが自分自身のワードロープに影響されて、創出。ミュウミュウとはミウッチャの子供の頃の愛称。プラダと同様にシンプルでありながら、女の子特有の甘さや可愛らしさを表現。イメージガールにはドリュー・バリモアやクロエ・セヴィニーをキャスト。
2004秋冬キャンペーンボモデルはハリウッド女優の、MAGGIE GYLLENHAAL(マギー・ギレンホール)。
2006年秋冬コレクションから、発表の場をミラノからパリに移す。
Montblanc モンブラン German
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歴史・解説
1906年、ドイツの港町ハンブルグで小さな文房具店の主人クラウス・ヨハネス・フォス、銀行家クリスティアン・ラウゼン、ベルリン出身の技師ヴィルヘルム・ジャンポアの3人によって万年筆が製作される。これが、モンブランの起源となる。最初はキャップと軸だけを作り、ペン先はアメリカから輸入。スポイト式でエボナイト製だった。1908年、シンプロ・フィラー・ペン社が設立される。1910年、「赤い星」のマークがついたセイフティ・タイプ・ファウンテン・ペン「ルージュ・エ・ノワール」を発表。このネーミングはスタンダールの「赤と黒」から取ったとも言われている。同時にセイフティ型の「ディプロマット」も販売されたが、こちらのマークは「白い星」。この「白い星」は「世界一」を目指してヨーロッパ・アルプスの最高峰であるモンブランの名前にちなんでつけられたもの。現在に続く、「モンブラン」ブランドはここから始まる。ちなみに、ペン先の数字4810は、モンブランの標高を表している。1913年、「白い星(ホワイトスター)」を商標登録。
1919年には社名をジンプロ・フュルフェーダー株式会社と改める。この年にはドイツ海軍の将校であった、E・ロイスラーが技術統括責任者として入社して生産設備の機械化を進め、ペン先を自社工場で製造するようになる。
1924年、最初の「マイスターシュテュック」を製作。エボナイト製でセイフティ・タイプ。1927年、レバー・フィリング式のものが「マイスターシュテュック」のラインに加えられ、1929年ボタン・フィラーの「マイスターシュテュック」を製作。1934年に社名をモンブラン・ジンプロに変更。1935年、デスクアクセサリー開始。1957年、学生向きの低価格万年筆「モンテローザ」を発売。1973年、金属製のスリムなシリンダー型万年筆「ノブレス」を製作。
1977年、アルフレッド・ダンヒル社がモンブラン社の株を買い占め、1985年、ダンヒルがモンブランを買収。現在はダンヒルを買収したリシュモン・グループに属している。グループ内での売上高は、「カルティエ」に次ぐ規模を誇る。
1986年、「the art of writing」のコピー発表。1992年、限定品作家シリーズ開始。第1回はヘミングウェイ。1995年レザーコレクション開始。1996年、男性向けアクセサリーを皮切りにジュエリーライン開始。1997年ジュネーブサロンに参加し時計スタート。2000年「モンブラン ボエム」スタート。2001年、男性向けのフレグランス「Presence」発売、女性向けのバッグも開始する。
日本では、ダイや産業が輸入販売していたが、98年に日本法人を設立。現在は、モンブラン・ジャパン社によって展開され、1997年、銀座8丁目・並木通りに「モンブラン 銀座」オープン。
2001年9月4日ニューヨーク、シンガポールに次ぎ世界で3店舗目となる、直営フラッグシップショップ「モンブラン 銀座」を、7丁目にオープン。
2003年7月、新作筆記具コレクション「StarWalker(スターウォーカー)」発売。キャップトップは透明樹脂で成形され、そこにホワイトスターが浮かび上がる斬新なデザイン。宙を漂うような軽やかさがスターウォーカーの由来。スリムなボディに、やや樽型をしたキャップのフォルム。太めのクリップリングにはモンブランのロゴが刻まれている。
2004年2月、若い世代に向けた新作筆記具コレクション「SCENIUM(シニアム)発売。コンセプトは「究極のミニマリズム」で、マット仕上げされたスリムなボディ、シルバー・カラーのクリップにモンブラン・ロゴ、キャップトップに「ホワイトスター」というシンプリシティを追求したモダンデザイン。
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LANCEL ランセル France.
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解説・歴史
ランセルの創業は、1876年。フランス、パリで、喫煙具商として始まった。創立者はアルバート・ランセル(Albert Lancel)。この店は成功し、ランセルの名前は広く知られるようになる。19世紀末には、ランセルの店は、支店も含め、喫煙具や水晶、磁器、金および銀器を購入するコスモポリタンであふれた。1929年、ブティックはパリのオペラ通りに移転。現在では、ヨーロッパ以外にもアジア、アメリカなど世界中で1000を越えるブティックが存在する。
ランセルの革製品はその滑らかさと、エレガンスなデザインで知られている。さらに、ランセルのイメージは年代ごとに変化し、会社自体もその誕生の精神から革新性、発明の精神が尊重されてきた。1930年代には同社は、フランスで初めてオートマチック・ライターを製作・出荷。また、後にカンガルーケースと呼ばれるようになる、スーツケースの外側にポケットをつけたソフトバゲッジを開発。いち早く素材に合成製品も使用。革が中心だったラゲッジ業界に、一大革新をもたらした。
1997年、リシュモングループに入り、ブランドイメージをリニューアル。日本でもライセンス契約を打ち切り、ラグジュアリーブランドへとイメージを刷新した。現在では、リシュモン・ジャパンによって日本でも展開されている。
.2002年7月27日、銀座に日本で唯一の直営路面店をオープン。現在ではF1、ルノー・チームのラゲージ関係もサポートしている。定番シリーズ、小ぶりの筒型バッグ「エルザ」も有名。
2003年に「アメリ」シリーズを銀座店のみで限定発売。キャンバス地にパリの地図が印刷されたもので、これは同社が1950年代にクリスマスカードの柄に採用したもの。ハンドバッグ、トランク、帽子、傘、レインコートまで幅広く展開している。
ランセルといえば、老舗のラゲッジメーカーというより、私の中では80年代から90年代にかけて、ライセンスで行われた金や銀の刺しゅうを用いた派手なジーンズが思い浮かびます。当時はフィッチェと並んで、ヤンキー御用達のデニムでした。なので、私にとっては敬遠していたブランドだったのですが、リシュモングループ入りしてから、ライセンス契約も打ち切り、上質なラグジュアリーブランドへの道を歩んでいるようです。その象徴が銀座店であり、歴史のあるブランドは、一時期落ち込むことがあっても、このように復活する例もあるので見逃せません(それが面白いところでもありますが)。2003年のアメリは、ちょっとしたブームも巻き起こしました。
しかし、2004年7月末に日本市場から撤退。銀座店は同じリシュモングループのヴァン・クリーフ&アーペルが移転する予定。
LOEWE ロエベ Spain7
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解説・歴史
ロエベの歴史は1846年、ドイツ人の創業者エンリケ・ロエベ・ロスバークが、スペイン・マドリードに皮革製品の工房を開いた所から始まる。当初は王侯貴族を主な顧客としていたが、1890年に店舗に併設してアトリエを構え、デザイン・品質、耐久性にすぐれた製品がヨーロッパ中の注目を集める。革製品では仔羊皮を独自の手法でなめしたナッパ素材を採用し、品質検査により実際に使用するのはわずか3%という品質へのこだわりを持つ。
1905年、2代目のエンリケ・ロエベ・ヒントンがアルファンソ13世から「王室御用達」の名誉を与えられる。1965年、4代目エンリケ・ロエベ・リンチがプレタポルテをスタート。カール・ラガーフェルド、ジョルジオ・アルマーニらがデザインを担当していた。70年代に初のフレグランス「エル・デ・ロエベ」発売。1985年、ルイ・ヴィトン社と提携を結び、1996年ロエベはLVMHの傘下に入る。1997年にはナルシソ・ロドリゲスがレディス・プレタポルテのデザイン・ディレクターに就任。
ナルシソ・ロドリゲス(Narciso Rodriguez)は、1961年アメリカ・ニュージャージー州出身。祖父母がスペイン領出身。パーソンズ卒業後、「アン・クライン」、「カルバン・クライン」を経て95年「セイ(TSE)・ニューヨーク」のディレクターに就任。カシミアブームを生み出す。「セルッティ」のデザイナーを務めたあと、97年に「ナルシソ・ロドリゲス」をスタート。98年春夏でミラノコレクションに初参加していた。2001年秋冬からはニューヨークコレクションに参加している。
98-99年秋冬シーズンから2002年春夏までナルシソ・ロドリゲスがプレタポルテのデザインを担当したが、その後は自分のブランドに専念するためデザイン・ディレクターを辞任。一説にはロドリゲスに任せてはみたものの、大して売上が伸びず、話題も集められなかったためアルノーが解任したという噂もある。
2002-2003年秋冬コレクションからは、ホセ・エンリケ ・オナ・セルファがロエベの新デザイナーに就任。オナ・セルファは1975年生まれ、ベルギー出身のスペイン人で、ファッション・スクールLa Cambreを卒業後、オリヴィエ・ティスケンスのアシスタントを経て、ロエベに。彼のデザインはクラシックやフラメンコダンサーの肉体の力強い動きからインスピレーションを得ており、デザイナーの故郷スペインの情熱的なモチーフをモダンに表現。新生ロエベの今後が注目される。
国内では、1964年サン・モトヤマによってはじめて紹介されたがロエベのLVMH加入により、ルイ・ヴィトン ジャパン傘下のロエベ・ジャパンによって展開されている。
ロエベジャパン 東京都港区南青山1-1-1 Tel 03-3404-0631
1986年日本法人として営業開始。97年4月銀座本店オープン、2000年4月銀座本店を拡大リニューアルオープン。
LOUIS VUITTON ルイ・ヴィトン France
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歴史・解説
1821年、スイスとの国境に近いジュラ山脈アンシェイ村で12人兄弟の真ん中の子として初代ルイ・ヴィトンが誕生。家業は粉屋。1835年、14歳になったルイ・ヴィトンは、養母との折り合いが悪くなり、わずかなお金を持って家出。2年後、働きながら旅を続けて、パリに着いたルイは、オペラ座に近いカプシーヌ大通りにあった荷造り用木箱製造兼荷造り職人の見習いとなる。
1854年、カプシーヌ通り4番地に世界最初の旅行鞄のアトリエ「ルイ・ヴィトン」を設立、同時に、結婚。輸送機関の発達に注目し、従来の蓋の丸いトランクから、積み上げることが簡単な平らな蓋を持つトランクを考案。革よりも軽い防水加工を施したグレーの無地コットン素材「グリ・トリアノン・キャンバス」を張って作ったトランクは評判を呼び、ナポレオン3世の皇妃ユージェニーが、旅行用衣装箱を発注し、名声が高まる。
1860年、パリ郊外アニエール市の現在地に工場を移す。1867年、パリ万国博覧会でトランクが銅メダルを受賞。1875年、最初の旅行用衣装ダンスといわれる、ワードローブトランクを発表。1880年、ジョルジュが2代目を引き継ぐ。1883年、3代目、ガストン誕生。1885年、世界進出の第一歩、ロンドン店をオープン。1888年、世界で初めての商標登録「ダミエ・キャンバス」を発表。「グリ・トリアノン・キャンバス」のコピーが出回り、1872年にベージュに赤の縞模様の「レイエ・キャンバス」を発表するも、再びコピー商品が出回ったことで、市松模様に自分自身の名前を入れたパターンを作り出した。ダミエは1996年にバッグと小物で復活。1890年、ジョルジュが5枚羽の鍵を発明、特許を取得。1892年、初代ルイ・ヴィトン死去。オーストラリアで初めてルイ・ヴィトンの製品発表。
1896年、2代目ジョルジュは、模倣防止のため、初代の名前のイニシャルであるLとV、星と花をモチーフにした幾何学模様「モノグラム・キャンバス」を開発。この模様は、当時流行していたジャポニズムの影響下にあったヨーロッパで、ジョルジュが日本の家紋などからインスピレーションを受けて生まれたといわれている。1911年、4代目アンリ・ルイ・ヴィトン誕生。
1914年、パリのシャンゼリゼ通り70番地に店舗を移転。世界一大きな旅行鞄専門店をオープン。1936年、2代目ジョルジュ死去。1951年、5代目パトリック・ルイ・ヴィトン誕生。1954年、創立100周年を迎え、本店をパリのマルソー通り78番地に移す。1959年、3代目ガストンは、現在のモノグラムの素材であるソフトキャンバスを開発。木綿地に特殊コーティングを施したもので、堅牢で弾力性に富み、かつ耐水性にも優れたトワル地。1970年、3代目ガストン死去。1978年、ルイ・ヴィトン日本支社誕生。1981年、ルイ・ヴィトン・ジャパン設立。1983年、ヨットレース「ルイ・ヴィトン・カップ」開始。
1985年、麦の穂をイメージした牛革に型押し加工したエピ・ライン誕生。1987年、ヘネシー社と合併。LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)グループの誕生。1989年、パリ郊外のアニエールにルイ・ヴィトン・ミュージアムをオープン。1993年、森林をイメージした深いグリーンのタイガ・ライン誕生。オペラ・ライン誕生(1998年に廃番)。1995年、パリ、サンジェルマン店オープン。1996年、モノグラム・キャンバス誕生100周年を記念して「ダミエ」を限定発表。
1997年、ニューヨークのデザイナーであるマーク・ジェイコブズを起用、アパレル分野に進出。1998年、ダミエ・ラインが定番商品として復活。モノグラム・ヴェルニラインを発表。2000年、マイクロ・モノグラムライン発表。2001年、グラフィティ・ライン発表。マーク・ジェイコブズの契約の5年間延長を発表。2002年、コント・ドゥ・フェシリーズ発表。2002年9月1日、青山に旗艦店オープン。同時にウォッチ発売。2003年春夏、村上隆とコラボレートし、アイ・ラブ・モノグラム、モノグラム・マルチカラー発売。2003年4月ゴート・レザーの新作「スハリ」が登場。
2004年7月、パリで仏語で「影響力」を意味する「アンプリーズ」と名付けられた初のジュエリーコレクションを発表。日本では並木通り店と六本木ヒルズ店で、9月21日から発売開始。モノグラムの花模様を使った「フルールシリーズ」、カバンのスタッドをモチーフにした「クルーシリーズ」、トランクをかたどった「ミニ・マルシリーズ」の三シリーズで、当初は指輪、イヤリング、ネックレス、ピアスなどの分野で合計約100タイプを用意。
また、近年では各シーズンのキャンペーンモデルも話題を集めており、2003春夏はエヴァ・ヘルツィゴヴァ、秋冬のジェニファー・ロペス、2004春夏はナオミ・キャンベル、ケイト・モス、Angela Lindvall、2004秋冬は「トロイ」のヘレン役である、Diane Kruger、クリスティーナ・リッチ、スカーレット・ヨハンソン、クロエ・セヴィニー。2005春夏はユマ・サーマンが務めている。
ルイ・ヴィトンジャパンは1978年にルイ・ヴィトン東京支店という形で上陸し、ルイ・ヴィトンSA日本支社開設。それまではサンフレールや三井物産によって輸入されてきた。1981年に日本法人としてルイ・ヴィトン ジャパン株式会社を設立。卸活動だけでなく店舗展開も自ら行っており、同年銀座並木通りに直営1号店をオープン。1983年神戸(元町)店。1986年、カタログ販売開始 大阪ヒルトンプラザ店。1987年、サンローゼ赤坂店オープン(今は閉店)。1992年、横浜元町店オープン。1998年、大阪心斎橋に新大型店舗オープン。1999年、直営化プロジェクトを開始し、福岡・名古屋に新大型店舗オープン。2000年、銀座松屋店オープン。2001年、丸井今井札幌店大型店へリニューアル。2002年9月総合ビルとして表参道ビルオープン。2002年11月、国内初のLVMH複合ビル、神戸旧居留地にオープン。2003年9月5日、六本木ヒルズ店オープン。2004年9月3日、銀座並木通り店をリニューアルオープン。並木通り店はルイ・ヴィトン・ジャパンの直営第1号として、81年に開店。ビルの一角の3フロアだけだった売り場を、ビル全体の8フロアに拡大。旅行カバンのフロアや国内初の特注品専用コーナー、本格的なジュエリーと時計売り場を設けた。光が透ける天然石を用い、昼と夜とで違う表情を見せる外装は青木淳がデザイン。
ルイ・ヴィトンジャパンは従業員、約1300人。外資系のブランド企業としては最大手。グループ企業には皮革製品のロエベ・ジャパンのほか、ジャーディンワインズアンドスピリッツが、ヘネシーやホワイトホース等の洋酒販売を手がけている。
ルイ・ヴィトンはフランスのブランドだが、製造国に関しては幾つかの種類があり、小物の多くはスペイン製。最近バックもスペイン製が増えている。これはLVMHグループがロエベを買収たことで、ロエベの工場を使っていることによるもの。また、かつては小物でドイツ製やスイス製のも見受けられた。アメリカ製はUSAヴィトンといわれ、アメリカのみで流通(こうした例はディオールやシャネルでも化粧品などでよくありますが)日本国内の正規のヴィトン・ショップでは扱っておらず、商品構成や部品の一部がフランス製のヴィトンとは違う。オーダー品などはフランス国内で作られている。
LULU GUINNESS ルル・ギネス England
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解説・歴史
ルル・ギネスは1989年にデビューしたバッグデザイナー。ギネスビールなどで有名な名門ギネス家の出身で、オリジナルのブリーフケース作りから始まり、花束を入れたバスケットのようなフォローラルバッグが有名。芸術品と呼ばれるコレクションはロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館をはじめ、多くの美術館で集められ、展示されている。
1995年の1号店、1996年に2号店に続き。1998年、エリス通りに古き良き時代の雰囲気漂う美しいサロン風のフラッグショップをオープン。その他、ロンドンの「セルフリッジ」「リバティ」「ハロッズ」「ハーヴィーニコルス」、パリの「ル ボン マルシェ」、アメリカの「ニーマン マーカス」「ノードストローム「サックス フィフス アベニュー」、伊勢丹などで販売されている。
2003年4月、アジア地区初のトータルショップが六本木ヒルズにオープン。2003年、彼女のバッグに適した香りとしてフレグランスをスタート。まずはエリス・ストリートのショップとハロッズで発売され、年末に国際的に販売が開始された。ユリをメーンに複数の花をブレンドした香りで、香調はフローラル系。丸いクリーム色のボトルには、ルル・ギネス自身がデザインした「グラマーガール」が描かれている。
現在ではレトログラマーや90年代のファショントレンドからインスピレーションを受け、可愛らしいディリーバッグからイブニングバッグまで展開。プレステージラインのほとんどは、イギリスでハンドメイドにより作られ、上質の素材を使い高い評価を得ている。
また、PHILIP TREACYや、JASPER CONRANなどのブランドと提携しバッグデザインも担当している。マドンナやビョーク、エリザベス・ハーレー、ソフィー・ダールらが愛用していることでも知られている。
LANCEL ランセルの高額商品はこちら
解説・歴史
ランセルの創業は、1876年。フランス、パリで、喫煙具商として始まった。創立者はアルバート・ランセル(Albert Lancel)。この店は成功し、ランセルの名前は広く知られるようになる。19世紀末には、ランセルの店は、支店も含め、喫煙具や水晶、磁器、金および銀器を購入するコスモポリタンであふれた。1929年、ブティックはパリのオペラ通りに移転。現在では、ヨーロッパ以外にもアジア、アメリカなど世界中で1000を越えるブティックが存在する。
ランセルの革製品はその滑らかさと、エレガンスなデザインで知られている。さらに、ランセルのイメージは年代ごとに変化し、会社自体もその誕生の精神から革新性、発明の精神が尊重されてきた。1930年代には同社は、フランスで初めてオートマチック・ライターを製作・出荷。また、後にカンガルーケースと呼ばれるようになる、スーツケースの外側にポケットをつけたソフトバゲッジを開発。いち早く素材に合成製品も使用。革が中心だったラゲッジ業界に、一大革新をもたらした。
1997年、リシュモングループに入り、ブランドイメージをリニューアル。日本でもライセンス契約を打ち切り、ラグジュアリーブランドへとイメージを刷新した。現在では、リシュモン・ジャパンによって日本でも展開されている。
.2002年7月27日、銀座に日本で唯一の直営路面店をオープン。現在ではF1、ルノー・チームのラゲージ関係もサポートしている。定番シリーズ、小ぶりの筒型バッグ「エルザ」も有名。
2003年に「アメリ」シリーズを銀座店のみで限定発売。キャンバス地にパリの地図が印刷されたもので、これは同社が1950年代にクリスマスカードの柄に採用したもの。ハンドバッグ、トランク、帽子、傘、レインコートまで幅広く展開している。
ランセルといえば、老舗のラゲッジメーカーというより、私の中では80年代から90年代にかけて、ライセンスで行われた金や銀の刺しゅうを用いた派手なジーンズが思い浮かびます。当時はフィッチェと並んで、ヤンキー御用達のデニムでした。なので、私にとっては敬遠していたブランドだったのですが、リシュモングループ入りしてから、ライセンス契約も打ち切り、上質なラグジュアリーブランドへの道を歩んでいるようです。その象徴が銀座店であり、歴史のあるブランドは、一時期落ち込むことがあっても、このように復活する例もあるので見逃せません(それが面白いところでもありますが)。2003年のアメリは、ちょっとしたブームも巻き起こしました。
しかし、2004年7月末に日本市場から撤退。銀座店は同じリシュモングループのヴァン・クリーフ&アーペルが移転する予定。
LOEWE ロエベ Spain7
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解説・歴史
ロエベの歴史は1846年、ドイツ人の創業者エンリケ・ロエベ・ロスバークが、スペイン・マドリードに皮革製品の工房を開いた所から始まる。当初は王侯貴族を主な顧客としていたが、1890年に店舗に併設してアトリエを構え、デザイン・品質、耐久性にすぐれた製品がヨーロッパ中の注目を集める。革製品では仔羊皮を独自の手法でなめしたナッパ素材を採用し、品質検査により実際に使用するのはわずか3%という品質へのこだわりを持つ。
1905年、2代目のエンリケ・ロエベ・ヒントンがアルファンソ13世から「王室御用達」の名誉を与えられる。1965年、4代目エンリケ・ロエベ・リンチがプレタポルテをスタート。カール・ラガーフェルド、ジョルジオ・アルマーニらがデザインを担当していた。70年代に初のフレグランス「エル・デ・ロエベ」発売。1985年、ルイ・ヴィトン社と提携を結び、1996年ロエベはLVMHの傘下に入る。1997年にはナルシソ・ロドリゲスがレディス・プレタポルテのデザイン・ディレクターに就任。
ナルシソ・ロドリゲス(Narciso Rodriguez)は、1961年アメリカ・ニュージャージー州出身。祖父母がスペイン領出身。パーソンズ卒業後、「アン・クライン」、「カルバン・クライン」を経て95年「セイ(TSE)・ニューヨーク」のディレクターに就任。カシミアブームを生み出す。「セルッティ」のデザイナーを務めたあと、97年に「ナルシソ・ロドリゲス」をスタート。98年春夏でミラノコレクションに初参加していた。2001年秋冬からはニューヨークコレクションに参加している。
98-99年秋冬シーズンから2002年春夏までナルシソ・ロドリゲスがプレタポルテのデザインを担当したが、その後は自分のブランドに専念するためデザイン・ディレクターを辞任。一説にはロドリゲスに任せてはみたものの、大して売上が伸びず、話題も集められなかったためアルノーが解任したという噂もある。
2002-2003年秋冬コレクションからは、ホセ・エンリケ ・オナ・セルファがロエベの新デザイナーに就任。オナ・セルファは1975年生まれ、ベルギー出身のスペイン人で、ファッション・スクールLa Cambreを卒業後、オリヴィエ・ティスケンスのアシスタントを経て、ロエベに。彼のデザインはクラシックやフラメンコダンサーの肉体の力強い動きからインスピレーションを得ており、デザイナーの故郷スペインの情熱的なモチーフをモダンに表現。新生ロエベの今後が注目される。
国内では、1964年サン・モトヤマによってはじめて紹介されたがロエベのLVMH加入により、ルイ・ヴィトン ジャパン傘下のロエベ・ジャパンによって展開されている。
ロエベジャパン 東京都港区南青山1-1-1 Tel 03-3404-0631
1986年日本法人として営業開始。97年4月銀座本店オープン、2000年4月銀座本店を拡大リニューアルオープン。
LOUIS VUITTON ルイ・ヴィトン France
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歴史・解説
1821年、スイスとの国境に近いジュラ山脈アンシェイ村で12人兄弟の真ん中の子として初代ルイ・ヴィトンが誕生。家業は粉屋。1835年、14歳になったルイ・ヴィトンは、養母との折り合いが悪くなり、わずかなお金を持って家出。2年後、働きながら旅を続けて、パリに着いたルイは、オペラ座に近いカプシーヌ大通りにあった荷造り用木箱製造兼荷造り職人の見習いとなる。
1854年、カプシーヌ通り4番地に世界最初の旅行鞄のアトリエ「ルイ・ヴィトン」を設立、同時に、結婚。輸送機関の発達に注目し、従来の蓋の丸いトランクから、積み上げることが簡単な平らな蓋を持つトランクを考案。革よりも軽い防水加工を施したグレーの無地コットン素材「グリ・トリアノン・キャンバス」を張って作ったトランクは評判を呼び、ナポレオン3世の皇妃ユージェニーが、旅行用衣装箱を発注し、名声が高まる。
1860年、パリ郊外アニエール市の現在地に工場を移す。1867年、パリ万国博覧会でトランクが銅メダルを受賞。1875年、最初の旅行用衣装ダンスといわれる、ワードローブトランクを発表。1880年、ジョルジュが2代目を引き継ぐ。1883年、3代目、ガストン誕生。1885年、世界進出の第一歩、ロンドン店をオープン。1888年、世界で初めての商標登録「ダミエ・キャンバス」を発表。「グリ・トリアノン・キャンバス」のコピーが出回り、1872年にベージュに赤の縞模様の「レイエ・キャンバス」を発表するも、再びコピー商品が出回ったことで、市松模様に自分自身の名前を入れたパターンを作り出した。ダミエは1996年にバッグと小物で復活。1890年、ジョルジュが5枚羽の鍵を発明、特許を取得。1892年、初代ルイ・ヴィトン死去。オーストラリアで初めてルイ・ヴィトンの製品発表。
1896年、2代目ジョルジュは、模倣防止のため、初代の名前のイニシャルであるLとV、星と花をモチーフにした幾何学模様「モノグラム・キャンバス」を開発。この模様は、当時流行していたジャポニズムの影響下にあったヨーロッパで、ジョルジュが日本の家紋などからインスピレーションを受けて生まれたといわれている。1911年、4代目アンリ・ルイ・ヴィトン誕生。
1914年、パリのシャンゼリゼ通り70番地に店舗を移転。世界一大きな旅行鞄専門店をオープン。1936年、2代目ジョルジュ死去。1951年、5代目パトリック・ルイ・ヴィトン誕生。1954年、創立100周年を迎え、本店をパリのマルソー通り78番地に移す。1959年、3代目ガストンは、現在のモノグラムの素材であるソフトキャンバスを開発。木綿地に特殊コーティングを施したもので、堅牢で弾力性に富み、かつ耐水性にも優れたトワル地。1970年、3代目ガストン死去。1978年、ルイ・ヴィトン日本支社誕生。1981年、ルイ・ヴィトン・ジャパン設立。1983年、ヨットレース「ルイ・ヴィトン・カップ」開始。
1985年、麦の穂をイメージした牛革に型押し加工したエピ・ライン誕生。1987年、ヘネシー社と合併。LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)グループの誕生。1989年、パリ郊外のアニエールにルイ・ヴィトン・ミュージアムをオープン。1993年、森林をイメージした深いグリーンのタイガ・ライン誕生。オペラ・ライン誕生(1998年に廃番)。1995年、パリ、サンジェルマン店オープン。1996年、モノグラム・キャンバス誕生100周年を記念して「ダミエ」を限定発表。
1997年、ニューヨークのデザイナーであるマーク・ジェイコブズを起用、アパレル分野に進出。1998年、ダミエ・ラインが定番商品として復活。モノグラム・ヴェルニラインを発表。2000年、マイクロ・モノグラムライン発表。2001年、グラフィティ・ライン発表。マーク・ジェイコブズの契約の5年間延長を発表。2002年、コント・ドゥ・フェシリーズ発表。2002年9月1日、青山に旗艦店オープン。同時にウォッチ発売。2003年春夏、村上隆とコラボレートし、アイ・ラブ・モノグラム、モノグラム・マルチカラー発売。2003年4月ゴート・レザーの新作「スハリ」が登場。
2004年7月、パリで仏語で「影響力」を意味する「アンプリーズ」と名付けられた初のジュエリーコレクションを発表。日本では並木通り店と六本木ヒルズ店で、9月21日から発売開始。モノグラムの花模様を使った「フルールシリーズ」、カバンのスタッドをモチーフにした「クルーシリーズ」、トランクをかたどった「ミニ・マルシリーズ」の三シリーズで、当初は指輪、イヤリング、ネックレス、ピアスなどの分野で合計約100タイプを用意。
また、近年では各シーズンのキャンペーンモデルも話題を集めており、2003春夏はエヴァ・ヘルツィゴヴァ、秋冬のジェニファー・ロペス、2004春夏はナオミ・キャンベル、ケイト・モス、Angela Lindvall、2004秋冬は「トロイ」のヘレン役である、Diane Kruger、クリスティーナ・リッチ、スカーレット・ヨハンソン、クロエ・セヴィニー。2005春夏はユマ・サーマンが務めている。
ルイ・ヴィトンジャパンは1978年にルイ・ヴィトン東京支店という形で上陸し、ルイ・ヴィトンSA日本支社開設。それまではサンフレールや三井物産によって輸入されてきた。1981年に日本法人としてルイ・ヴィトン ジャパン株式会社を設立。卸活動だけでなく店舗展開も自ら行っており、同年銀座並木通りに直営1号店をオープン。1983年神戸(元町)店。1986年、カタログ販売開始 大阪ヒルトンプラザ店。1987年、サンローゼ赤坂店オープン(今は閉店)。1992年、横浜元町店オープン。1998年、大阪心斎橋に新大型店舗オープン。1999年、直営化プロジェクトを開始し、福岡・名古屋に新大型店舗オープン。2000年、銀座松屋店オープン。2001年、丸井今井札幌店大型店へリニューアル。2002年9月総合ビルとして表参道ビルオープン。2002年11月、国内初のLVMH複合ビル、神戸旧居留地にオープン。2003年9月5日、六本木ヒルズ店オープン。2004年9月3日、銀座並木通り店をリニューアルオープン。並木通り店はルイ・ヴィトン・ジャパンの直営第1号として、81年に開店。ビルの一角の3フロアだけだった売り場を、ビル全体の8フロアに拡大。旅行カバンのフロアや国内初の特注品専用コーナー、本格的なジュエリーと時計売り場を設けた。光が透ける天然石を用い、昼と夜とで違う表情を見せる外装は青木淳がデザイン。
ルイ・ヴィトンジャパンは従業員、約1300人。外資系のブランド企業としては最大手。グループ企業には皮革製品のロエベ・ジャパンのほか、ジャーディンワインズアンドスピリッツが、ヘネシーやホワイトホース等の洋酒販売を手がけている。
ルイ・ヴィトンはフランスのブランドだが、製造国に関しては幾つかの種類があり、小物の多くはスペイン製。最近バックもスペイン製が増えている。これはLVMHグループがロエベを買収たことで、ロエベの工場を使っていることによるもの。また、かつては小物でドイツ製やスイス製のも見受けられた。アメリカ製はUSAヴィトンといわれ、アメリカのみで流通(こうした例はディオールやシャネルでも化粧品などでよくありますが)日本国内の正規のヴィトン・ショップでは扱っておらず、商品構成や部品の一部がフランス製のヴィトンとは違う。オーダー品などはフランス国内で作られている。
LULU GUINNESS ルル・ギネス England
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解説・歴史
ルル・ギネスは1989年にデビューしたバッグデザイナー。ギネスビールなどで有名な名門ギネス家の出身で、オリジナルのブリーフケース作りから始まり、花束を入れたバスケットのようなフォローラルバッグが有名。芸術品と呼ばれるコレクションはロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館をはじめ、多くの美術館で集められ、展示されている。
1995年の1号店、1996年に2号店に続き。1998年、エリス通りに古き良き時代の雰囲気漂う美しいサロン風のフラッグショップをオープン。その他、ロンドンの「セルフリッジ」「リバティ」「ハロッズ」「ハーヴィーニコルス」、パリの「ル ボン マルシェ」、アメリカの「ニーマン マーカス」「ノードストローム「サックス フィフス アベニュー」、伊勢丹などで販売されている。
2003年4月、アジア地区初のトータルショップが六本木ヒルズにオープン。2003年、彼女のバッグに適した香りとしてフレグランスをスタート。まずはエリス・ストリートのショップとハロッズで発売され、年末に国際的に販売が開始された。ユリをメーンに複数の花をブレンドした香りで、香調はフローラル系。丸いクリーム色のボトルには、ルル・ギネス自身がデザインした「グラマーガール」が描かれている。
現在ではレトログラマーや90年代のファショントレンドからインスピレーションを受け、可愛らしいディリーバッグからイブニングバッグまで展開。プレステージラインのほとんどは、イギリスでハンドメイドにより作られ、上質の素材を使い高い評価を得ている。
また、PHILIP TREACYや、JASPER CONRANなどのブランドと提携しバッグデザインも担当している。マドンナやビョーク、エリザベス・ハーレー、ソフィー・ダールらが愛用していることでも知られている。
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Katarzyna Szczotarska カタジーナ・シュゾタルスカ England(Polish).
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歴史・解説
デザイナー、カタジーナは、ポーランド生まれ。ミドルセックス工業大学(Middlesex Polytechnic)、ロンドン大学のファッション科で学んだ後、パリで2年間マルタン・マルジェラのアシスタントを務めた。その後、アルカディア・グループで、シニア・デザイナーを経て、デビュー。ロンドンコレクションで公開されている。
高品質に基づいたクチュールスタイルが基本。女性の本質を追求したシックなコレクション。
日本語表記は「カタジナ・ショタスカ」などと書かれることもあります。
Kate Spade ケイト・スペード U.S.A.
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解説・歴史
ケイト・スペードのデザイナー、ケイト(katherine noel brosnahan)は、アメリカ・カンザス州生まれ。ニューヨーク在住。ニューヨークの小さなスタジオを借りて暮らしながら、マドモアゼル誌のファッション系アシスタントとして働いていたが、学生時代からの恋人(後の夫&ビジネスパートナーとなるAndy spade)に、「君はハンドバッグが大好きだから会社を始めたらどうか」と勧められ、93年ハンドバッグブランドをスタート。会社はケイトの名前と、アンディの名前を組み合わせて生まれた。エディターとしての経験を生かし、使い勝手とおしゃれを両立した大人の女性に愛されるそのバッグは、瞬く間に人気を呼ぶ。
1996年、ニューヨークソーホーに初のショップをオープン。98年にはロスやボストンにもショップを開き、同年ケイトはCFDAのアクセサリーデザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞する。そして、レインコート、パジャマ、スカーフ、手袋とラインも拡大し、98年ステーショナリー、99年シューズ、2001年アイウェア、2002年にはエスティ・ローダーとの提携によりコスメにも進出した。
KENZO ケンゾー 高田賢三 Japan.
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歴史・解説
高田賢三は1939年、兵庫県姫路市生まれ。1958年文化服装学院師範科入学。1959年文化服装学院デザイン科へ進学。在学中の1960年に第8回「装苑賞」受賞。1961年文化服装学院デザイン科卒業。卒業後、三愛に入社するが、1965年に渡仏し、雑誌「エル」などにデザイン画を売り、ビザンティ、ルラシオン・テキスタイルなどを経て、1970年、パリのギャラリー・ヴィヴィエンヌにブティック「ジャングル・ジャップ」を開き、初コレクションを発表。カラフルで民族調の服が世界的に大流行した。
1972年 「日本ファッション・エディターズ・クラブ(F.E.C.)賞」受賞。1973年、「KENZO」の名でパリ・プレタにデビュー。1976年プラス・デ・ヴィクトワールにブティックとアトリエを結集。1979年ソル・ファボレで行われたオペラ「Der Zeitlauf」の衣装を担当。1983年10月、メゾンラフィットにて城を借りきったショーを行う。1984年仏政府より国家功労章「シュヴァリエ・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章(シュヴァリエ位)受章。
1985年東京にケンゾー・パリ(株)を設立。パリ本社JANGLE JAPをKENZO S.A.に社名変更。同年、第三回「毎日ファッション大賞」受賞。東京・武道館でケンゾー・ショーを開催。1987年、「夢工場・ケンゾーショー」を東京新国技館および大阪で開催し、大反響を呼ぶ。メンズ対象の「ルイ賞」(第一回)の受賞者となる。19895月、故郷の姫路で初めての野外ファッションショー「ケンゾー・IN・HIMEJI」(姫路城三の丸広場)、「KENZO展」(姫路市立美術館)を開催。同年9月、有楽町西武にて「Liberte KENZO展」を行う。1992年10月、東京都・パリ市友好都市提携10周年にあたり、記念行事の一環として東京にて「KENZO 93春夏コレクション」を開催。1993年1月、新宝塚大劇場のこけらおとし公演の洋物レビュー「Parfum de PARIS」の舞台衣裳を手がける。1994年5月、姫路城の世界文化遺産指定を記念して開催された「キャスティバル94」の一環として、94-95秋冬コレクショ ンを姫路で発表。
1998年3月、仏政府より国家功労章「コマンドゥール・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章(コマンドゥール位)受章。4月、青山骨董通りにKENZO PARISの初のフラッグシップ・ブティックをオープン。1999年2月、ニュ−ヨ−クで国連平和賞(タイム・ピース・アワ−ド)の98年ファッション賞を受賞。
1999年3月、バスティーユ・オペラ座にてロバート ウィルソンとのコラボレーション、オペラ「魔笛」の舞台衣装を担当。5月、日本の「紫綬褒章」を受章。
1999年10月、KENZO 30ANSと題した、2000年春夏コレクションと共に30年間のコレクションをLE ZENITHにて発表。2000年、30周年と60歳を区切りに「KENZO」ブランドを退く。
その後、高田賢三は、2002年フランスPPR(ピノー・プランタン・ルドゥート)社とコラボレート。通販カタログ誌「La Redoute(ラ ルドゥー ト)」へ招待デザイナーとして参加し、 秋冬号にてブランド名「Yume」でレディス・メンズプレタ、ハウスリネン、雑貨を展開。2003年、2004年8月のアテネオリンピックで日本選手団公式ユニフォームのデザインを担当。2004年2月、新ブランド「GOKAN KOBO(五感工房)」を発表した。
高田賢三が去った後の「KENZO」ブランドは後任デザイナーに、メンズウェアは、Roy Krejberg(ロイ・クライスベルグ)が高田賢三の指名により就任したが、2003年1月の「2003秋冬パリメンズコレクション」を最後に辞任。一時期、新クリエイティブ・ディレクターにクリストフ・ブロンダンが就任したが、その後はデザインチームによって発表されている。
レディスウェアは、Gilles Rosierが引き継いだが、彼も2003年の途中でケンゾーを去り、2003秋冬コレクションのランウェイショーは急遽、中止された。
2003年5月、ケンゾー社は、蝶理グループが所有していたケンゾー・ジャパンの株式34%を購入し、100%子会社化。ジャパン社は、ライセンス生産から輸入品中心の商品構成に切り替え、ブランドイメージの統一を図り、インポートラインの拡充を進めた。メンズはライカによって展開されていたが、メンズ・レディス共にケンゾー・ジャパンにより展開されることとなった。
2003年7月、パリ・セーヌ河岸のデパート「サマリテーヌ」の旧スポーツ館のワンブロックが、「ケンゾー・ビル」にリニューアル。設計は建築家のジャン=ジャック・オリー。アンドレ・プットマンによる回転寿司店、フィリップ・スタルクによるレストランも入店している。
2003年9月、LVMHは2004年秋からレディスウェアのクリエイティブ・ディレクターにアントニオ・マラス(Antonio Marras)が就任すると発表。
アントニオ・マラスは1961年、イタリア・サルデーニャ島アルゲロ生まれ。生家は島の洋装店。幼い頃からテキスタイルに興味を持ち、26歳でファッションの仕事をはじめ、91年に初のオートクチュール作品を発表。1999年にミラノコレクションで自身のブランド「アントニオ・マラス」を発表。2000年からは「トレンド レ・コパン」をミラノで発表している。
マラスは「『アントニオ・マラス』は、ラボラトリオ(実験室)。布で遊び、サルデーニャ島に残る刺しゅうなどの伝統技術を融合させ、他にはない服へ挑戦している」と語る。
マラスの初コレクションは、パリ・ルーブル美術館の地下で行われ、テーマは「ノマド(遊牧民)」。毛布をつなぎ合わせたようなケープ風ジャケット、チェックとストライプをミックスさせたパネルスカート、バラの刺しゅうが入ったパンツスーツ、フローラルな着物風ガウンを披露。様々な柄が組み合わされ、フォークロア調を現代にうまく生き返らせた。最後には、1970年代に元祖・ケンゾーのショーでもモデルをつとめていた、山口小夜子が登場、大きな毛糸玉のついたドレスで舞い、幕が開いた舞台には47人のモデルたちがそろい、演劇のようなスペクタルに、会場は感動に包まれた。「KENZOをデザインすることは感激であり、本当の意味での挑戦でもあります」とマラス。
Katarzyna Szczotarska カタジーナ・シュゾタルスカの高額商品はこちら
歴史・解説
デザイナー、カタジーナは、ポーランド生まれ。ミドルセックス工業大学(Middlesex Polytechnic)、ロンドン大学のファッション科で学んだ後、パリで2年間マルタン・マルジェラのアシスタントを務めた。その後、アルカディア・グループで、シニア・デザイナーを経て、デビュー。ロンドンコレクションで公開されている。
高品質に基づいたクチュールスタイルが基本。女性の本質を追求したシックなコレクション。
日本語表記は「カタジナ・ショタスカ」などと書かれることもあります。
Kate Spade ケイト・スペード U.S.A.
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解説・歴史
ケイト・スペードのデザイナー、ケイト(katherine noel brosnahan)は、アメリカ・カンザス州生まれ。ニューヨーク在住。ニューヨークの小さなスタジオを借りて暮らしながら、マドモアゼル誌のファッション系アシスタントとして働いていたが、学生時代からの恋人(後の夫&ビジネスパートナーとなるAndy spade)に、「君はハンドバッグが大好きだから会社を始めたらどうか」と勧められ、93年ハンドバッグブランドをスタート。会社はケイトの名前と、アンディの名前を組み合わせて生まれた。エディターとしての経験を生かし、使い勝手とおしゃれを両立した大人の女性に愛されるそのバッグは、瞬く間に人気を呼ぶ。
1996年、ニューヨークソーホーに初のショップをオープン。98年にはロスやボストンにもショップを開き、同年ケイトはCFDAのアクセサリーデザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞する。そして、レインコート、パジャマ、スカーフ、手袋とラインも拡大し、98年ステーショナリー、99年シューズ、2001年アイウェア、2002年にはエスティ・ローダーとの提携によりコスメにも進出した。
KENZO ケンゾー 高田賢三 Japan.
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歴史・解説
高田賢三は1939年、兵庫県姫路市生まれ。1958年文化服装学院師範科入学。1959年文化服装学院デザイン科へ進学。在学中の1960年に第8回「装苑賞」受賞。1961年文化服装学院デザイン科卒業。卒業後、三愛に入社するが、1965年に渡仏し、雑誌「エル」などにデザイン画を売り、ビザンティ、ルラシオン・テキスタイルなどを経て、1970年、パリのギャラリー・ヴィヴィエンヌにブティック「ジャングル・ジャップ」を開き、初コレクションを発表。カラフルで民族調の服が世界的に大流行した。
1972年 「日本ファッション・エディターズ・クラブ(F.E.C.)賞」受賞。1973年、「KENZO」の名でパリ・プレタにデビュー。1976年プラス・デ・ヴィクトワールにブティックとアトリエを結集。1979年ソル・ファボレで行われたオペラ「Der Zeitlauf」の衣装を担当。1983年10月、メゾンラフィットにて城を借りきったショーを行う。1984年仏政府より国家功労章「シュヴァリエ・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章(シュヴァリエ位)受章。
1985年東京にケンゾー・パリ(株)を設立。パリ本社JANGLE JAPをKENZO S.A.に社名変更。同年、第三回「毎日ファッション大賞」受賞。東京・武道館でケンゾー・ショーを開催。1987年、「夢工場・ケンゾーショー」を東京新国技館および大阪で開催し、大反響を呼ぶ。メンズ対象の「ルイ賞」(第一回)の受賞者となる。19895月、故郷の姫路で初めての野外ファッションショー「ケンゾー・IN・HIMEJI」(姫路城三の丸広場)、「KENZO展」(姫路市立美術館)を開催。同年9月、有楽町西武にて「Liberte KENZO展」を行う。1992年10月、東京都・パリ市友好都市提携10周年にあたり、記念行事の一環として東京にて「KENZO 93春夏コレクション」を開催。1993年1月、新宝塚大劇場のこけらおとし公演の洋物レビュー「Parfum de PARIS」の舞台衣裳を手がける。1994年5月、姫路城の世界文化遺産指定を記念して開催された「キャスティバル94」の一環として、94-95秋冬コレクショ ンを姫路で発表。
1998年3月、仏政府より国家功労章「コマンドゥール・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章(コマンドゥール位)受章。4月、青山骨董通りにKENZO PARISの初のフラッグシップ・ブティックをオープン。1999年2月、ニュ−ヨ−クで国連平和賞(タイム・ピース・アワ−ド)の98年ファッション賞を受賞。
1999年3月、バスティーユ・オペラ座にてロバート ウィルソンとのコラボレーション、オペラ「魔笛」の舞台衣装を担当。5月、日本の「紫綬褒章」を受章。
1999年10月、KENZO 30ANSと題した、2000年春夏コレクションと共に30年間のコレクションをLE ZENITHにて発表。2000年、30周年と60歳を区切りに「KENZO」ブランドを退く。
その後、高田賢三は、2002年フランスPPR(ピノー・プランタン・ルドゥート)社とコラボレート。通販カタログ誌「La Redoute(ラ ルドゥー ト)」へ招待デザイナーとして参加し、 秋冬号にてブランド名「Yume」でレディス・メンズプレタ、ハウスリネン、雑貨を展開。2003年、2004年8月のアテネオリンピックで日本選手団公式ユニフォームのデザインを担当。2004年2月、新ブランド「GOKAN KOBO(五感工房)」を発表した。
高田賢三が去った後の「KENZO」ブランドは後任デザイナーに、メンズウェアは、Roy Krejberg(ロイ・クライスベルグ)が高田賢三の指名により就任したが、2003年1月の「2003秋冬パリメンズコレクション」を最後に辞任。一時期、新クリエイティブ・ディレクターにクリストフ・ブロンダンが就任したが、その後はデザインチームによって発表されている。
レディスウェアは、Gilles Rosierが引き継いだが、彼も2003年の途中でケンゾーを去り、2003秋冬コレクションのランウェイショーは急遽、中止された。
2003年5月、ケンゾー社は、蝶理グループが所有していたケンゾー・ジャパンの株式34%を購入し、100%子会社化。ジャパン社は、ライセンス生産から輸入品中心の商品構成に切り替え、ブランドイメージの統一を図り、インポートラインの拡充を進めた。メンズはライカによって展開されていたが、メンズ・レディス共にケンゾー・ジャパンにより展開されることとなった。
2003年7月、パリ・セーヌ河岸のデパート「サマリテーヌ」の旧スポーツ館のワンブロックが、「ケンゾー・ビル」にリニューアル。設計は建築家のジャン=ジャック・オリー。アンドレ・プットマンによる回転寿司店、フィリップ・スタルクによるレストランも入店している。
2003年9月、LVMHは2004年秋からレディスウェアのクリエイティブ・ディレクターにアントニオ・マラス(Antonio Marras)が就任すると発表。
アントニオ・マラスは1961年、イタリア・サルデーニャ島アルゲロ生まれ。生家は島の洋装店。幼い頃からテキスタイルに興味を持ち、26歳でファッションの仕事をはじめ、91年に初のオートクチュール作品を発表。1999年にミラノコレクションで自身のブランド「アントニオ・マラス」を発表。2000年からは「トレンド レ・コパン」をミラノで発表している。
マラスは「『アントニオ・マラス』は、ラボラトリオ(実験室)。布で遊び、サルデーニャ島に残る刺しゅうなどの伝統技術を融合させ、他にはない服へ挑戦している」と語る。
マラスの初コレクションは、パリ・ルーブル美術館の地下で行われ、テーマは「ノマド(遊牧民)」。毛布をつなぎ合わせたようなケープ風ジャケット、チェックとストライプをミックスさせたパネルスカート、バラの刺しゅうが入ったパンツスーツ、フローラルな着物風ガウンを披露。様々な柄が組み合わされ、フォークロア調を現代にうまく生き返らせた。最後には、1970年代に元祖・ケンゾーのショーでもモデルをつとめていた、山口小夜子が登場、大きな毛糸玉のついたドレスで舞い、幕が開いた舞台には47人のモデルたちがそろい、演劇のようなスペクタルに、会場は感動に包まれた。「KENZOをデザインすることは感激であり、本当の意味での挑戦でもあります」とマラス。
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Jean Paul Gaultier ジャン・ポール・ゴルチエ France
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歴史・解説
ジャン ポール・ゴルチエは1952年4月24日、フランス・パリに生まれる。若い頃からデザイナーを目指し、多くのデザイナーに自分のスケッチを送りつづけ、1970年18歳の時に、ピエール・カルダンに採用される。1年間、アシスタントとして勤めたあと、ジャン・パトゥなどを経て、フリーに。1976年、初めてアクセサリーコレクションを発表するとともに、ジャン ポール・ゴルティエの名でコレクションを発表。1977年には、ジャンポール・ゴルチエ設立。1978年、樫山フランスと提携して、本格的な活動を開始。1981年、オンワード樫山とライセンス契約を結ぶ。1984年より、ミラノ・パリ・日本・香港にオンリーショップをオープンし、メンズラインスタート。1987年には、オスカー・ドゥ・ラ・モード受賞。1988年「Junior Gaultier」スタート。1992年「Gaultier Jeans」、1993年には香水、1997年にはオートクチュールを開始。2003年より浴衣およびリョーカから水着も発売。
アバンギャルドとクラシズムが融合したスタイルで、パリコレクションにおいて多くのジャーナリズムの人気を集める。
映画の衣装も数多く手がけ。89年「コックと泥棒、その妻と愛人」、94年「キカ」、94年「ロストチルドレン」、97年「フィフス・エレメント」の衣装を担当。とくにSFが舞台となっている「フィフス・エレメント」の未来衣装は鮮烈なイメージを残した。さらに90年のマドンナ、ワールドツアーの衣装も担当した。
2004年3月の2004秋冬コレクションからはエルメスのレディスのデザインも手がけている。
現在のブランド展開は「ジュニア・ゴルチエ」、「ゴルチエ・ジーンズ」、「ジャンポール・ゴルチエ パルファム」、「JPG」、「ジャンポール・ゴルチエ・クラシック」。
また、日本ではオンワード樫山が2005年春夏よりブランド戦略を刷新。ジャンポール・ゴルチエ社と共同出資でフュージョン社を設立
(オンワード樫山50%、ジャンポール・ゴルチエ社50%出資)し、この新会社が運営するショップとして、ジャンポール・ゴルチエとフィリップ・スタルク(Philippe Starck)が共同でショップデザインのコンセプトを手掛けた新コンセプトショップ「ジャンポール・ゴルチエ丸の内仲通り店」を2004年9月に明治安田生命ビル(丸の内マイプラザ)1階にオープン。
ジャンポール・ゴルチエ社では世界戦略の一環として、フィリップ・スタルクがデザインする新しいタイプの路面店を世界の主要ファッション都市に出店しており、2002年春にニューヨーク・マディソンアベニューに1号店を出店して以来、パリ、ロンドン、シンガポール、香港などに11店舗が完成。
丸の内への出店は日本で初めてになり、これまでのショップとは異なり、ジャンポール・ゴルチエとフィリップ・スタルクが共同でコンセプトを練り上げた、全く新しいタイプの新コンセプトショップとなる。ショップデザインは、壁の窪みに服をかける造りや巨大な鏡の屏風、インドやモロッコで見られるタデラクトと呼ばれる不均一な質感が魅力の白い壁などで、幻想的かつロマンティクな雰囲気が漂う空間。3メートルの巨大ピンポン玉で作られたシャンデリアや巨大ピンポン玉スクリーンを設置し、同ショップ限定のイメージビジュアルが投影される。
ファーストブランドはイタリア生産によるインポート商品に切り替えるとともに、ジャンポール・ゴルチエ社とのコラボレーションによる新ブランド「ジャンポール・ゴルチエ フュージョン」を新たに展開する。「ジャンポール・ゴルチエ フュージョン」は、ジャンポール・ゴルチエのクリエーションと日本のマーケットトレンドの融合をコンセプトに、ファーストブランドより手頃な価格で提供するセカンドブランド。ブランド名は、フュージョン料理から名づけられた。また、2005年春夏から欧米で発売されるジャンポール・ゴルチエのジーンズブランド「ジーンズポール・ゴルチエ」の日本での展開も同時にスタート(リプロ生産)した。
Jil Sander ジル・サンダー German
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解説・歴史
ジル・サンダーはドイツに生まれ、ハンブルグの高校を卒業後、テキスタイルとデザインを学んだあとアメリカに留学。カルフォルニア大学に2年間在籍し、ニューヨークでファッションジャーナリストとして、雑誌社に勤務 。1965年、ドイツに帰国後、ファッションジャーナリストを経て、1968年に25歳で初めて婦人服をデザインし、ハンブルグの「ミルク通り」にあった古いランプ屋を改装し、画廊のような白塗りの空間にミニマリズム感覚の服を並べたショップをオープン。1973年、レディスコレクションを発表。1987年にミラノ・コレクションにデビューし、 1993年には、パリのモンテニューにブティックをオープン。1997秋冬、ミラノ・メンズコレクションで初のメンズコレクションに参加。
自らを彫刻家のようだと語るジルは、厳しくセレクトした素材を身体にのせ、無駄を削ぎ落としたピュアなフォルムが特徴。「デザイン・ウィズアウト・デコレーション」という理念のままに、色使いも抑制しながら、素材使いと仕立てのよさは最高レベルのハンドテーラリングによって仕立てられている。1999年、2月20日青山に旗艦店オープン、これを機にジル・サンダー本人も来日した。
99年8月プラダによる買収を発表。当初、ジル・サンダーは会長として残り、デザインとスタイリングの責任者をそのまま続けることが決まっていたが、方針の違いからジル・サンダー本人の辞任が決定。2000秋冬コレクションが最後となった。2001春夏はプラダのデザインチームによって発表されたが、2001秋冬からは人気セレクトショップ「コレット」のバイヤーだった、ミラン・ヴクロヴィッチがデザインを担当。
しかし、2003年5月、3年間の離別を経て、ジル・サンダーはかつて自らが作り上げたジル・サンダーAGのヘッドへ復帰すると発表された。また、それだけでなくジル・サンダー社を所有する親会社のプラダ・ホールディングN.V.の戦略委員会の委員も務める。ジルは「ジル・サンダー」ブランドの新製品から広告、小売りまで、すべての管理を行い、プラダグループのCEO、パトリツィオ・ベルテッリは「ブランド自体が彼女と一体化する」とコメントした。2003年6月、復帰後初のコレクションとなった2004春夏ミラノメンズコレクションでは時間がなかったためか、十数点だけをプレゼンテーション。軽い素材とシンプルなシルエットでミニマリズムが戻ったと、好評を得た。
2004年11月、プラダ・グループは、「戦略および金融計画での異なる見解によりジル・サンダーが会社を去った」と発表。バッグなどのアクセサリー販売を増やして利益を上げる方針だったが、この辺りを巡って対立があったという。プラダグループのスポークスマンは、「コレクションは(前回の辞任時と同様に)現在の会社内によるデザインチームが引き継ぐだろう」と語った。
2005年5月、プラダ・グループとジル・サンダーは7月1日から、ベルギー人デザイナー、ラフ・シモンズ(Raf Simons)がクリエイティブディレクターを引き継ぐと発表した。ラフ・シモンズはレディス、メンズ両方のコレクションを手がけ、ファーストコレクションは、2006年2月ミラノでの2006秋冬コレクションで発表。「ジル・サンダーのようなピュアでクリーンなブランドで働くことができて、とてもうれしく思います。私のブランドとジル・サンダーには多くの類似点があり、私はこれからもジル・サンダーに象徴されるシンプルで清純なデザインを続けたいと思います」とシモンズ。ジル・サンダー社のCEO、ジャン・ジャコモ・フェラーリ(Gian Giacomo Ferraris)は「ラフ・シモンズと仕事をすることは、ジル・サンダー・ブランドの強い連続性を保証するでしょう」と語った。ラフ・シモンズは1968年、ベルギーのNeerpeltに生まれ、家具デザイナーとしてデビュー。1995年に自分のブランドを開始し、ミラノで1シーズン発表した後、パリに移動。2000年にはウィーン大学応用美術の教授に就任。2003年にはスイス・テキスタイル・アワードを受賞している。
2006年2月、プラダはジル・サンダーをロンドンの投資会社Change Capital Partnersに売却することで合意したと発表した。売却金額などは明らかにされていない。「私たちが、プラダとミュウミュウに注力すると共に、ジル・サンダーのビジネスを育てるために、Change Capital Partnersが必要な資金を提供するでしょう」とプラダのパトリッツオ・ベルテッリ。Change Capital Partnersはマークス・アンド・スペンサーで会長を務めたLuc Vandeveldeの投資会社。Change Capital Partnersのマネージング・ディレクター、Stephan Lobmeyrは「ジル・サンダーの創造的な才能と専門知識を自らのブランドと小売経営、投資経験と組み合わせることを望んだ」とコメント。
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歴史・解説
ジャン ポール・ゴルチエは1952年4月24日、フランス・パリに生まれる。若い頃からデザイナーを目指し、多くのデザイナーに自分のスケッチを送りつづけ、1970年18歳の時に、ピエール・カルダンに採用される。1年間、アシスタントとして勤めたあと、ジャン・パトゥなどを経て、フリーに。1976年、初めてアクセサリーコレクションを発表するとともに、ジャン ポール・ゴルティエの名でコレクションを発表。1977年には、ジャンポール・ゴルチエ設立。1978年、樫山フランスと提携して、本格的な活動を開始。1981年、オンワード樫山とライセンス契約を結ぶ。1984年より、ミラノ・パリ・日本・香港にオンリーショップをオープンし、メンズラインスタート。1987年には、オスカー・ドゥ・ラ・モード受賞。1988年「Junior Gaultier」スタート。1992年「Gaultier Jeans」、1993年には香水、1997年にはオートクチュールを開始。2003年より浴衣およびリョーカから水着も発売。
アバンギャルドとクラシズムが融合したスタイルで、パリコレクションにおいて多くのジャーナリズムの人気を集める。
映画の衣装も数多く手がけ。89年「コックと泥棒、その妻と愛人」、94年「キカ」、94年「ロストチルドレン」、97年「フィフス・エレメント」の衣装を担当。とくにSFが舞台となっている「フィフス・エレメント」の未来衣装は鮮烈なイメージを残した。さらに90年のマドンナ、ワールドツアーの衣装も担当した。
2004年3月の2004秋冬コレクションからはエルメスのレディスのデザインも手がけている。
現在のブランド展開は「ジュニア・ゴルチエ」、「ゴルチエ・ジーンズ」、「ジャンポール・ゴルチエ パルファム」、「JPG」、「ジャンポール・ゴルチエ・クラシック」。
また、日本ではオンワード樫山が2005年春夏よりブランド戦略を刷新。ジャンポール・ゴルチエ社と共同出資でフュージョン社を設立
(オンワード樫山50%、ジャンポール・ゴルチエ社50%出資)し、この新会社が運営するショップとして、ジャンポール・ゴルチエとフィリップ・スタルク(Philippe Starck)が共同でショップデザインのコンセプトを手掛けた新コンセプトショップ「ジャンポール・ゴルチエ丸の内仲通り店」を2004年9月に明治安田生命ビル(丸の内マイプラザ)1階にオープン。
ジャンポール・ゴルチエ社では世界戦略の一環として、フィリップ・スタルクがデザインする新しいタイプの路面店を世界の主要ファッション都市に出店しており、2002年春にニューヨーク・マディソンアベニューに1号店を出店して以来、パリ、ロンドン、シンガポール、香港などに11店舗が完成。
丸の内への出店は日本で初めてになり、これまでのショップとは異なり、ジャンポール・ゴルチエとフィリップ・スタルクが共同でコンセプトを練り上げた、全く新しいタイプの新コンセプトショップとなる。ショップデザインは、壁の窪みに服をかける造りや巨大な鏡の屏風、インドやモロッコで見られるタデラクトと呼ばれる不均一な質感が魅力の白い壁などで、幻想的かつロマンティクな雰囲気が漂う空間。3メートルの巨大ピンポン玉で作られたシャンデリアや巨大ピンポン玉スクリーンを設置し、同ショップ限定のイメージビジュアルが投影される。
ファーストブランドはイタリア生産によるインポート商品に切り替えるとともに、ジャンポール・ゴルチエ社とのコラボレーションによる新ブランド「ジャンポール・ゴルチエ フュージョン」を新たに展開する。「ジャンポール・ゴルチエ フュージョン」は、ジャンポール・ゴルチエのクリエーションと日本のマーケットトレンドの融合をコンセプトに、ファーストブランドより手頃な価格で提供するセカンドブランド。ブランド名は、フュージョン料理から名づけられた。また、2005年春夏から欧米で発売されるジャンポール・ゴルチエのジーンズブランド「ジーンズポール・ゴルチエ」の日本での展開も同時にスタート(リプロ生産)した。
Jil Sander ジル・サンダー German
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解説・歴史
ジル・サンダーはドイツに生まれ、ハンブルグの高校を卒業後、テキスタイルとデザインを学んだあとアメリカに留学。カルフォルニア大学に2年間在籍し、ニューヨークでファッションジャーナリストとして、雑誌社に勤務 。1965年、ドイツに帰国後、ファッションジャーナリストを経て、1968年に25歳で初めて婦人服をデザインし、ハンブルグの「ミルク通り」にあった古いランプ屋を改装し、画廊のような白塗りの空間にミニマリズム感覚の服を並べたショップをオープン。1973年、レディスコレクションを発表。1987年にミラノ・コレクションにデビューし、 1993年には、パリのモンテニューにブティックをオープン。1997秋冬、ミラノ・メンズコレクションで初のメンズコレクションに参加。
自らを彫刻家のようだと語るジルは、厳しくセレクトした素材を身体にのせ、無駄を削ぎ落としたピュアなフォルムが特徴。「デザイン・ウィズアウト・デコレーション」という理念のままに、色使いも抑制しながら、素材使いと仕立てのよさは最高レベルのハンドテーラリングによって仕立てられている。1999年、2月20日青山に旗艦店オープン、これを機にジル・サンダー本人も来日した。
99年8月プラダによる買収を発表。当初、ジル・サンダーは会長として残り、デザインとスタイリングの責任者をそのまま続けることが決まっていたが、方針の違いからジル・サンダー本人の辞任が決定。2000秋冬コレクションが最後となった。2001春夏はプラダのデザインチームによって発表されたが、2001秋冬からは人気セレクトショップ「コレット」のバイヤーだった、ミラン・ヴクロヴィッチがデザインを担当。
しかし、2003年5月、3年間の離別を経て、ジル・サンダーはかつて自らが作り上げたジル・サンダーAGのヘッドへ復帰すると発表された。また、それだけでなくジル・サンダー社を所有する親会社のプラダ・ホールディングN.V.の戦略委員会の委員も務める。ジルは「ジル・サンダー」ブランドの新製品から広告、小売りまで、すべての管理を行い、プラダグループのCEO、パトリツィオ・ベルテッリは「ブランド自体が彼女と一体化する」とコメントした。2003年6月、復帰後初のコレクションとなった2004春夏ミラノメンズコレクションでは時間がなかったためか、十数点だけをプレゼンテーション。軽い素材とシンプルなシルエットでミニマリズムが戻ったと、好評を得た。
2004年11月、プラダ・グループは、「戦略および金融計画での異なる見解によりジル・サンダーが会社を去った」と発表。バッグなどのアクセサリー販売を増やして利益を上げる方針だったが、この辺りを巡って対立があったという。プラダグループのスポークスマンは、「コレクションは(前回の辞任時と同様に)現在の会社内によるデザインチームが引き継ぐだろう」と語った。
2005年5月、プラダ・グループとジル・サンダーは7月1日から、ベルギー人デザイナー、ラフ・シモンズ(Raf Simons)がクリエイティブディレクターを引き継ぐと発表した。ラフ・シモンズはレディス、メンズ両方のコレクションを手がけ、ファーストコレクションは、2006年2月ミラノでの2006秋冬コレクションで発表。「ジル・サンダーのようなピュアでクリーンなブランドで働くことができて、とてもうれしく思います。私のブランドとジル・サンダーには多くの類似点があり、私はこれからもジル・サンダーに象徴されるシンプルで清純なデザインを続けたいと思います」とシモンズ。ジル・サンダー社のCEO、ジャン・ジャコモ・フェラーリ(Gian Giacomo Ferraris)は「ラフ・シモンズと仕事をすることは、ジル・サンダー・ブランドの強い連続性を保証するでしょう」と語った。ラフ・シモンズは1968年、ベルギーのNeerpeltに生まれ、家具デザイナーとしてデビュー。1995年に自分のブランドを開始し、ミラノで1シーズン発表した後、パリに移動。2000年にはウィーン大学応用美術の教授に就任。2003年にはスイス・テキスタイル・アワードを受賞している。
2006年2月、プラダはジル・サンダーをロンドンの投資会社Change Capital Partnersに売却することで合意したと発表した。売却金額などは明らかにされていない。「私たちが、プラダとミュウミュウに注力すると共に、ジル・サンダーのビジネスを育てるために、Change Capital Partnersが必要な資金を提供するでしょう」とプラダのパトリッツオ・ベルテッリ。Change Capital Partnersはマークス・アンド・スペンサーで会長を務めたLuc Vandeveldeの投資会社。Change Capital Partnersのマネージング・ディレクター、Stephan Lobmeyrは「ジル・サンダーの創造的な才能と専門知識を自らのブランドと小売経営、投資経験と組み合わせることを望んだ」とコメント。
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ISSEI MIYAKE 三宅一生 イッセイ・ミヤケ Japan
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歴史・解説
三宅一生は1938年広島県生まれ。多摩美術大学在学中に「布と石の詩」を発表。卒業後フランスに渡り、ギ・ラロッシュ、ジバンシィで修行。ニューヨークを経て帰国後、1970年「三宅デザイン事務所」設立。日本における活動を開始し、71年ニューヨーク、73年パリでコレクションを発表。「刺子」の作品が大きな反響を呼ぶ。74年FEC賞受賞。76年「三宅一生と12人の黒い女たち」を東京、大阪で開催。同年、毎日デザイン大賞受賞。77年西武美術館で「三宅一生と一枚の布」展開催。85年、オスカー・デ・ラモード賞受賞。88年、パリ・ルーブル美術館で「イッセイ・ミヤケ AUN展」開催。
プリーツ・プリーズ(PLEATS PLEASE)は1989年、三宅自身の言葉を借りれば「パン焼き器からパンが出てくるみたいに、ポコンとシャツが生まれた」。プリーツという古代から存在する装飾を最新のテクノロジー素材へと昇華。1992年にフレグランス「L' EAU D' ISSEY」デビュー。
1993年には「イッセイ ミヤケ」の中で発表してきた「プリーツ」が独立したブランドとなり、鮮やかな配色とポリエステル素材を用いたその軽さが、多くの支持を集めた。95‐99年には写真家・高木由利子による世界各地の人々がプリーツ プリーズと出会うプロジェクト開催。96‐98年には森村泰昌の絵や荒木経維らの作品をまとう、ゲスト・アーティストとコラボレートによる「エターナルコレクション」を開催。96年、フィレンツェ・ビエンナーレ、98年パリのカルティエ現代美術館で作品が展示される。カルティエ現代美術館では、「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」と題され、1Fがゲストアーティストシリーズで埋め尽くされた。東洋の精神性をファッションの世界で表現するデザイナーとして世界的な名声を誇る。99年にはコンピューター・テクノロジーを導入し、着用者自身の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
ISSEY MIYAKE MENが94年春夏シーズンより、ISSEY MIYAKE(レディス)は2000年春夏シーズンに滝沢直己がデザイナーに就任。イッセイ・ミヤケグループ傘下にはZUCCa・TSUMORI CHISATOなどを展開しているエイネットがある。
滝沢直己は、1960年東京都生まれ。82年桑沢デザイン研究所卒業後、三宅デザイン事務所入社。1983年には、「Plantation」のデザイナーに就任。89年にはイッセイ・ミヤケ(レディス)パリコレクションのデザイン・チームに加わり、91年三宅一生のデザインアソシエートとして 「ISSEY MIYAKE」パリコレクションに参加。93年の94年春夏コレクションを機に「Issey Miyake Men by Naoki Takizawa」としてパリでコレクションを発表。三宅独自の服つくりの理念をデザイナー滝沢直己が受け継ぎながら、滝沢ならではの視点による新素材や新しい技術を取り入れて発展。1995年のウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルトバレエ団のコスチュームデザインをはじめとして芸術家とのコラボレーションにも積極的で、2000年春夏ミラノメンズコレクションでは現代美術家・村上隆氏との合作服・Kai Kai Ki Kiを発表し話題を呼んだ。1998年には第16回毎日ファッション大賞を受賞。
ISSEI MIYAKE 三宅一生 イッセイ・ミヤケの高額商品はこちら
歴史・解説
三宅一生は1938年広島県生まれ。多摩美術大学在学中に「布と石の詩」を発表。卒業後フランスに渡り、ギ・ラロッシュ、ジバンシィで修行。ニューヨークを経て帰国後、1970年「三宅デザイン事務所」設立。日本における活動を開始し、71年ニューヨーク、73年パリでコレクションを発表。「刺子」の作品が大きな反響を呼ぶ。74年FEC賞受賞。76年「三宅一生と12人の黒い女たち」を東京、大阪で開催。同年、毎日デザイン大賞受賞。77年西武美術館で「三宅一生と一枚の布」展開催。85年、オスカー・デ・ラモード賞受賞。88年、パリ・ルーブル美術館で「イッセイ・ミヤケ AUN展」開催。
プリーツ・プリーズ(PLEATS PLEASE)は1989年、三宅自身の言葉を借りれば「パン焼き器からパンが出てくるみたいに、ポコンとシャツが生まれた」。プリーツという古代から存在する装飾を最新のテクノロジー素材へと昇華。1992年にフレグランス「L' EAU D' ISSEY」デビュー。
1993年には「イッセイ ミヤケ」の中で発表してきた「プリーツ」が独立したブランドとなり、鮮やかな配色とポリエステル素材を用いたその軽さが、多くの支持を集めた。95‐99年には写真家・高木由利子による世界各地の人々がプリーツ プリーズと出会うプロジェクト開催。96‐98年には森村泰昌の絵や荒木経維らの作品をまとう、ゲスト・アーティストとコラボレートによる「エターナルコレクション」を開催。96年、フィレンツェ・ビエンナーレ、98年パリのカルティエ現代美術館で作品が展示される。カルティエ現代美術館では、「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」と題され、1Fがゲストアーティストシリーズで埋め尽くされた。東洋の精神性をファッションの世界で表現するデザイナーとして世界的な名声を誇る。99年にはコンピューター・テクノロジーを導入し、着用者自身の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
ISSEY MIYAKE MENが94年春夏シーズンより、ISSEY MIYAKE(レディス)は2000年春夏シーズンに滝沢直己がデザイナーに就任。イッセイ・ミヤケグループ傘下にはZUCCa・TSUMORI CHISATOなどを展開しているエイネットがある。
滝沢直己は、1960年東京都生まれ。82年桑沢デザイン研究所卒業後、三宅デザイン事務所入社。1983年には、「Plantation」のデザイナーに就任。89年にはイッセイ・ミヤケ(レディス)パリコレクションのデザイン・チームに加わり、91年三宅一生のデザインアソシエートとして 「ISSEY MIYAKE」パリコレクションに参加。93年の94年春夏コレクションを機に「Issey Miyake Men by Naoki Takizawa」としてパリでコレクションを発表。三宅独自の服つくりの理念をデザイナー滝沢直己が受け継ぎながら、滝沢ならではの視点による新素材や新しい技術を取り入れて発展。1995年のウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルトバレエ団のコスチュームデザインをはじめとして芸術家とのコラボレーションにも積極的で、2000年春夏ミラノメンズコレクションでは現代美術家・村上隆氏との合作服・Kai Kai Ki Kiを発表し話題を呼んだ。1998年には第16回毎日ファッション大賞を受賞。
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HAN AHN SOON ハンアンスン Korea
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歴史・解説
大阪生まれの在日韓国人3世女性デザイナー、Han ahn soon(韓安順・ハンアンスン)は1976年7月12日生まれ。1999年11月に「大阪コレクション 新人ジョイント」に出展。
デザイナー活動を開始する。2002年4月に再び「大阪コレクション」に出展。テーマは「人魚」。サイドにラインストーンテープを施した「ラインストーンデニム」を発表した。
その後、9月には大阪・北堀江のコンプレックス「cor(コル)」内に第1号店となるフラッグシップショップをオープン。日韓両国の服飾文化に影響を受けて育まれた独特の色彩感覚と、絶妙なバランスのスタイリングが特長。
2002年10月28日、原宿クエストホールにて「2003春夏東京コレクション」に出展。コレクションテーマは、「昭和」。昭和の歌謡番組の映像にインスパイアされたコレクションは、会場に山口百恵やピンクレディーの映像が映し出され、スパンコールやビーズなど光り物を付けた黒や紫のドレスは、昭和の歌手のステージ衣装を思わせる。また、「科学忍者隊ガッチャマン」のキャラクターや文字が躍る原色のTシャツやニットなど、昭和40年代のキャラクターを取り入れ、話題を呼ぶ。続いて、2003秋冬東京コレクションにも出展。2003秋冬のテーマは「フランス女優」。2004春夏のテーマは「HEART」。2004秋冬のテーマは「BLACK」。2005春夏のテーマは「OHANA」。様々なコサージュをパンツ、サンダル、ベストにあしらい、ヴィヴィッドな色のティアードスカートやワンピースというドラマティックなスタイルを打ち出した。
2006年2月、表参道ヒルズに旗艦店をオープン。
2006年5月、リステアとのハンアンスン事業に関する業務委託契約が終了したことを受け、株式会社HAN AHN SOON(ハンアンスン)との間で新たなデザイン契約を締結。同社のデザイナーとして「ハンアンスン」ブランドを展開することとなった。株式会社HAN AHN SOONの社長はパリのセレクトショップ「レクレルール東京」を経営しているマークスタイラーの社長でもある惠藤憲二。「PASSION ELEGANCE」をキーワードに展開し、新旗艦店は2007春、青山にオープン予定。
H&M Hennes&Mauritz へネス&モーリッツ Sweden
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解説・歴史
H&Mの創業者である、Erling Perssonは、もとはスウェーデン、Vasterasのセールスマンだった。アメリカ旅行中に高品質の商品を大量生産により低価格で展開するという新しいタイプの衣料品店に着想を得て、帰国後の1947年9月13日、Vasterasに「Hennes」の1号店を開く。婦人衣料を扱っていたため、店名はシンプルにスウェーデン語の「彼女(英語のhers)」を意味する「Hennes」と名づけられた。
50年代から60年代にかけて、Hennesは順調に拡大。1964年、ノルウエーに海外初の出店。1968年にErling PerssonがストックホルムのSergelgatanにある狩猟と銃器の店、「Mauritz Widforss」を買収。この店は紳士衣料も扱っていたこともあり、これを機に紳士衣料の展開も開始し、店名を「Hennes&Mauritz」に変更。子供服も導入される。
1974年株式上場。1975年化粧品販売を開始。1976年ティーン向け、1978年ベビー服を開始。1980年ロウエル(Rowells)メールオーダーを買収。
1982年、Erling Perssonの息子、Stefan Perssonがマネージング・ディレクターに就任し、国際戦略も拡大。2000年3月には、ニューヨーク、マンハッタンの5番街に初のアメリカ店である旗艦店をオープンするとと同時にアメリカに進出。1998年、購買担当役員だったファビアン・マンソン(Fabian Mansson)が新CEO、Stefanが会長に就任。2000年オランダ子会社のCEOだったロルフ・エリクソン(Rolf Eriksen)が、新CEOに就任する。
「最良の価格でファッションとクオリティを提供する」をコンセプトにアメリカでの成功に続き、さらなる国際的拡大を続け、2002年には34,000人以上の従業員を持ち、14か国で800以上の店で衣服および化粧品を販売。売り上げは総計44億ドルに達する。
2004年11月にはカール・ラガーフェルドとコラボレートした「Karl Lagerfeld for H&M」を展開。欧州各国と米国の各店で行列ができるほどの話題を集め、店によっては数時間で売り切れたという。
2005年夏にはElio Fiorucciが限定サマーコレクションをデザイン。アイテムはメンズ、レディス、アクセサリーなど約100アイテムで、70年代をイメージしたカラフルなプリントが特徴。
2005年秋にはステラ・マッカートニーとコラボレートし、約40の特別コレクションを発売する。H&Mのデザイン・ヘッド、Margareta van den Boschは「ステラ・マッカートニーとコラボレートできて、私たちは興奮しています。彼女のデザインはモダンでクールでありながら、クラシックで、かつウェアラブルです。私たちは、彼女のテーラリングセンスとフェミニンを長い間賞賛しており、消費者調査でも彼女のブランドの強さを確認しています。私たちはこの秋、ユーザーに特別なコラボレートを披露できるでしょう」と発表した。
ちなみにヘネス&モーリッツは英語読みで、スウェーデン語では「ヘンネス・オック・マウリッツ」と発音。H&Mは「ホーエム」と読む。
HARRY WINSTON ハリー・ウィンストン U.S.A.
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歴史・解説
創業者、ハリー・ウィンストンはニューヨークの宝石商の息子として1896年誕生(1978年没)。父親、ヤコブ・ウインストンは1890年、ニューヨークに宝石店を開いていた。幼いころから宝石の真価を見分ける優れた能力をもっていたハリーは、12歳のとき、ある店で25セントの緑の石を購入。その石が、2カラットのエメラルドだと見抜いていたハリーは、宝石商を営む父のもとに持ち帰った。2日後、石は800ドルで売却された。この話は同社において伝説のように現在でも語り継がれているという。
15歳のときにはロサンゼルスに居を移して店を開いた父親の宝石店で仕事を始め、1920年、24歳のときにプレミア・ダイヤモンド社をニューヨーク五番街535番地に設立。第一次世界大戦後、ヨーロッパ貴族が市場に売りに出した華やかで装飾過剰なジュエリーをモダンにリメイクし、当時の新興富裕層のステイタスシンボルとなるシンプルなデザインのジュエリーを制作した。1925年にはアメリカの大富豪ストダート夫人の遺産コレクションを落札。そのコレクションを125万ドルという当時として破格の値段で売却することに成功した。ここでの成功と手にした収入から、ハリーは彼が目指す世界の富裕な人々が所有する極上の宝飾品を扱う宝石商へと歩みを進める。
1926年にはアメリカの鉄道会社創設者であったハンティントン夫人のコレクションを120万ドルで落札、1930年にはアメリカの公開競売場に出たもののなかでは最大といわれる39カラットのエメラルドカットのダイヤモンドの落札に成功。1932年にはプレミア・ダイヤモンド社を閉鎖し、新たにハリー・ウィンストン社をニューヨークの51番通り東に設立。高額の宝石を売買、リメイクするだけでなく、自らのデザインによる宝飾品の制作を本格的にスタートする。1933年、ハリー・ウィンストン、エドナと結婚。1943年、アカデミー賞の授賞式に着用するジュエリー貸し出しを、他の宝石ブランドに先駆けてハリーが提案。1947年にはキャサリン・ヘップバーンが、インクイジション・ネックレスを身につけて授賞式に出席した。1949年、大きな宝石の巡回展「宝石の宮廷」展を開催。1951年、127.01カラットのダイヤモンド「ポーチュギーズ」を購入。1955年、ジュネーブ店オープン。1958年、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館に、フランス国王ルイ14世、マリー・アントワネット妃も所有したといわれ、身に付けた人全員が不幸になったというブルーダイヤモンド「ホープ」を寄贈。イランのシャー、モハメッド・レザ・パーレヴィ・アリャミールと、イランのシャンバノウファラとの結婚に際し、ヌル・ウル・アイン・ティアラを作成。
1960年、ニューヨーク五番街718番地に移転。パリのルーブル美術館にて「フランス王室の宝石」の展覧会を開催。ナポレオン1世がハプスブルグ家のマリー・ルイーズ皇后に贈った総計275カラットのダイヤモンドネックレス「ナポレオン・ネックレス」を購入。1962年、インド人ジュエリーデザイナーのアムバジ・シンディをハリー・ウィンストン社のチーフデザイナーに指名。1966年、241カラットのダイヤモンドの原石を入手。この原石から、69.42カラットのペアシェイプのダイヤモンドをカットし、後にバートンが女優エリザベス・テイラーのプレゼントに購入したことから、「テイラー・バートン」と名づけられる。
1972年、ダイヤモンド原石のなかで、史上3番目の大きさの970カラットのダイヤモンド「スター・オブ・シエラレオネ」を購入。ジュエリー・カッターのラザール・キャプランにより、総計で238.43カラットの重量 をもつ、総数17個のダイヤモンドにカットされる。
1978年、ハリー・ウィンストン、ニューヨークにて死去。享年82歳。ハリーの息子、ロナルド・ウィンストンがハリー・ウィンストン社代表取締役に就任。二代目のロナルドは時代に合ったビジネスを広げ、クオリティの高い1カラットの指輪を作り、若い世代も獲得。自宅に日本庭園や茶室を設けるなど日本の伝統文化を愛する親日家としてもよく知られるロナルドは、1988年、ホテル西洋銀座に日本初のサロンを開く。同年、時計部門を新設。1989年、腕時計シリーズ「アルティメイト・タイム ピース」をスタート。
1994年、貴金属ロジウムを使った腕時計「ガラテ」を製作。1997年9月20日、スミソニアン博物館にハリー・ウィンストン・ギャラリーがオープン。1998年、大阪にサロンをオープン。2000年9月25日には、東京旗艦店が銀座1丁目の読広新社屋にオープン。
2004年、ハリー・ウィンストンはアバー・ダイヤモンド・コーポレーションに買収される。アバーはダイアヴィック鉱山に出資し、ティファニー社に年間最低5千万米ドルのダイヤモンドを販売する、カナダ最大級のダイヤモンド・マイナー。
2006年2月表参道ヒルズ本館1階に表参道ヒルズ店をオープン。銀座・大阪に次ぐ3店舗目となる表参道ヒルズ店は、新コンセプトを導入し、ブロンズを基調としたファサードや、ブラウン系の色をベースにした現代風のインテリアなど、国内他店舗とは差別化を図った。デザインは、「自由の女神」の修復を監修したフランス人建築家、ティエリー・デスポンが担当。オープンを記念して、新作ジュエリー「マーキッサ・コレクション」を発表した。
アメリカ・ワシントンD.C.にあるスミソニアン博物館には、彼が寄贈したジュエリー・コレクションが陳列され、世界の有名なダイヤモンドの約3分の1は一度はハリー・ウィンストンの手の中にあったといわれている。マリリン・モンローは、映画「紳士は金髪がお好き」(1953年)の中で、「ねえ、ハリー・ウィンストン、ダイヤモンドのこと、何でもいいから教えて…」 と歌った。
ハリー・ウィンストンは石が大きく綺麗なのが有名で、商売上はリスクの大きい、資産性の高い高価な宝石を扱うビジネスを成功させたのが功績。なかでも「ウィンストン・スタイル(ウィンストニアン・スタイル)」と呼ばれる宝石と宝石を細いプラチナのワイヤーでつなぎ、留め金の使用を極力抑え、あたかも宝石だけがちりばめられているかのようなセッティングは、あらゆる方向に輝きを放ち、ジュエリーのデザインとセッティング方法に革新をもたらした。このスタイルは、ハリー・ウィンストンがクリスマスの頃、扉に飾られたヒイラギのクリスマス・リースを見てヒントを得たといわれている。
Heatherette へザレット U.S.A.
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歴史・解説
リッチー・リッチ(Richie Rich)とトレイバー・レインズ(Traver Rains)の2人によるデザイナー・ユニット。リッチー・リッチはカリフォルニア出身で、2歳のときにアイススケートを始め、クリスティ・ヤマグチとも一緒に練習するようになる。アメリカの国内ランクで12位にランクされるほどの実力を持ち、世界ツアーにも参加した。やがて、ニューヨークへ移住し、最もホットなクラブで働きはじめるとともにPOPシンガーとしてレコードをリリース。独力で学んだ裁縫技術とともに自らの衣装をデザインするようになる。
一方、トレバー・レインズはモンタナ出身。ロデオライダーとしてホースショーでいくつものメダルを獲得。ホースショーで必要となる衣装をきっかけにファッションに興味を持つようになる。そして、テキサス大学に入学し、経済学および国際ビジネスの学位を取得。これが後にへザレットのビジネス面において多大な貢献をすることになる。やがて、彼はニューヨークへ移住し、リッチーと出会う。
1999年12月、あるパーティーにリッチーが出席した時、自ら着ていた服を見たダウンタウンの店パトリシア・フィールド(人気テレビ番組、「Sex and The City」の衣装を手がけるスタイリストの店)のバイヤーがその場で服を発注。ショップに飾られたその服を見た、ヒップホップスター、 フォクシー・ブラウン(Foxy Brown)が、MTVビデオ・アワードのための衣装をデザインしてくれるようにリッチーとトレバーに依頼。そして数多くのポップスターが二人の服を着ることとなる。
やがて、フォトジャーナリストや著名なスタイリストの支持を得た彼らはヴァニティフェアをはじめとするファッションマガジンに数多く取り上げられ、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)、マライア・キャリー(Mariah Carey)、エアロスミス(Aerosmith's)、スティーブン・タイラー(Steven Tyler)、サラ・ジェシカ・パーカー(Sarah Jessica Parker)、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)といったセレブの支持を得る。
2001年9月には、2002年春夏ニューヨークコレクションにてデビューコレクションを開催。その時のテーマは「Look at Me」。「クラブで、街で人々の視線を集めるような楽しい洋服を作っていきたい」という意味をこめた。
2002年には、サンリオと契約。2003春夏ニューヨークコレクションでは「ハローキティ」 をモチーフに、おなかの部分にキティをあしらったワンピースや、小さなキティを全身に散らしたパンツなどのショウ・ルックを手掛けた。リッチーは熱烈なキティファンで「キティは僕にとってマドンナのような存在」と語っている。2003年1月、春夏コレクションを東京・竹芝でも開催し、二人は来日。続く、2003秋冬ニューヨークコレクションでもキティを登場させ、会場は両方のファンでもあるヒルトン姉妹をはじめ、記念撮影を申し込む人が殺到。キティはハート模様の服で投げキッスを披露。最後のランウェイにも登場した。
ちなみに、2001年12月中国の女優、趙薇(Zhao Wei)が日本の旭日旗に似た布をまとって中国のファッション誌のグラビアを飾り、波紋をよんだが、それをデザインしたのが、リッチー・リッチ。リッチーはあれはカリフォルニアの太陽を象徴したものと語っている。
レザー、デニムを多用したストリート感覚を取り入れたパンクルック。クラブシーンを彩るようなファッションが特徴。
Helmut Lang ヘルムート・ラング U.S.A.
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解説・歴史
ヘルムート・ラング(Helmut Lang)は1956年、ウィーン生まれ。ハンガリー、ユーゴスラビア系の母親とチェコスロバキア、ロシア系の父の血を受け継ぎ、幼い頃はアルプス山脈オーストリア国境周辺の自然の中で育ち、その後ウィーンで過ごす。
1976年ウィーンにアトリエを設立。86年にレディースコレクションを、翌年メンズコレクションをパリで発表。96年にはウィーンとミラノにオンリーショップをオープン。同時に名古屋にもショップをオープン。97年春夏コレクションには、カジュアルラインの「ヘルムート・ラング・ジーンズ」(ジーンズも多いが、あくまでもジーンズラインではなくカジュアルライン)を発表。ワークウェアを意識したこのラインは、カジュアルながら、洗練されたデザインが人気を集める。また、98年のコレクションでペイントジーンズを発表し、大流行のきっかけとなる。同年にはオフィスをニューヨークに移転。同年の秋冬シーズンより「ヘルムート・ラング・シャツ」をスタート。
1998年には、サイトのみでコレクションを発表、話題を集める。これまでも、ショーと同時にサイトで発表したり、ショーのお土産としてCD-ROMを配り、そこに内容を掲載した例はあったが、サイトのみというのはこれがはじめて。同年、ニューヨークコレクションに参加。ラングの提唱により、コレクションカレンダーが変化し、これまで最後に行われてたニューヨークコレクションが、ロンドン、ミラノ、パリよりも先に発表されることとなる。99年「ヘルムート・ラング・カシミヤ」を発表。1999年には、プラダに買収され、プラダグループに入る。2000年には、メンズウェア・デザイナー・オブ・ジ・イヤー受賞、また香水を発表した。2002春夏メンズコレクションより発表の場をパリに戻す。
「ミニマリズムの旗手」と呼ばれ、白と生成り、白とグレー、ベージュとグレーといった、とてもミニマルなカラーとベーシックなコーディネートが特徴。ミニマム&ハイクオリティーなスタイルの傑作で世界的に一躍注目される。
日本では当初、バスストップ社によって輸入されていたが、ラング本社がプラダに買収されたことにより、プラダジャパンが日本法人へルムートラングジャパンを設立。2000年秋冬物から小売りおよび卸売りが新しいジャパン社によって展開されている。
2005年1月24日、プラダ・グループは、ヘルムート・ラングがクリエイティブディレクターを辞任したと発表。プラダ・グループのCEO、Patrizio Bertelliは、「ラングはファッション界において、ユニークで強烈なアイデンティティを持つブランドを構築しました。私たちはこれを基礎に適切な支援を行うためすばやく行動するでしょう」と声明で述べた。赤字が続いていたことで、ラングとプラダはその戦略の違いで対立していたという。ラングは「すべての人、とくに私のチームに感謝の言葉を捧げたい。そして、過去5年間、会社を支援してくれた、報道関係者、バイヤーなどの皆さん、本当にありがとう」との声明を発表。2005秋冬コレクションは、Bertelliがいうところの「ラングが指揮していたクリエイティブ・チーム(デザイン・チーム)」が引き継ぐ。
2006年3月プラダはヘルムート・ラングを日本のリンク・セオリー・ホールディングスに売却することで合意したと発表。売却額については明らかにされていない。プラダ・グループは「プラダ、ミュウミュウ、Car Shoe、アゼディン・アライアのグローバルな開発に注力するための事業計画に従った」と発表。リンク・セオリー・ホールディングズは「ヘルムート・ラング」ブランドを2007年春夏シーズンにニューヨークで再出発させる予定。「メンズ・レディスコレクションをそろえ、世界中の最も革新的でコンテンポラリーなリテーラーに対して、限定的に販売する」としている。また、新デザイナーにはCloakのAlexandre Plokhovが起用されるとの噂が流れている。
Hermes エルメス France
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解説・歴史
エルメスの創業者である、初代ティエリ・エルメスは1801年、現在のドイツ・クレフェルドに生まれる。当時クレフェルドはナポレオンによってフランス領になっており、ティエリもフランス国籍を所有していた。ティエリは13歳でパリに出て、1837年、36歳の時にパリのバス・デュ・ランバール通りにアトリエをオープン。1878年1月、初代ティエリ死去。1880年、二代目シャルル・エミール・エルメスが現在地、フォーブル・サントノーレ24番地に移転。製造・卸から直接顧客に販売を開始するとともに、鞍の製造を開始(それまでのエルメスはいわば、下請け業だった)。
1892年、ケリーバッグの原型、「オークロア」完成。当初は鞍を入れるかばんとして使用された。「クロア」はフランス語で「ベルト」のことで、ふたの部分をベルトで締める構造による。
1900年、後に3代目となるエミール・モーリス・エルメスは、当時30歳でヨーロッパの王侯貴族に加えロシア皇帝ニコライ2世への馬具とかばんの売込みに成功。1902年、父から事業を受け継いだエミールと兄のアドルフは商号を「エルメス兄弟社」に改める。1903年、エミールは事業の多角化に乗り出し、札入れ、婦人用財布、バッグの製造を開始。
1920年、ファスナーを初めてバッグや衣服に用いる。後にシャネルはスカートにこのファスナーを使い、これが契機となって衣服にファスナーが使われるようになった。1922年、エミールは兄から会社の全所有権を買い取り、社名を「エルメス」に戻す。
1927年時計を発売。1928年、ムートン手袋発売。衣服、旅行用品、時計、宝飾品などを事業に取り入れ、二人の婿、ロベール・デュマとジャン・ゲランにより、フランス中に支店を拡大。1936年香水発売。1937年、スカーフの発売開始。ちなみに第1号のスカーフは「オムニバスゲームと白い貴婦人」。1945年、現在の商標でもある、あの有名な「4輪馬車と従者」を登録。馬車の種類は「デュック」と呼ばれるもので、「エルメスは最高の品物を用意しますが、それを御するのはお客様自身」ということを意味している。
1947年、ジャン・ゲラン香水部門設立。1949年、紳士バッグ「サック・ア・デペッシュ」、シルクツイルのネクタイ発売。1951年、エミール死去。最初の婿である(エミールの次女、ジャクリーヌの婿)ロベール・デュマ・エルメス4代目社長に就任。ロベールはスカーフに力を注ぎ、「カレ(正方形)」と名づけられた「カレ・エルメス」には一枚一枚にストーリーが存在し、それが個性と芸術性を与えている。また、戦後までエルメスの包装紙は薄いベージュだったが、物不足により残っていたオレンジの色の紙を使わざるを得なくなり、戦後もその印象からジャン・ゲランがオレンジを継続させたという。これが、「オレンジ・ボックス」と呼ばれるエルメスの包装箱につながる。また、贈呈
用のリボンには毎年、年号とその年のテーマが書き込まれ、それとは別にクリスマス用の特別リボンも存在し、リボンだけでもコレクターが存在するほどのアイテムとなっている。
1956年、ビーチタオル発売。また、この年から女優でモナコ王妃となったグレース・ケリー(Grace Kelly)がエルメス定番のバッグ「サック・ア・クロア」を愛用していたことから、結婚前の「ケリー(Kelly)」の名前が付けられる。1957年シルバーカフス「エトリエ」発売。1961年香水部門独立、「カレーシュ」発売。「カレーシュ」はエンブレムの四輪馬車にちなみ、「最も優雅で美しい馬車」から命名された。その後「アマゾン」、「オー・トランジュベルト」、「パルファム・ドル・エルメス」、「ヴァンキャトル・ファーブル」が女性用、メンズでは1970年の「エキパージュ」、「ベラミ」などがある。1973年、ジョン・ロブシューズ部門をエルメス店内に移設。1974年、「カレーシュ」より若い女性向けの香水「アマゾン」発売。1978年、ロベール・デュマ・エルメスの息子ジャンルイ・デュマ5代目に就任。1979年、時計「アルソー」発売。エルメス時計社を設立し、時計部門に正式に参入。1984年、テーブルウェア部門に進出。
1984年、「バーキン(Birkin)」誕生。フランスの映画女優、ジェーン・バーキン(Jane Birkin)が小さい旅行かばんが欲しかったことから、自らデザイン画を描き、エルメスにオーダーメードで発注。以後、彼女がそのかばんをいつも持ち歩いていたことから有名になり、彼女の名前を付けて商品化した。ジェーン・バーキンが所有しているのは底辺が40センチのモデルだが、他に35センチと30センチのモデルがある。
1987年、カーボンファイバー製アタッシュケース「エスパス」発売。87年からは毎年、その年のテーマが決められており、最初のテーマは「花火」。2002年のテーマは、「手」、2003年は「地中海」。2004年は「ファンタジー」。2005年は「川」。デュマによれば「エルメスとはブランドではなく、カルチャーとともに生きるメゾンである」。
1997年5月、ジャンルイ・デュマは、デザイン部門を統括していたクロード・ブルエの引退を機に、前衛的なデザイナーとして知られていたマルタン・マルジェラを主任デザイナーに起用した。
マルタン・マルジェラは1957年ベルギーに生れる。アントワープ国立学校を卒業後、ジャンポール・ゴルチェの下で修行を積み、89年春夏パリ・コレクションにデビュー。病院や駅でコレクションを行い、そこでボロ布を用いた衣装を発表したり、モデルを使わずに操り人形に衣装を着せたコレクションなどを発表し、注目を集めていた。絶え間なく新しいものを生み出すファッション・システムに異議申立てを行い、古着の再生や新しい服の古着風加工など、独自の視点からの服作りを行う。川久保玲や山本耀司など80年代の日本人デザイナーの影響を受けつつ、独自のアヴァンギャルドな路線を歩む。自身のメゾンのデザインを展開する一方で、98年から「エルメス」のデザインを担当。2000年9月に世界初となる路面店を恵比寿にオープンした。
日本へは83年に進出し、日本法人エルメス・ジャポンは、西武百貨店との合弁企業。西武百貨店の持ち株比率は10%。2001年6月28日、銀座にエルメスジャポン本社社屋「メゾン エルメス」オープン。2003年5月、六本木ヒルズ「森アーツセンター」で「地中海を巡る想い」展開催。イタリアの芸術家集団「スタジオ・アッズーロ」が、約2年にわたり地中海沿岸を旅して作品を作り上げた。2004年2月、丸の内店が移転リニューアル。
エルメスの洋服部門は1920年に乗馬服やスポーツウェアを展開したことに始まる。その後、第2次世界大戦後オートクチュールに進出。66年からプレタポルテを開始している。
デザイナーにもクリスチャン・ラクロアやエリック・ベルジュールなど、若手デザイナーを登用してきた。現在のデザイナーはレディスが2004年秋冬からジャン・ポール・ゴルチエ起用がされている。噂ではエルメスは、2002年の段階ではジル・サンダーにも声をかけていたとの話がある。しかし、2003年のオスカーファッションのトップといわれているのが、ゴルチェを着たニコール・キッドマンだったこともあり、こうしたセレブの支持をゴルチェを起用することで、エルメスも得たいという考えがあったらしい。
紳士プレタポルテは20年代にエルメス中興の礎となった米国から特許を買い付けたジッパーをつけた革のブルゾンを発表して以来、靴や帽子、スーツまで幅広く展開。現在はヴェロニク・ニシャニアンがデザインしている。
デザイナー
レディス・Jean Paul Gaultier ジャン・ポール・ゴルチエ
ゴルチエは1952年4月24日、フランス・パリに生まれ、1970年18歳の時に、ピエール・カルダンに採用される。1年間、アシスタントとして勤めたあと、ジャン・パトゥなどを経て、フリーに。1976年、初めてアクセサリーコレクションを発表するとともに、ジャン ポール・ゴルティエの名でコレクションを発表。1977年には、ジャンポール・ゴルチエ設立。1978年、樫山フランスと提携して、本格的な活動を開始。1981年、オンワード樫山とライセンス契約を結ぶ。1984年より、ミラノ・パリ・日本・香港にオンリーショップをオープンし、メンズラインスタート。1987年には、オスカー・ドゥ・ラ・モード受賞。1988年「Junior Gaultier」スタート。1992年「Gaultier Jeans」、1993年には香水、1997年にはオートクチュールを開始。2003年より浴衣およびリョーカから水着も発売。
メンズ・Veronique Nichanian ヴェロニク・ニシャニアン
パリ生まれのヴェロニクは、パリ・オートクチュール専門学校を首席で卒業。76年セルッティにメンズコレクションのデザイナーとして入社。88年、エルメスの紳士服部門のディレクターおよびデザイナーに就任。88年、若いクリエイターに贈られるパリ市長賞を受賞。ディテールにこだわり、素材と色の繊細さを大切にするデザインが特徴。トラッドベースの、クリーンでハイクオリティーな大人の服を提案する。
HUGO BOSS ヒューゴ・ボス German
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歴史・解説
1923年、Hugo Boss(ヒューゴ・ボス)がドイツ・メッツィンゲンに創立した紳士服メーカー。当初は、オーバーオール、レインコート、ユニフォームなどワークウェアのブランドとしてスタートした。1960年代初めにボス ブランドを発表。ヨーロッパのみならず国際的メンズファッションの一流ブランドとなる。1972年以降、国際的にマーケットを広げ、現在では世界83カ国に進出している。
1980年代初頭から、フレグランス、アイウェア、靴、ボディウェアなど多岐にわたる製品を対象にグローバルライセンスの付与を開始。1993年、ヒューゴ、バルデサリーの2つの新ブランドを加え、幅広い層のファッションを充実させた。1994年にはアンダーウェアの生産も始め、これでメンズファッションすべてのアイテムをフォローすることとなるとともに、レディスウェアも発表。1996年、BOSS Hugo BossのウオッチをスイスのTempus Concept 社にライセンス供与。BOSSのウオッチは当初男性用のみだったが、後にバーゼルで女性用コレクションも発表。
スターの顧客も多く、ダスティン・ホフマン、ロバート・デニーロ、ハリソン・フォード、ショーン・コネリー、デニス・ホッパー、アントニオ・バンデラなどが着用している。
さまざまな年齢層の消費者に合わせてBOSS Hugo Boss(ボス・ヒューゴボス)、HUGO Hugo Boss(ヒューゴ・ヒューゴボス)、Baldessarini Hugo Boss(ヒューゴボス・バルデサリーニ) という3つのブランドを抱える。コアブランドであるBOSS、成功志向が強く、ダイナミックな個性と典型的な男らしさを備えた男性に合わせたブランド。メンズスーツのトップブランドであり、世界のスーツの6分の1、ロシアに至っては2着に1着が同社のものとされる。現在のラインは主流のボスがレディスのブラックレーベルとメンズでブラック、オレンジ、グリーンの3レーベル。ややカジュアルよりのヒューゴのメンズとレディス。バルデサリーニはメンズのみ。
現在ではイタリアのマルゾット社のグループに属する。現CEOはブルーノ・サルザー。スポーツスポンサーとしても名高く、テニス、ゴルフ、サッカー、モータースポーツなどに協賛している。中でも有名なのはアイルトン・セナのヘルメットに「BOSS」のマークつけられていたように、F1のマクラーレンチームへのスポンサード。
2003年春に「ヒューゴ ボス ジャパン」は、六本木ヒルズ内に大型路面店をオープン。銀座店、青山本店に続くもので、「ボス ヒューゴ・ブラックラベル」と「ウィメンズコレクション」、「ボス・スポート」に加え、日本再上陸となる「ヒューゴ ヒューゴ・ボス」も展開。今後日本でのショップ展開を精力的に行なう予定。
派手に流行を捉えるというよりも、ドイツらしい構築的なシルエットが特徴。1着持っていれば、長く着ることができる服。
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歴史・解説
大阪生まれの在日韓国人3世女性デザイナー、Han ahn soon(韓安順・ハンアンスン)は1976年7月12日生まれ。1999年11月に「大阪コレクション 新人ジョイント」に出展。
デザイナー活動を開始する。2002年4月に再び「大阪コレクション」に出展。テーマは「人魚」。サイドにラインストーンテープを施した「ラインストーンデニム」を発表した。
その後、9月には大阪・北堀江のコンプレックス「cor(コル)」内に第1号店となるフラッグシップショップをオープン。日韓両国の服飾文化に影響を受けて育まれた独特の色彩感覚と、絶妙なバランスのスタイリングが特長。
2002年10月28日、原宿クエストホールにて「2003春夏東京コレクション」に出展。コレクションテーマは、「昭和」。昭和の歌謡番組の映像にインスパイアされたコレクションは、会場に山口百恵やピンクレディーの映像が映し出され、スパンコールやビーズなど光り物を付けた黒や紫のドレスは、昭和の歌手のステージ衣装を思わせる。また、「科学忍者隊ガッチャマン」のキャラクターや文字が躍る原色のTシャツやニットなど、昭和40年代のキャラクターを取り入れ、話題を呼ぶ。続いて、2003秋冬東京コレクションにも出展。2003秋冬のテーマは「フランス女優」。2004春夏のテーマは「HEART」。2004秋冬のテーマは「BLACK」。2005春夏のテーマは「OHANA」。様々なコサージュをパンツ、サンダル、ベストにあしらい、ヴィヴィッドな色のティアードスカートやワンピースというドラマティックなスタイルを打ち出した。
2006年2月、表参道ヒルズに旗艦店をオープン。
2006年5月、リステアとのハンアンスン事業に関する業務委託契約が終了したことを受け、株式会社HAN AHN SOON(ハンアンスン)との間で新たなデザイン契約を締結。同社のデザイナーとして「ハンアンスン」ブランドを展開することとなった。株式会社HAN AHN SOONの社長はパリのセレクトショップ「レクレルール東京」を経営しているマークスタイラーの社長でもある惠藤憲二。「PASSION ELEGANCE」をキーワードに展開し、新旗艦店は2007春、青山にオープン予定。
H&M Hennes&Mauritz へネス&モーリッツ Sweden
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解説・歴史
H&Mの創業者である、Erling Perssonは、もとはスウェーデン、Vasterasのセールスマンだった。アメリカ旅行中に高品質の商品を大量生産により低価格で展開するという新しいタイプの衣料品店に着想を得て、帰国後の1947年9月13日、Vasterasに「Hennes」の1号店を開く。婦人衣料を扱っていたため、店名はシンプルにスウェーデン語の「彼女(英語のhers)」を意味する「Hennes」と名づけられた。
50年代から60年代にかけて、Hennesは順調に拡大。1964年、ノルウエーに海外初の出店。1968年にErling PerssonがストックホルムのSergelgatanにある狩猟と銃器の店、「Mauritz Widforss」を買収。この店は紳士衣料も扱っていたこともあり、これを機に紳士衣料の展開も開始し、店名を「Hennes&Mauritz」に変更。子供服も導入される。
1974年株式上場。1975年化粧品販売を開始。1976年ティーン向け、1978年ベビー服を開始。1980年ロウエル(Rowells)メールオーダーを買収。
1982年、Erling Perssonの息子、Stefan Perssonがマネージング・ディレクターに就任し、国際戦略も拡大。2000年3月には、ニューヨーク、マンハッタンの5番街に初のアメリカ店である旗艦店をオープンするとと同時にアメリカに進出。1998年、購買担当役員だったファビアン・マンソン(Fabian Mansson)が新CEO、Stefanが会長に就任。2000年オランダ子会社のCEOだったロルフ・エリクソン(Rolf Eriksen)が、新CEOに就任する。
「最良の価格でファッションとクオリティを提供する」をコンセプトにアメリカでの成功に続き、さらなる国際的拡大を続け、2002年には34,000人以上の従業員を持ち、14か国で800以上の店で衣服および化粧品を販売。売り上げは総計44億ドルに達する。
2004年11月にはカール・ラガーフェルドとコラボレートした「Karl Lagerfeld for H&M」を展開。欧州各国と米国の各店で行列ができるほどの話題を集め、店によっては数時間で売り切れたという。
2005年夏にはElio Fiorucciが限定サマーコレクションをデザイン。アイテムはメンズ、レディス、アクセサリーなど約100アイテムで、70年代をイメージしたカラフルなプリントが特徴。
2005年秋にはステラ・マッカートニーとコラボレートし、約40の特別コレクションを発売する。H&Mのデザイン・ヘッド、Margareta van den Boschは「ステラ・マッカートニーとコラボレートできて、私たちは興奮しています。彼女のデザインはモダンでクールでありながら、クラシックで、かつウェアラブルです。私たちは、彼女のテーラリングセンスとフェミニンを長い間賞賛しており、消費者調査でも彼女のブランドの強さを確認しています。私たちはこの秋、ユーザーに特別なコラボレートを披露できるでしょう」と発表した。
ちなみにヘネス&モーリッツは英語読みで、スウェーデン語では「ヘンネス・オック・マウリッツ」と発音。H&Mは「ホーエム」と読む。
HARRY WINSTON ハリー・ウィンストン U.S.A.
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歴史・解説
創業者、ハリー・ウィンストンはニューヨークの宝石商の息子として1896年誕生(1978年没)。父親、ヤコブ・ウインストンは1890年、ニューヨークに宝石店を開いていた。幼いころから宝石の真価を見分ける優れた能力をもっていたハリーは、12歳のとき、ある店で25セントの緑の石を購入。その石が、2カラットのエメラルドだと見抜いていたハリーは、宝石商を営む父のもとに持ち帰った。2日後、石は800ドルで売却された。この話は同社において伝説のように現在でも語り継がれているという。
15歳のときにはロサンゼルスに居を移して店を開いた父親の宝石店で仕事を始め、1920年、24歳のときにプレミア・ダイヤモンド社をニューヨーク五番街535番地に設立。第一次世界大戦後、ヨーロッパ貴族が市場に売りに出した華やかで装飾過剰なジュエリーをモダンにリメイクし、当時の新興富裕層のステイタスシンボルとなるシンプルなデザインのジュエリーを制作した。1925年にはアメリカの大富豪ストダート夫人の遺産コレクションを落札。そのコレクションを125万ドルという当時として破格の値段で売却することに成功した。ここでの成功と手にした収入から、ハリーは彼が目指す世界の富裕な人々が所有する極上の宝飾品を扱う宝石商へと歩みを進める。
1926年にはアメリカの鉄道会社創設者であったハンティントン夫人のコレクションを120万ドルで落札、1930年にはアメリカの公開競売場に出たもののなかでは最大といわれる39カラットのエメラルドカットのダイヤモンドの落札に成功。1932年にはプレミア・ダイヤモンド社を閉鎖し、新たにハリー・ウィンストン社をニューヨークの51番通り東に設立。高額の宝石を売買、リメイクするだけでなく、自らのデザインによる宝飾品の制作を本格的にスタートする。1933年、ハリー・ウィンストン、エドナと結婚。1943年、アカデミー賞の授賞式に着用するジュエリー貸し出しを、他の宝石ブランドに先駆けてハリーが提案。1947年にはキャサリン・ヘップバーンが、インクイジション・ネックレスを身につけて授賞式に出席した。1949年、大きな宝石の巡回展「宝石の宮廷」展を開催。1951年、127.01カラットのダイヤモンド「ポーチュギーズ」を購入。1955年、ジュネーブ店オープン。1958年、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館に、フランス国王ルイ14世、マリー・アントワネット妃も所有したといわれ、身に付けた人全員が不幸になったというブルーダイヤモンド「ホープ」を寄贈。イランのシャー、モハメッド・レザ・パーレヴィ・アリャミールと、イランのシャンバノウファラとの結婚に際し、ヌル・ウル・アイン・ティアラを作成。
1960年、ニューヨーク五番街718番地に移転。パリのルーブル美術館にて「フランス王室の宝石」の展覧会を開催。ナポレオン1世がハプスブルグ家のマリー・ルイーズ皇后に贈った総計275カラットのダイヤモンドネックレス「ナポレオン・ネックレス」を購入。1962年、インド人ジュエリーデザイナーのアムバジ・シンディをハリー・ウィンストン社のチーフデザイナーに指名。1966年、241カラットのダイヤモンドの原石を入手。この原石から、69.42カラットのペアシェイプのダイヤモンドをカットし、後にバートンが女優エリザベス・テイラーのプレゼントに購入したことから、「テイラー・バートン」と名づけられる。
1972年、ダイヤモンド原石のなかで、史上3番目の大きさの970カラットのダイヤモンド「スター・オブ・シエラレオネ」を購入。ジュエリー・カッターのラザール・キャプランにより、総計で238.43カラットの重量 をもつ、総数17個のダイヤモンドにカットされる。
1978年、ハリー・ウィンストン、ニューヨークにて死去。享年82歳。ハリーの息子、ロナルド・ウィンストンがハリー・ウィンストン社代表取締役に就任。二代目のロナルドは時代に合ったビジネスを広げ、クオリティの高い1カラットの指輪を作り、若い世代も獲得。自宅に日本庭園や茶室を設けるなど日本の伝統文化を愛する親日家としてもよく知られるロナルドは、1988年、ホテル西洋銀座に日本初のサロンを開く。同年、時計部門を新設。1989年、腕時計シリーズ「アルティメイト・タイム ピース」をスタート。
1994年、貴金属ロジウムを使った腕時計「ガラテ」を製作。1997年9月20日、スミソニアン博物館にハリー・ウィンストン・ギャラリーがオープン。1998年、大阪にサロンをオープン。2000年9月25日には、東京旗艦店が銀座1丁目の読広新社屋にオープン。
2004年、ハリー・ウィンストンはアバー・ダイヤモンド・コーポレーションに買収される。アバーはダイアヴィック鉱山に出資し、ティファニー社に年間最低5千万米ドルのダイヤモンドを販売する、カナダ最大級のダイヤモンド・マイナー。
2006年2月表参道ヒルズ本館1階に表参道ヒルズ店をオープン。銀座・大阪に次ぐ3店舗目となる表参道ヒルズ店は、新コンセプトを導入し、ブロンズを基調としたファサードや、ブラウン系の色をベースにした現代風のインテリアなど、国内他店舗とは差別化を図った。デザインは、「自由の女神」の修復を監修したフランス人建築家、ティエリー・デスポンが担当。オープンを記念して、新作ジュエリー「マーキッサ・コレクション」を発表した。
アメリカ・ワシントンD.C.にあるスミソニアン博物館には、彼が寄贈したジュエリー・コレクションが陳列され、世界の有名なダイヤモンドの約3分の1は一度はハリー・ウィンストンの手の中にあったといわれている。マリリン・モンローは、映画「紳士は金髪がお好き」(1953年)の中で、「ねえ、ハリー・ウィンストン、ダイヤモンドのこと、何でもいいから教えて…」 と歌った。
ハリー・ウィンストンは石が大きく綺麗なのが有名で、商売上はリスクの大きい、資産性の高い高価な宝石を扱うビジネスを成功させたのが功績。なかでも「ウィンストン・スタイル(ウィンストニアン・スタイル)」と呼ばれる宝石と宝石を細いプラチナのワイヤーでつなぎ、留め金の使用を極力抑え、あたかも宝石だけがちりばめられているかのようなセッティングは、あらゆる方向に輝きを放ち、ジュエリーのデザインとセッティング方法に革新をもたらした。このスタイルは、ハリー・ウィンストンがクリスマスの頃、扉に飾られたヒイラギのクリスマス・リースを見てヒントを得たといわれている。
Heatherette へザレット U.S.A.
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歴史・解説
リッチー・リッチ(Richie Rich)とトレイバー・レインズ(Traver Rains)の2人によるデザイナー・ユニット。リッチー・リッチはカリフォルニア出身で、2歳のときにアイススケートを始め、クリスティ・ヤマグチとも一緒に練習するようになる。アメリカの国内ランクで12位にランクされるほどの実力を持ち、世界ツアーにも参加した。やがて、ニューヨークへ移住し、最もホットなクラブで働きはじめるとともにPOPシンガーとしてレコードをリリース。独力で学んだ裁縫技術とともに自らの衣装をデザインするようになる。
一方、トレバー・レインズはモンタナ出身。ロデオライダーとしてホースショーでいくつものメダルを獲得。ホースショーで必要となる衣装をきっかけにファッションに興味を持つようになる。そして、テキサス大学に入学し、経済学および国際ビジネスの学位を取得。これが後にへザレットのビジネス面において多大な貢献をすることになる。やがて、彼はニューヨークへ移住し、リッチーと出会う。
1999年12月、あるパーティーにリッチーが出席した時、自ら着ていた服を見たダウンタウンの店パトリシア・フィールド(人気テレビ番組、「Sex and The City」の衣装を手がけるスタイリストの店)のバイヤーがその場で服を発注。ショップに飾られたその服を見た、ヒップホップスター、 フォクシー・ブラウン(Foxy Brown)が、MTVビデオ・アワードのための衣装をデザインしてくれるようにリッチーとトレバーに依頼。そして数多くのポップスターが二人の服を着ることとなる。
やがて、フォトジャーナリストや著名なスタイリストの支持を得た彼らはヴァニティフェアをはじめとするファッションマガジンに数多く取り上げられ、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)、マライア・キャリー(Mariah Carey)、エアロスミス(Aerosmith's)、スティーブン・タイラー(Steven Tyler)、サラ・ジェシカ・パーカー(Sarah Jessica Parker)、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)といったセレブの支持を得る。
2001年9月には、2002年春夏ニューヨークコレクションにてデビューコレクションを開催。その時のテーマは「Look at Me」。「クラブで、街で人々の視線を集めるような楽しい洋服を作っていきたい」という意味をこめた。
2002年には、サンリオと契約。2003春夏ニューヨークコレクションでは「ハローキティ」 をモチーフに、おなかの部分にキティをあしらったワンピースや、小さなキティを全身に散らしたパンツなどのショウ・ルックを手掛けた。リッチーは熱烈なキティファンで「キティは僕にとってマドンナのような存在」と語っている。2003年1月、春夏コレクションを東京・竹芝でも開催し、二人は来日。続く、2003秋冬ニューヨークコレクションでもキティを登場させ、会場は両方のファンでもあるヒルトン姉妹をはじめ、記念撮影を申し込む人が殺到。キティはハート模様の服で投げキッスを披露。最後のランウェイにも登場した。
ちなみに、2001年12月中国の女優、趙薇(Zhao Wei)が日本の旭日旗に似た布をまとって中国のファッション誌のグラビアを飾り、波紋をよんだが、それをデザインしたのが、リッチー・リッチ。リッチーはあれはカリフォルニアの太陽を象徴したものと語っている。
レザー、デニムを多用したストリート感覚を取り入れたパンクルック。クラブシーンを彩るようなファッションが特徴。
Helmut Lang ヘルムート・ラング U.S.A.
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解説・歴史
ヘルムート・ラング(Helmut Lang)は1956年、ウィーン生まれ。ハンガリー、ユーゴスラビア系の母親とチェコスロバキア、ロシア系の父の血を受け継ぎ、幼い頃はアルプス山脈オーストリア国境周辺の自然の中で育ち、その後ウィーンで過ごす。
1976年ウィーンにアトリエを設立。86年にレディースコレクションを、翌年メンズコレクションをパリで発表。96年にはウィーンとミラノにオンリーショップをオープン。同時に名古屋にもショップをオープン。97年春夏コレクションには、カジュアルラインの「ヘルムート・ラング・ジーンズ」(ジーンズも多いが、あくまでもジーンズラインではなくカジュアルライン)を発表。ワークウェアを意識したこのラインは、カジュアルながら、洗練されたデザインが人気を集める。また、98年のコレクションでペイントジーンズを発表し、大流行のきっかけとなる。同年にはオフィスをニューヨークに移転。同年の秋冬シーズンより「ヘルムート・ラング・シャツ」をスタート。
1998年には、サイトのみでコレクションを発表、話題を集める。これまでも、ショーと同時にサイトで発表したり、ショーのお土産としてCD-ROMを配り、そこに内容を掲載した例はあったが、サイトのみというのはこれがはじめて。同年、ニューヨークコレクションに参加。ラングの提唱により、コレクションカレンダーが変化し、これまで最後に行われてたニューヨークコレクションが、ロンドン、ミラノ、パリよりも先に発表されることとなる。99年「ヘルムート・ラング・カシミヤ」を発表。1999年には、プラダに買収され、プラダグループに入る。2000年には、メンズウェア・デザイナー・オブ・ジ・イヤー受賞、また香水を発表した。2002春夏メンズコレクションより発表の場をパリに戻す。
「ミニマリズムの旗手」と呼ばれ、白と生成り、白とグレー、ベージュとグレーといった、とてもミニマルなカラーとベーシックなコーディネートが特徴。ミニマム&ハイクオリティーなスタイルの傑作で世界的に一躍注目される。
日本では当初、バスストップ社によって輸入されていたが、ラング本社がプラダに買収されたことにより、プラダジャパンが日本法人へルムートラングジャパンを設立。2000年秋冬物から小売りおよび卸売りが新しいジャパン社によって展開されている。
2005年1月24日、プラダ・グループは、ヘルムート・ラングがクリエイティブディレクターを辞任したと発表。プラダ・グループのCEO、Patrizio Bertelliは、「ラングはファッション界において、ユニークで強烈なアイデンティティを持つブランドを構築しました。私たちはこれを基礎に適切な支援を行うためすばやく行動するでしょう」と声明で述べた。赤字が続いていたことで、ラングとプラダはその戦略の違いで対立していたという。ラングは「すべての人、とくに私のチームに感謝の言葉を捧げたい。そして、過去5年間、会社を支援してくれた、報道関係者、バイヤーなどの皆さん、本当にありがとう」との声明を発表。2005秋冬コレクションは、Bertelliがいうところの「ラングが指揮していたクリエイティブ・チーム(デザイン・チーム)」が引き継ぐ。
2006年3月プラダはヘルムート・ラングを日本のリンク・セオリー・ホールディングスに売却することで合意したと発表。売却額については明らかにされていない。プラダ・グループは「プラダ、ミュウミュウ、Car Shoe、アゼディン・アライアのグローバルな開発に注力するための事業計画に従った」と発表。リンク・セオリー・ホールディングズは「ヘルムート・ラング」ブランドを2007年春夏シーズンにニューヨークで再出発させる予定。「メンズ・レディスコレクションをそろえ、世界中の最も革新的でコンテンポラリーなリテーラーに対して、限定的に販売する」としている。また、新デザイナーにはCloakのAlexandre Plokhovが起用されるとの噂が流れている。
Hermes エルメス France
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解説・歴史
エルメスの創業者である、初代ティエリ・エルメスは1801年、現在のドイツ・クレフェルドに生まれる。当時クレフェルドはナポレオンによってフランス領になっており、ティエリもフランス国籍を所有していた。ティエリは13歳でパリに出て、1837年、36歳の時にパリのバス・デュ・ランバール通りにアトリエをオープン。1878年1月、初代ティエリ死去。1880年、二代目シャルル・エミール・エルメスが現在地、フォーブル・サントノーレ24番地に移転。製造・卸から直接顧客に販売を開始するとともに、鞍の製造を開始(それまでのエルメスはいわば、下請け業だった)。
1892年、ケリーバッグの原型、「オークロア」完成。当初は鞍を入れるかばんとして使用された。「クロア」はフランス語で「ベルト」のことで、ふたの部分をベルトで締める構造による。
1900年、後に3代目となるエミール・モーリス・エルメスは、当時30歳でヨーロッパの王侯貴族に加えロシア皇帝ニコライ2世への馬具とかばんの売込みに成功。1902年、父から事業を受け継いだエミールと兄のアドルフは商号を「エルメス兄弟社」に改める。1903年、エミールは事業の多角化に乗り出し、札入れ、婦人用財布、バッグの製造を開始。
1920年、ファスナーを初めてバッグや衣服に用いる。後にシャネルはスカートにこのファスナーを使い、これが契機となって衣服にファスナーが使われるようになった。1922年、エミールは兄から会社の全所有権を買い取り、社名を「エルメス」に戻す。
1927年時計を発売。1928年、ムートン手袋発売。衣服、旅行用品、時計、宝飾品などを事業に取り入れ、二人の婿、ロベール・デュマとジャン・ゲランにより、フランス中に支店を拡大。1936年香水発売。1937年、スカーフの発売開始。ちなみに第1号のスカーフは「オムニバスゲームと白い貴婦人」。1945年、現在の商標でもある、あの有名な「4輪馬車と従者」を登録。馬車の種類は「デュック」と呼ばれるもので、「エルメスは最高の品物を用意しますが、それを御するのはお客様自身」ということを意味している。
1947年、ジャン・ゲラン香水部門設立。1949年、紳士バッグ「サック・ア・デペッシュ」、シルクツイルのネクタイ発売。1951年、エミール死去。最初の婿である(エミールの次女、ジャクリーヌの婿)ロベール・デュマ・エルメス4代目社長に就任。ロベールはスカーフに力を注ぎ、「カレ(正方形)」と名づけられた「カレ・エルメス」には一枚一枚にストーリーが存在し、それが個性と芸術性を与えている。また、戦後までエルメスの包装紙は薄いベージュだったが、物不足により残っていたオレンジの色の紙を使わざるを得なくなり、戦後もその印象からジャン・ゲランがオレンジを継続させたという。これが、「オレンジ・ボックス」と呼ばれるエルメスの包装箱につながる。また、贈呈
用のリボンには毎年、年号とその年のテーマが書き込まれ、それとは別にクリスマス用の特別リボンも存在し、リボンだけでもコレクターが存在するほどのアイテムとなっている。
1956年、ビーチタオル発売。また、この年から女優でモナコ王妃となったグレース・ケリー(Grace Kelly)がエルメス定番のバッグ「サック・ア・クロア」を愛用していたことから、結婚前の「ケリー(Kelly)」の名前が付けられる。1957年シルバーカフス「エトリエ」発売。1961年香水部門独立、「カレーシュ」発売。「カレーシュ」はエンブレムの四輪馬車にちなみ、「最も優雅で美しい馬車」から命名された。その後「アマゾン」、「オー・トランジュベルト」、「パルファム・ドル・エルメス」、「ヴァンキャトル・ファーブル」が女性用、メンズでは1970年の「エキパージュ」、「ベラミ」などがある。1973年、ジョン・ロブシューズ部門をエルメス店内に移設。1974年、「カレーシュ」より若い女性向けの香水「アマゾン」発売。1978年、ロベール・デュマ・エルメスの息子ジャンルイ・デュマ5代目に就任。1979年、時計「アルソー」発売。エルメス時計社を設立し、時計部門に正式に参入。1984年、テーブルウェア部門に進出。
1984年、「バーキン(Birkin)」誕生。フランスの映画女優、ジェーン・バーキン(Jane Birkin)が小さい旅行かばんが欲しかったことから、自らデザイン画を描き、エルメスにオーダーメードで発注。以後、彼女がそのかばんをいつも持ち歩いていたことから有名になり、彼女の名前を付けて商品化した。ジェーン・バーキンが所有しているのは底辺が40センチのモデルだが、他に35センチと30センチのモデルがある。
1987年、カーボンファイバー製アタッシュケース「エスパス」発売。87年からは毎年、その年のテーマが決められており、最初のテーマは「花火」。2002年のテーマは、「手」、2003年は「地中海」。2004年は「ファンタジー」。2005年は「川」。デュマによれば「エルメスとはブランドではなく、カルチャーとともに生きるメゾンである」。
1997年5月、ジャンルイ・デュマは、デザイン部門を統括していたクロード・ブルエの引退を機に、前衛的なデザイナーとして知られていたマルタン・マルジェラを主任デザイナーに起用した。
マルタン・マルジェラは1957年ベルギーに生れる。アントワープ国立学校を卒業後、ジャンポール・ゴルチェの下で修行を積み、89年春夏パリ・コレクションにデビュー。病院や駅でコレクションを行い、そこでボロ布を用いた衣装を発表したり、モデルを使わずに操り人形に衣装を着せたコレクションなどを発表し、注目を集めていた。絶え間なく新しいものを生み出すファッション・システムに異議申立てを行い、古着の再生や新しい服の古着風加工など、独自の視点からの服作りを行う。川久保玲や山本耀司など80年代の日本人デザイナーの影響を受けつつ、独自のアヴァンギャルドな路線を歩む。自身のメゾンのデザインを展開する一方で、98年から「エルメス」のデザインを担当。2000年9月に世界初となる路面店を恵比寿にオープンした。
日本へは83年に進出し、日本法人エルメス・ジャポンは、西武百貨店との合弁企業。西武百貨店の持ち株比率は10%。2001年6月28日、銀座にエルメスジャポン本社社屋「メゾン エルメス」オープン。2003年5月、六本木ヒルズ「森アーツセンター」で「地中海を巡る想い」展開催。イタリアの芸術家集団「スタジオ・アッズーロ」が、約2年にわたり地中海沿岸を旅して作品を作り上げた。2004年2月、丸の内店が移転リニューアル。
エルメスの洋服部門は1920年に乗馬服やスポーツウェアを展開したことに始まる。その後、第2次世界大戦後オートクチュールに進出。66年からプレタポルテを開始している。
デザイナーにもクリスチャン・ラクロアやエリック・ベルジュールなど、若手デザイナーを登用してきた。現在のデザイナーはレディスが2004年秋冬からジャン・ポール・ゴルチエ起用がされている。噂ではエルメスは、2002年の段階ではジル・サンダーにも声をかけていたとの話がある。しかし、2003年のオスカーファッションのトップといわれているのが、ゴルチェを着たニコール・キッドマンだったこともあり、こうしたセレブの支持をゴルチェを起用することで、エルメスも得たいという考えがあったらしい。
紳士プレタポルテは20年代にエルメス中興の礎となった米国から特許を買い付けたジッパーをつけた革のブルゾンを発表して以来、靴や帽子、スーツまで幅広く展開。現在はヴェロニク・ニシャニアンがデザインしている。
デザイナー
レディス・Jean Paul Gaultier ジャン・ポール・ゴルチエ
ゴルチエは1952年4月24日、フランス・パリに生まれ、1970年18歳の時に、ピエール・カルダンに採用される。1年間、アシスタントとして勤めたあと、ジャン・パトゥなどを経て、フリーに。1976年、初めてアクセサリーコレクションを発表するとともに、ジャン ポール・ゴルティエの名でコレクションを発表。1977年には、ジャンポール・ゴルチエ設立。1978年、樫山フランスと提携して、本格的な活動を開始。1981年、オンワード樫山とライセンス契約を結ぶ。1984年より、ミラノ・パリ・日本・香港にオンリーショップをオープンし、メンズラインスタート。1987年には、オスカー・ドゥ・ラ・モード受賞。1988年「Junior Gaultier」スタート。1992年「Gaultier Jeans」、1993年には香水、1997年にはオートクチュールを開始。2003年より浴衣およびリョーカから水着も発売。
メンズ・Veronique Nichanian ヴェロニク・ニシャニアン
パリ生まれのヴェロニクは、パリ・オートクチュール専門学校を首席で卒業。76年セルッティにメンズコレクションのデザイナーとして入社。88年、エルメスの紳士服部門のディレクターおよびデザイナーに就任。88年、若いクリエイターに贈られるパリ市長賞を受賞。ディテールにこだわり、素材と色の繊細さを大切にするデザインが特徴。トラッドベースの、クリーンでハイクオリティーな大人の服を提案する。
HUGO BOSS ヒューゴ・ボス German
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歴史・解説
1923年、Hugo Boss(ヒューゴ・ボス)がドイツ・メッツィンゲンに創立した紳士服メーカー。当初は、オーバーオール、レインコート、ユニフォームなどワークウェアのブランドとしてスタートした。1960年代初めにボス ブランドを発表。ヨーロッパのみならず国際的メンズファッションの一流ブランドとなる。1972年以降、国際的にマーケットを広げ、現在では世界83カ国に進出している。
1980年代初頭から、フレグランス、アイウェア、靴、ボディウェアなど多岐にわたる製品を対象にグローバルライセンスの付与を開始。1993年、ヒューゴ、バルデサリーの2つの新ブランドを加え、幅広い層のファッションを充実させた。1994年にはアンダーウェアの生産も始め、これでメンズファッションすべてのアイテムをフォローすることとなるとともに、レディスウェアも発表。1996年、BOSS Hugo BossのウオッチをスイスのTempus Concept 社にライセンス供与。BOSSのウオッチは当初男性用のみだったが、後にバーゼルで女性用コレクションも発表。
スターの顧客も多く、ダスティン・ホフマン、ロバート・デニーロ、ハリソン・フォード、ショーン・コネリー、デニス・ホッパー、アントニオ・バンデラなどが着用している。
さまざまな年齢層の消費者に合わせてBOSS Hugo Boss(ボス・ヒューゴボス)、HUGO Hugo Boss(ヒューゴ・ヒューゴボス)、Baldessarini Hugo Boss(ヒューゴボス・バルデサリーニ) という3つのブランドを抱える。コアブランドであるBOSS、成功志向が強く、ダイナミックな個性と典型的な男らしさを備えた男性に合わせたブランド。メンズスーツのトップブランドであり、世界のスーツの6分の1、ロシアに至っては2着に1着が同社のものとされる。現在のラインは主流のボスがレディスのブラックレーベルとメンズでブラック、オレンジ、グリーンの3レーベル。ややカジュアルよりのヒューゴのメンズとレディス。バルデサリーニはメンズのみ。
現在ではイタリアのマルゾット社のグループに属する。現CEOはブルーノ・サルザー。スポーツスポンサーとしても名高く、テニス、ゴルフ、サッカー、モータースポーツなどに協賛している。中でも有名なのはアイルトン・セナのヘルメットに「BOSS」のマークつけられていたように、F1のマクラーレンチームへのスポンサード。
2003年春に「ヒューゴ ボス ジャパン」は、六本木ヒルズ内に大型路面店をオープン。銀座店、青山本店に続くもので、「ボス ヒューゴ・ブラックラベル」と「ウィメンズコレクション」、「ボス・スポート」に加え、日本再上陸となる「ヒューゴ ヒューゴ・ボス」も展開。今後日本でのショップ展開を精力的に行なう予定。
派手に流行を捉えるというよりも、ドイツらしい構築的なシルエットが特徴。1着持っていれば、長く着ることができる服。
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Gianfranco Ferre ジャンフランコ・フェレ Italy
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歴史・解説
フェレは1944年、イタリア・ルガーノに生まれ、ミラノ工科大学建築家を卒業。首席を務めるほど優秀な学生だった。当初インテリアメーカーのデザイナーをしていたが、ミラノファッション界の権威、ウォルター・アルビーニの装身具をデザインしたことから、アクセサリーデザイナーとしての名声を高める。その後、フィオルッチのTシャツデザインで頭角を現し、スポーツウェアなど服のデザインも手がけたあと73年バイラ社からコレクションを任される。78年、自らの名「ジャンフランコ・フェレ」で、プレタポルテ・コレクションを発表。5回ロッキオ・ドーロ賞を受賞。建築家の特性も生かした構築的な造形美で評価を高める。
80年代、各国のファッション評論家が選ぶ「ゴールデンアイ賞」を8年間で5度受賞。
本体のフェレ以外にもディヒュ-ジョンの「ステューディオ000・1バイ・フェレ」、カジュアルの「オークス・バイ・フェレ」、90年からの「フェレ・ジーンズ」にフレグランスや皮革製品も手がける。
89年「ディオール」のデザイナーに抜擢され、同年7月のフェレによるディオールの初めてのコレクションである89秋冬オートクチュールコレクションにおいて、「ニュールック」をモチーフにしたデザインを発表し、デ・ドール賞を受賞。96年まで、ディオールのデザインを手がける。
アルマーニ、ヴェルサーチと並んで、ミラノの3Gと呼ばれ、日本でもバブル時期にこの3ブランドを着ていれば、それだけでおしゃれといわれた時期がありました。
日本では1980年から導入され、西武百貨店の子会社、エルビスによって展開されていたが、西武の再建計画の一環により、2003年春夏からオンワード樫山に移転した。
2005年、大韓航空の新制服をデザイン。フェレが航空会社の制服をデザインするのは初めてで、新制服は10月から登場予定。
Gianne Versace ジャンニ・ヴェルサーチ Italy
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歴史・解説
ジャンニ・ヴェルサーチは1946年12月2日、イタリア、レッジオ・カラブリアに生まれる。ブティックを経営していた母親の影響を受け、幼い頃からモードに関心を持つ。母親の下で働いたあと、ミラノへ。その巧みなカッティング技術が評判を呼び、72年「ジェニー」のデザイナーにスカウトされる。その後、「マリオ・ヴァレンティノ」の皮革部門や、「コンプリーチェ」の契約デザイナーとして活躍したあと、78年「ジャンニ・ベルサーチ」として初のレディースとメンズコレクションをミラノで発表。未来的な先端技術と天然素材を巧みに使った、その表現は尊厳を持って迎えられる。同年、兄、サント(Santo、社長)の協力をへて、ジャンニ・ヴェルサーチ社に設立。ミラノのスピーガ通りにブティックをオープン。1981年には、香水の発売を開始し、1982年には、イタリア婦人服デザイナーの最高賞であるゴールド・アイ(キッキオ・ドーロ) 賞を獲得した。さらにニューヨークのカティ・サーク賞を受賞し、その才能は一気に世界に認められるようになり、日本にも進出することになる。 1986年には、大統領から、勲3等を授与されるなどの世界中の注目を浴びる。90年にはパリでオートクチュールを発表。
以後、プレタポルテの「ジャンニ・ヴェルサーチ」に、ヤングラインの「ベルサス(VERSUS)」やジーンズライン「Versace Jeans Couture」、オートクチュールラインの「アトリエ・ヴェルサーチ(ATELIER VERSACE)」、スポーツラインの「VERSACE SPORT」、テーラードなビジネスライン「Versace Classic V2」、1993年には子供向けの「Versace Young」、コスメの「Versace Beauty」など複数のラインを次々発表。しかし、1997年7月15日にマイアミで凶弾に倒れる。
ジャンニの死後、98年春夏レディスコレクションからは妹のドナテッラ・ヴェルサーチ(Donatella Versace)が引き継いでいる。ドナテッラ・ヴェルサーチ(Gianniの妹)は1959年、カラブリア(イタリア)生まれ。フィレンツェ大学で言語学を学んだあと、ヴェルサーチの広告キャンペーンの仕事からキャリアをスタート。1993年に子供のライン(ヴェルサーチ・ヤング)を作り、続いてヴェルサスのヘッドデザイナーに就任。現在副社長兼すべてのブランドを統括するチーフデザイナーとして、ブランドの核となる役割を果たしている。
2004年何度かの中断を経て、オートクチュールから撤退。2005年春には、マドンナをキャンペーンフォトに起用。撮影はマリオ・テスティーノ。テーマは「オフィスの女性(women in the office)」。スタイリストはBrana Wolf。「彼女はアイコンです。彼女は、彼女のフィールドでの革新者であり最高です。彼女はすべての世代の女性の憧れであり、独特のスタイルを持ち、私とこのブランドの長年の友人でした」 とドナテッラ。
ジャンニがオペラに情熱を傾けたように、ドナテッラは現代音楽をショーに取り入れています。コレクションでは、ボーイ・ジョージがDJを担当し、その内容は派手で、セクシー。ナオミ・キャンベルらスーパーモデルが、モンローウォークで登場し、華麗な色彩に彩られたコレクションを展開します。見ていて、一番楽しいコレクションといえるでしょう。本国イタリアではホテルも経営。デビューからわずか20年で、これだけの規模に拡大したブランドもそうはないでしょう。ジャンニの死後、ドナテッラの才能を不安視する声も一部にはありましたが、今ではそれが杞憂に過ぎなかったことを彼女自身が証明しています。国内では、イタリア本社、三井物産、サンフレール系列のヴェルサーチ・ジャパンによって展開。
Gieves & Hawkes ギーブス&ホークス England
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解説・歴史
スーツの聖地、ロンドンのサヴィル・ロー1番地に店を構えるギーブス&ホークス(Gieves & Hawkes)は、エリザベス女王、女王の夫君エディンバラ公フィリップ殿下、チャールズ皇太子と3つの英国王室御用達(ロイヤルワラント・Royal Warrants)に指名されているイギリスを代表するテーラー。
ギーブスは1785年、ホークスは1771年設立。1809年、当時、ベルベット・キャップ・メーカーだったトーマス・ホークス(Thomas Hawkes)がジョージ3世から御用達を受けて以来、200年以上にわたって、王室御用達を続けている老舗。
トーマス・ホークスの顧客には、リージェント王子(Prince Regent、後のジョージ4世。ロンドンのリージェント・パークやリージェント・ストリートは彼にちなんで名づけられた)もおり、ある日曜日に王子がトーマスを呼びつけると、トーマスは「私は1週間のうち6日間は王に仕えるが、安息日は神に仕える」と言って、それを断り、メッセンジャーを送り返した。リージェント王子はこの拒絶にも怒らず、その後も御用達を継続させたという逸話も伝えられている。
その後、英国陸軍に制服を供給。18世紀にはネルソン提督、ウェリントン公、19世紀には冒険家のデヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)やヘンリー・モートン・スタンリー(Henry Morton Stanley)らが顧客に名を連ねた。
一方、ギーブスは、海軍のテーラーとして有名になり、1878年、ウィリアム・S・ギルバート(W S Gilbert)が作曲家、サー・アーサー・サリバン(Sir Arthur Sullivan)とオペラ「HMS Pinafore(軍艦ピナフォア−水兵に恋した娘)」を上演する際、海軍の服装についてギーブスにアドバイスを求めたとされる(ギルバート&サリバンはオペラ「ミカド」の製作者としても有名)。
第1次世界大戦に先立ち、ギーヴスは膨張式の人命救助ベストを開発し特許を取得。このベストのオリジナルは現在、ハンプシャーのBeaulieu博物館に展示されている。20世紀初頭には、日本海軍がギーブスに制服を発注。
1975年、ギーブスとホークス合併。1912年からサヴィル・ロウ1番地に店舗をかまえていたホークスにギーブスが移る形で再スタートを切る。英国陸軍の服の仕立て屋だったホークスと海軍仕官の仕立て屋だったギーブスが合併したことにより、英国の海軍・空軍・陸軍のユニフォームにアクセサリーの製作に加え、パブリックスクールの制服の製作で、英国上流社会に溶け込み、英国人に最も愛されるブランドとなる。現在でも英国の海軍・空軍・陸軍のユニフォーム製作は継続しており、軍関係者はギーブス&ホークスで注文できる。
1981年、チャールズ皇太子の結婚式のコスチュームを担当。スーツの顧客には、ピーター・セラーズ、ロジャー・ムーア、コリン・ファースらがいる。
本社と旗艦店があるサヴィルロー1番地は、Fairfax家が1732年に設立。1871年、Royal Geographical Societyに所有権が移り、1912年ホークスが取得。1926年には、コレクション・ライン(既製服、レディ・トゥ・ウェア)を開始。さらに、ビスポークとコレクション・ラインの中間にあたる「パーソナル・テーラリング・システム」も提案。現在でも、サヴィルロー1番地はビスポークのワークルームとして、デザイン、ホールセール、マーケティングとマネージメントチームの拠点として存続されている。
2005年4月からJoe-Casely Hayfordが参加。2006秋冬コレクションから、クリエイティブ・ディレクターに就任。
2005秋冬のキャンペーンにはGQのエディター、Dylan JonesとAnother magazineのエディター(というよりケイト・モスの元恋人で彼女の娘、 Lila Graceの父親)であるジェファーソン・ハック(JEFFERSON HACK)が登場。撮影はデヴィッド・ベイリー。
日本では、メルボ紳士服で展開されていたが、2004年9月、ギーブス&ホークスは、ダイドーと日本でのプロモートおよび販売を手がけるギーブス・アンド・ホークス・ジャパンを設立することで合意。日本国内において英国の伝統的オーダーメイドの技術を用いた「ギーブスアンドホークス」ブランドの既製、オーダーメイドのスーツおよびシャツ、ネクタイ、アクセサリーなどを販売する。新会社は、2005年秋から販売を開始し、ギーブス・アンド・ホークスのプレタコレクションだけでなく、より若い層をターゲットにした「Gieves」ラインも2006秋から展開する。2006年2月11日表参道に旗艦店をオープン。
Joe Casely-Hayford(ジョー・ケイスリー・ヘイフォード)
1956年、英国ケント生まれ。祖父は汎アフリカ主義を唱えたガーナ人政治家、ケイスリー・ヘイフォード。この祖父にちなんで名づけられ、法曹界や政治家の多い家系の伝統を破り、ジョーは幼少のころから関心を抱いていたアートとファッションの分野に進む。
ロンドンのテイラー&カッター・アカデミー卒業後、テイラー、Dougie Hayward(ダギー・ヘイワード)のワークルームでテーラリングの基本を修行。その後セントラル・セントマーチンでファッションデザインを学び(ガリアーノが同期)、ICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート)で美術史の修士号を取得。
1984年、自らのブランドを開始し、1986年、ロンドンファッションウィーク(ロンドン・コレクション)でランウェイデヴュー。同時にJoe Casely-Hayfordウィメンズウェアコレクションをスタートさせる。1996年、メンズウェアコレクションをパリコレクションに移動。2004年までウィメンズウェアはロンドン、メンズはパリで披露するという形が続く。
確かな技術と、ストリートスタイルにエレガンスを加えたといわれ、彼の作品はニューヨークのメトロポリタン・ミュージアム・オブ・アート(MOMA)やロンドンのデザインミュージアム、V&A、ファッション&テキスタイルミュージアムに展示される。Joseph(ジョセフ)やイタリアのブランド、Panchetti(パンチェッティ)のデザインを手がけ、英国音楽業界との深い関係でも知られており、Island Records(アイランド・レコーズ)のスタイルコンサルタントとしての多くのアーティストの衣装を手がける。The Clashの衣装デザインを託された後、プライマル・スクリームのボビー・ギレスピー、ルー・リード、リサ・スタンスフィールド、ヘレナ・クリスチャンセン、ロビー・ウィリアムス、ジョージ・マイケル、オアシスのLiam Gallagherの衣装を担当。1991年には、U2のワールドツアーの衣装を手がける。2002年にはデニムラインを開始したものの、2004年には彼自身のコレクションを休止。その後は、数々のプロジェクトデザインのコンサルタント、文筆業などを行っていた。
Giorgio Armani ジョルジオ・アルマーニ Italy
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歴史・解説
アルマーニは1934年イタリア・ピアチェンツァ生まれ。ミラノ大学で医学を専攻したが2回生の時に兵役のため大学を離れ、そのまま大学は退学。その間に、恋人が事故死する。兵役終了後、イタリアの百貨店リナシェンテで紳士服を手がけたことからファッション界へ入る。1965年、31歳の時に「セルッティ」の紳士服デザイナーにスカウトされ、「ヒットマン」というブランドのデザイナーに。1968年、10歳年下の建築家セルジオ・ガレオッティ(Sergio Galeotti)と出会い、 ガレオッティに独立を促される。
2年後の1970年に独立しフリーのデザイナーに。そして75年自社を設立。セルジオ・ガレオッティとの共同出資で「GIORGIO ARMANI SPA」社を設立。この時の資本金は1万ドル。続いて「GIORGIO ARMANI JUNIOR」(ジュニア部門)、「GIORGIO ARMANI INTIMO」(下着部門)、「GIORGIO ARMANI ACCESSORIES」(アクセサリー部門)などを次々に発表。79年ニーマン・マーカス賞受賞。「モードの帝王」の地位を築くとともに、1980年リチャード・ギア主演の映画「アメリカン・ジゴロ」の衣装を担当。ハリウッドに進出し、数多くのハリウッドスターがアルマーニの衣装を着るようになる。
1981年、若者向けセカンドラインとして、「EMPORIO ARMANI」(エンポリオ・アルマーニ)発表。「装うことを楽しく遊ぼう」がテーマ。エンポリオとは「市場」という意味。同じ年にジーンズラインである「ARMANI JEANS」(アルマーニ・ジーンズ)を発表。1982年、週刊誌「タイム」の表紙を飾る。ファッションデザイナーがタイム誌の表紙に起用されたのはクリスチャン・ディオール以来のこと。同年、レディース用フレグランスを発表。1984年メンズ用フレグランスを発表。1984年、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の衣装を担当。1985年、共同出資者である セルジオ・ガレオッティが白血病のため死去。これが、後に何度もアルマーニ買収の噂が巻き起こる要因となる。彼が生きていれば、アルマーニはマネージメントを任して、デザイン活動に専念できたが、アルマーニ本人がビジネス面も担当しなければいけなくなったからである。1991年、カジュアルライン「アルマーニ・エクスチェンジ」(Armani Exchange A/X)を発表。
2000年秋冬コレクションからはビジネスラインとしてメンズ・レディスを統合した「ARMANI COLLEZIONI」をスタート。2002年、ロレアルグループからメイクアップブランドとしてコスメを発売。日本では8月末より、新宿伊勢丹、池袋西武にオープン。衣料品ブランドとのジョイントも検討。売れ筋商品はファンデーションで、肌色にあわせて色を混ぜ合わせてつくりだす。11月にはスキンケアも導入された。
2004年12月、「Giorgio Armani Prive」でパリ・オートクチュールコレクションに参加すると発表。「Prive(プリヴェ、フランス語で「プライベート」の意味)」はもともと、アルマーニがミラノに作った会員制クラブの名前で、この名前の最新フレグランスも発売。アルマーニのオートクチュールコレクションは2005年1月24日の午前10時に「2005春夏コレクション」のトップを切って披露される。また、アルマーニはオートクチュール・ジュエリー「Prive」の展開も計画。アルマーニは「5ケタの価格のドレスを売る市場はまだあり、購買力のある女性は、平凡な高級品からは差別されたいと考えている。彼女たちは自分の秘書が自分と同じバッグを持っていることは喜ばないだろう」とコメント。
素材の品質のよさ、シルエットの美しさ、着心地の良さを追求し、最高級の女性の美しさを表現する。日本では伊藤忠がパートナーとなって展開されている。ヴェルサーチやフェレと並び、バブル時期の憧れのブランドのトップ。その後、日本での人気は多少衰えたが、それでもアルマーニが「モードの帝王」であり、「ミラノの帝王」であることに変わりはない。近年、アルマーニのコレクションも開かれるミラノの拠点、アルマーニ・テアトロを設計したのは建築家の安藤忠雄。
Givenchy ジバンシイ France
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歴史・解説
デザイナー、ユベルト・ジバンシイ(Hubert de Givenchy、正式にはジャン・ユベール・ジェーム・トラフィン・ド・ジバンシィ)は、1927年2月10日、フランス・ボーヴェで父が公爵位を持つ貴族の家に生まれた。幼くして父と死別し、ゴブラン織り業界の指導的立場にあり、タペストリー工場を営んでいた祖父のもとで育つ。法律家になるべく教育を受けたが、10歳のときにパリ万博エレガンス館で見たシャネルやランバンの仕事が忘れられず、バレンシアガに憧れてパリに出て、17歳でジャック・ファットのメゾンに入る。その後、ロベール・ピゲ、ルシアン・ルロンなどを経て、スキャパレリへ。そこで、才能を認められ、スキャパレリの右腕としてモデリストとなり、ヴァンドーム広場のブティックを任される。
1952年2月2日、独立して自らのブティックをオープン。同時にコレクションを開催。「べッティーナ・ブラウス」と「セパレート」、ワイシャツ地で作られたドレスを発表し、そのエレガンスな感覚が衝撃を与える。この時に初めてジバンシイはセパレートというスタイルを生み出した。「ベッティーナ・ブラウス」とは当時のトップマヌカンで、ショーに友情出演していたベッティーナ・グラジアーニが着ていた黒いひだ飾りのついたコットン・ポプリン製の開襟ブラウスのことである。これがアメリカのバイヤー達の間で評判を呼び、「ベッティーナ・ブラウス」と呼ばれることとなった。ジバンシイはわずか24歳にして「モードの神様」と呼ばれ、その後も次々と、53年の果物や野菜をプリントしたドレス、55年のシャツドレス、サックドレス、ウエストもヒップも強調しない若々しいシュミーズ・ドレス、58年ベビードール・ドレスなどを打ち出し、シンプルでスポーティ感覚にあふれながらもそのエレガンスさを表現したコレクションは多くの人々に支持された。
また、女優オードリー・ヘップバーンのデザイナーとしても知られ、「麗しのサブリナ」、「昼下がりの情事」、「パリの恋人」、「ティファニーで朝食を」、「シャレード」、「パリで一緒に」、「おしゃれ泥棒」、「華麗なる相続人」など多くの映画衣装も手がけた。58年のジバンシイの香水「ランテルディ」は、ヘップバーンが「私以外は使わないように」と語ったことから「ランテルティ(禁止)」と名づけられた。
57年、パルファム・ジバンシィ設立。初のフレグランス「De」発売。61年にはメンズ・フレグランスもスタートする。68年にはプレタポルテの「ジバンシィ・ヌーベル・ブティック」を開設。インテリア、香水など多くの部門を持ち、78年にはデ・ドール(金の指ぬき)賞受賞(82年に2回目のテ・ドール賞受賞)。憧れのバレンシアガが、68年にオートクチュールを閉店するときに職人と顧客を引き継いだことでも知られている。また、三宅一生は68年からジバンシイのアシスタントをしていた。73年、メンズライン「ジェントルマン・ジバンシイ」スタート。
88年、前年にパルファム・ジバンシイが買収されたのに続き、LVMHはジバンシィ・クチュールを買収する。当時はまだ、アルノーは登場しておらず、ルィ・ヴィトン社長のアンリ・ラカミエがMH(モエ・へネシー)と合併した頃である。ユベール・ド・ジバンシィ本人は95年末まで、デザイナー契約を結び、名誉会長兼芸術部門の責任者として、デザイナー活動を続けることとなった。問題は誰が後継者になるかということだった。そんな中、90年、初のメンズブティックオープン。93年、アクセサリー、ホームライン開始。
95秋冬コレクションをもってジバンシィは引退。その後、LVMHの実験を握ったベルナール・アルノーはジョン・ガリアーノをデザイナーに指名した。
ガリアーノは1960年ジブラルタル生まれのイギリス人で、6歳のときに両親とともに渡英。義務教育終了後、セント・マーティンに入り、テキスタイルを学んだ後、ファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を呼んだことでブラウンズと5年間の契約を結ぶ。デビュー当初はジャケットをボトムに使った「さかさまの服」など、アヴァンギャルドさが話題を集めた。一方で、カッティングとバイアスの確かさにも定評があり、古典や世界中の衣装から、そのときのトレンドアイテムを巧みに自分のコレクションに取り込む能力が高く評価されていた。
ガリアーノによるジバンシィはメディアの注目を集めたが、96春夏と96秋冬の2回のみでガリアーノはディオールに移籍。後任に指名されたのがアレキサンダー・マックイーンである。アルノーは97年10月にマックイーンと3年契約を結んだ。マックイーンは1968年、ロンドン生まれ。16歳から19歳までサヴィル・ロウのギーヴス&ホークスでカッティングの技術を学んだあと、コージ・タツノに師事。ロメヲ・ジリで働いた経験ももつ。ガリアーノと同じくセント・マーティン(美術学校修士課程)を卒業後、「ヴォーグ」のスタイリスト、イザベラ・ブロウに見出され、コレクションデビュー。ロンドンニューウェーブの先駆者として「アンファンテリブル(悪魔の申し子)」と呼ばれる。マックインーンのジバンシィは優れたカッティング技術によりセンセーショナルを巻き起こしたが、昔からのジバンシィファンの一部は、そのセンスについていけなかったのも事実である。
2000年12月4日、LVMHによるグッチ買収騒動の余波を受け、グッチグループがアレキサンダー・マックイーンを買収。このため、2001年1月に行われる予定だったジバンシィの2001春夏オートクチュールコレクションは「準備不足」を理由に突如中止に。LVMHとアレキサンダー・マックインーンの契約は2001年10月まで残っていたが、LVMHはこれを延長しないことを決定。マックイーンは2001秋冬を最後にジバンシィを離れ、LVMHは2001年3月後任に、ロンドン出身のジュリアン・マクドナルドを指名した。
ジュリアン・マクドナルドは1972年、イギリス南部ウェールズ生まれ。学生時代にコウジ・タツノで働き、ブライトン大学を経て、96年ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(王立芸術大学院)ニットウェアデザイン科を卒業。カール・ラガーフェルドのアシスタントとして、シャネルのプレタポルテとオートクチュール、カール・ラガーフェルドのニットウェアを担当した経歴を持つ。97秋冬から自身のブランド、ジュリアン・マクドナルドを開始しており、そのセクシーなスタイルを注目を集めつつあった。
2001秋冬オートクチュールコレクションからマクドナルドのジバンシィがスタートし、初のコレクションでユベール・ド・ジバンシィとオードリー・ヘップバーンの頃のジバンシィを回想するようなショーを開催。かつての名作を再現したコレクションだった。ジュリアンはレディスのプレタポルテとオートクチュール、アクセサリーのデザインを担当。2003年8月23日青山ツイン東館1階に国内初の紳士向け路面店をオープン。2003年8月新フレグランス「ヴェリィ イレジスティブル ジバンシィ」発売。キャンペーンモデルはリヴ・タイラー。これをきっかけに2004年春夏から、ブランド全体のキャンペーンモデルをリヴ・タイラーが務める。
2003年12月、LVMHは、ジバンシィ・オムのクリエイティブ・ディレクターに英国のデザイナー、オズワルド・ボーティング(Ozwald Boateng)を起用すると発表した。彼は、メンズ・プレタポルテのファーストラインの全責任を受け持つ。
ボーティングは、サヴィル・ローでビスポークテーラリングの修業をした後、1995年に自らのブランドをスタート。2000年には、ブリティッシュ・ファッション・アワードのベスト・メンズデザイナーを獲得。現在はパリ・コレクションで発表されており、ミック・ジャガー、デビッド・ボウイ、サミュエル・L・ジャクソン、キアヌ・リーヴスらが顧客として知られている。
2004年1月、ジュリアン・マクドナルドは4月の契約終了に伴い辞任するとテレビ番組で発言。後継者は決まらず、ジバンシィは2004秋冬のオートクチュールコレクションはランウェイショーは行わないと発表した。
2005年3月、レディスの新クリエイティブディレクターにイタリア人のリカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)を起用すると発表。Tisciは7月の2005年秋冬オートクチュールコレクションでデビュー。クチュールに加えレディスのプレタポルテ、アクセサリーコレクションを担当。「ジバンシィに加わり、自分のビジョンを、この伝説のクチュール・ハウスで担当できることを大いに喜びます」とTisci。ジバンシィのCEO、Marco Gobbettiは、「彼の才能、モダンな創造性、エレガンスは、ジバンシィの将来のために必要です」と発表した。
Tisciは、1975年イタリアのコモ生まれ(姉7人に妹一人で兄弟のうち男は彼だけらしい)。17歳からデザインをはじめ、ロンドンのセント・マーティン在学中にアントニオ・ベラルディのアシスタントを務め、1999年に自らのブランドを開始。彼のシグネチャーはミラノで発表されている。2003春夏コレクションにはデザイナー&アートディレクターとしてコカパーニも手がけていた。
Goyard ゴヤール France
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歴史・解説
ゴヤールは1853年エドメ・ゴヤール(Edme Goyard)によって創設された。ゴヤール家は1600年代からフランス・ニヴェルネ地方で水上筏の製作会社として知られており、パリに出たエドメはトランクメーカーであるモレル社に就職。そこで培った技術をエドメは同じくモレル社に入った息子、フランソワに伝承した。
モレルはフランソワを後継者に指名。1853年モレルの死去に伴い、フランソワが会社を引き継ぎサントノレ通り233番地に「メゾン・ゴヤール」が誕生する。
1860年フランソワに息子エドモンドが生まれる。エドモンドも父親の後を継ぎ、彼によって多くの革新がゴヤールにもたらせられる。エドモンドは「トワル・ゴヤール」と呼ばれるリネン・コットン・麻を織り上げ、天然アラビアゴムでカバーした耐久性、耐水性に優れたキャンバス地を開発。
1892年には、有名な3つの杉綾がYのイニシャルをかたどったモチーフを開始。これはゴヤールと樹木を意味するシンボルとして描かれ、現在でもゴヤールのトレードマークとなっている。
エドモンドはモンテカルロ、ニューヨーク、フィラデルフィアにゴヤールブティックをオープンさせ、1900年にパリ万博では銀メダルを獲得。1906年のミラノ国際博、1908年ロンドンの英仏博では金メダルを獲得。
1923年、70周年を機にエドモンドの息子、ロベールが家業を引き継ぐ。1925年パリの装飾芸術博で名誉賞授与。1931年旅行用デスクの発明で特許を取得。
1998年ゴヤールのコレクターとしても知られるジャン・ミシェル・シニョールが事業のホテル業を売却して、5代目のイザベルからゴヤールを買収。現在はシニョール家によって運営されている。
ゴヤールのクライアントにはアーサー・コナン・ドイル、グレゴリー・ペック、ウィンザー公夫妻らがおり、現代でもカール・ラガーフェルドやマドンナが愛用していることが知られている。
日本ではビームスなどのセレクトショップで扱われてきたが、2003年新宿伊勢丹にブティックをオープン。2004年7月ラブレス、2005年4月に日本高島屋にオープンし、着実に拡大している。
Gucci グッチ Italy
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歴史・解説
グッチの創立者、グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)は1881年、帽子を製造する家に生まれ、20世紀初頭、ロンドンのサヴォイホテルでエレベーターボーイとして働き始める。
このときにホテルを訪れた上流階級のエレガンスを吸収し、フィレンツェに戻るとアンティークショップに勤め、その後皮革会社で貿易やマネージメントを学び、第一次大戦後はレザークラフトの会社に迎えられ、革の選別法、メンテナンスを覚えローマ支社の支配人となる。そこで経営手腕を発揮したあと、ついに1921年フィレンツェのヴィグナ・ヌオヴァ通りに自分の店を開く。23年にはパリオーネ通りに2軒目の店を開き、品質保証をするために、世界で初めてデザイナーの名前を入れたダブルGのモノグラムを販売。ブランド商品の元祖となる。38年ローマのコンドッティ通りに店をオープン。「最上の伝統を最上の品質で、しかも過去のよいものを現代に反映させる商品作り」をコンセプトとする。
戦争中、牛皮が不足し、バッグ業界では代替の素材を考えざるを得なくなり、裏皮に使われていたブタ皮を表皮に使うようになった。中でもグッチは高級感あふれる仕上げの技術で評価を上げる。また、グッチの定番ともいえる持ち手に竹を使ったバンブーバッグが登場したのは1947年。第二次世界大戦中、経済制裁されたイタリアで革の大半を輸入に頼っていたグッチは困難な立場に立たされ、今ある革を少しでも減らさないように持ち手を竹で代用したのがバンブーバックの始まり。
40年代後半にロンドン、パリ、50年代にニューヨーク、ロサンゼルス、60年代にはバンクーバー、東京、ケープタウンと海外市場に進出。グッチオの三男がハリウッドで映画関係の仕事をしていた際、グッチ製品を映画の小道具として使いアメリカの女性の間で好評を得る。エリザベス・テーラー、オードリー・ヘップバーンらハリウッドスターや、ジャクリーヌ・ケネディら世界の“セレブリティー”たちの御用達となって絶大なる人気を誇る。1956年、モナコのレーニエ皇太子(現国王)と女優、グレース・ケリーの結婚式の招待客の贈り物に選ばれたのは、グッチのスカーフだった。
グッチオは1953年に死去。グッチオ亡き後は、息子アルドが経営の中心となり、65年ビットモカシン、68年レディスウェア発売。70年代には香水も発売された。しかし、80年代に入ってから、親族間でグッチの運営を巡って血みどろの骨肉の争いがおきる。グッチのブランドとしての勢いも低迷。倒産すら噂されるほどに経営が悪化した。グッチは当時、グッチオの4人の息子、アルド、バスコ、ウーゴ、ロドルフォによって運営されていたが、アルドの息子パウロは、父親に反抗。パウロはとくにアメリカ市場において、グッチは高級品だけではなく、いわゆる平場にも置けるような低額商品にも進出するべきと考え、独断で「PGコレクション」、続いて「パウロ・グッチ」を展開(これらの商品は現在、グッチは正規商品とは認めておらずメンテナンスなどは受けられません)。これが一族の大反対を受け、パウロはファミリーから追放される。パウロは反撃に転じ、1982年、米国CBSテレビのドキュメント番組「60ミニッツ」で「取締役会において暴力による制裁を受けた」と発言し、父親を脱税の罪で告訴、アルドは逮捕された。当時、一族の中で後継者と目されていたのは一番仕事熱心だったロドルフォの息子、マウリッツィオだった。パウロは父親の影響力を排除するため、自らの持ち株をマウリッツィオに提供。逆にアルドら他のファミリーはマウリッツィオに反抗する形で株をアラブ系投資グループのインベストコープ社に売却した。マウリッツィオは3代目の後継者となり、沈みかけた船を任されることとなった。
この状況下でも、マウリッツィオは努力し、1989年グッチ復興を願って当時、バッグドーフ・グッドマンの女性社長だったドーン・メロウをクリエイティブ・ディレクター兼副社長として招く。彼女はジェフリー・ビーンのデザインチームにいたリチャード・ランバートソンを採用。ランバートソンの強い推薦により、1990年、彼女がレディスのデザイナーに採用したのが、チーフデザイナー、マーク・ジェイコブスが率いる「ペリー・エリス」で同社のブリッジライン、スポーツウェアをデザインしていたトム・フォードである(このとき、ペリー・エリスにはマークとトムが机を並べていたんですね!)。トム・フォードは、ほとんど一人でウェア、アクセサリー、ギフトなどグッチの11にも及ぶラインのデザインを手がけ、91年には中断していたウェアコレクションを復活させた。
トム・フォード(Tom Ford)は1962年、アメリカ、テキサス州に生まれ、演劇、コマーシャル業界を経て、パーソンズ・スクール・オブ・デザインでインテリア・アーキテクチャーを専攻。ペリー・エリスなどでキャリアを積み、90年にグッチのデザインスタッフに加わる。スタイリッシュなコーディネートとゴージャスな素材使いで、イメージを大幅に刷新。その鮮やかな手腕で世界中にグッチ・ブームを再燃させた。
しかし、沈みかけた船は、もはやどうしようもなく、マウリッツィオは1993年、インベストコープ社に株のすべてを譲渡。グッチは70年に及ぶファミリー企業としての体制に終止符を打つ。2代目アルドは既に90年に死去しており、マウリッツィオも93年に離婚した元妻パトリシオに95年射殺され、その生涯を閉じることとなる。ちなみにパウロの息子、ロベルトは一族の復興を願って「フィレンツェの家」というブランドを興し、同様にパウロの娘、エリザベッタは「DIDI」というブランドを興したが、グッチ売却時の契約により、自らのファミリーネームである「グッチ」という名前を使用することができず、一部は日本にも紹介されたが苦戦している。
インベストコーブ社は再建に着手し、グッチ・グループN.V.社が設立され、弁護士の資格を持ち84年からグッチ・アメリカ社の社長だったドメニコ・デ・ソーレ(Domenico de Sole)がCEOに就任。もはや、自分の役割は終わったと思ったドーン・メロウは古巣のバッグドーフ・グッドマンに戻ったが、このとき自分の後任のクリエイティブ・ディレクターにトム・フォードを推薦。ここに現在のデ・ソーレ=フォードの体制が完成する。トム・フォードはマウリッツィオから指示されていたエレガンスなクラシック路線ではなくファッションモードを打ち出し、94年10月のレディスコレクションでは、「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンをイメージしたフェミニンなスカートやキュートなモヘアセーターを発表。やがてトム・フォードのデザインは人気を集め、93年には2億ドルだった売り上げは99年には12億ドルまで拡大した。インベストコープ社は95、96年と2回に分けて株を公開、持ち株をすべて売却。グッチはイタリア・ファッション産業界の中では、初の株式を完全公開した企業となった。
ドメニコはグッチが他社の手に渡るのを防ぐため、自らの資産と社員持ち株会の協力を得て、株を買い集めた。だが、ここに目をつけたのがLVMHのベルナール・アルノーである。まず98年6月、プラダがグッチ株の9.5%を取得し筆頭株主となる。99年1月LVMHがグッチ株の5%を集めたと発表。さらにプラダと提携し、プラダが保有するグッチ株を譲り受けたと述べた。後にLVMHの持ち株比率は34.4%まで上昇する。グッチはフランスの流通大手ピノー・プランタン・ルドゥート(PPR)と資本提携することで対抗。この争いは裁判までもつれ込んだが2001年、LVMHが手を引くことで決着。
グッチは1999年、セルジオ・ロッシ、2000年宝飾メーカー、ブシュロンを買収。2000年10月イヴ・サンローラン、2001年7月にはアレキサンダー・マックイーンの株式の51%、バレンシアガブランドの株式資本の91%を所有し、傘下におさめる。2001年にはトム・フォードがイヴ・サンローランリヴ・ゴーシュのデザイナーにも就任。同年皮革メーカー、ボッテガ・ヴェネタを買収。2002年、グッチグループからステラ・マッカートニーがデビューした。トム・フォードは「リアルなクロージングをクリーンなスタイルで表現する」をコンセプトに、黒アイテムを武器にグッチの最盛期を創りあげる。
しかし、2003年11月、グッチとピノー・プランタン・ルドゥート(PPR)は、グッチ・グループの最高経営責任者(CEO)ドメニコ・デ・ソーレとクリエィティブ・ディレクターのトム・フォードが2004年4月30日付で退任すると発表。両者の間にはブランド・コントロール、とくにYSLに関して対立があったとされ、株主として自分たちでコントロールしたいPPRと「ブランドビジネスを理解できていない」彼らとフォード、ソーレは合意できなかった。フォードは「グッチ・グループでない自分の将来を想像することは非常に悲しい。13年間、この会社は私の命であり、この産業で最も強いチームを率いたと確信しているし、残り時間も最善を尽くす」とコメント。デ・ソーレはグッチでの仕事を「one of the great loves of my life」と呼び、今後について「なにも約束できない」と語った。
2004年1月14日のグッチ、ミラノメンズコレクション。1月26日のリヴ・ゴーシュのパリメンズコレクション。2月25日のグッチ、ミラノコレクション。3月7日のリヴ・ゴーシュのパリコレクションでトム・フォードによるデザインは終了。
PPRは、2004年3月11日、グッチの後継者に、レディスがトム・フォードの部下でレディスデザインチームのヘッドだったアレッサンドラ・ファッキネッティ(ミュウミュウ出身)、メンズがメンズ部門のナンバー2であるジョン・レイ(キャサリン・ハムネット出身)、アクセサリーがフリーダ・ジャンニーニ(フェンディ出身)の3人、リヴ・ゴーシュの後継者は同じくトムの右腕でプラダ出身のステファノ・ピラッティを選んだ。
2005年のクルーズコレクションでフリーダ・ジャンニーニは、1966年、ロドルフォ(創設者、グッチオ・グッチの息子)がイタリアの芸術家Vittorio Accorneroとともにグレース・ケリーのために季節の花と37色のカラーパターンを作成してデザインしたシルクのスカーフをイメージしたフローラコレクションをデザイン。ジャンニーニはグッチの象徴的なバッグ、ホーボ、ジャッキー、バンブーにこの「Flora」を施した。
2005年3月8日、グッチは、レディス・ウェアを担当していたAlessandra Facchinettiが、わずか2シーズンで「マネージメントの不一致により辞任した」と発表。後任はアクセサリー部門を担当しているフリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)。ジャンニーニはレディスに加えて、アクセサリーのデザインも続ける。現在、グッチの売上の80%はアクセサリー部門が上げており、一部では、フェンディがジャンニーニを引き抜こうとしたため、それを防ぐために、このような結果になったと噂されている。
2005秋冬からはフリーダ・ジャンニーニが手掛けた新コレクション「グッチッシマ(GUCCISSIMA)」を開始。最高級レザーにGGのロゴやホースビット・モチーフを熱でエンボス加工などした。
2006年2月、メンズ・デザイナーのジョン・レイ(John Ray)が「個人的な理由」で辞任し、フリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)がメンズラインも担当するとグッチが発表。ジャンニーニはアクセサリー、レディスに加えメンズラインも担当し、トム・フォード辞任後のデザイン・トリオはこれによって終了する。グッチの社長兼CEO、マーク・リーは、「レイの決定を尊重し、過去10年にわたるメンズラインにおける彼の貢献」に感謝を捧げた。メンズラインはグッチ販売のおよそ5パーセントを占める。
フリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)
1972年、ローマ生まれ。父は建築家、母親はアーティストという芸術家一家で育ち、名前は画家のフリーダ・カーロにあやかって名づけられた。ローマ・ファッション・アカデミーを卒業後、フェンディのレザーグッズを担当。2002年9月にグッチに移籍し、2004年3月グッチのアクセサリー部門、2005年3月、レディス部門のクリエイティブ・ディレクターに就任。
ジョン・レイ(John Ray)
スコットランド出身。スコットランドでグラフィックデザインを学んだ後、広告会社に就職。その後、86年にロンドンのセント・マーティンでファッションを、ロイヤル・アカデミーでメンズウェアデザインを学び、92年キャサリン・ハムネットに入社。96年グッチにメンズウェアコンサルタントして移籍し、デザインチームに加わる。98年シニアメンズウェアデザイナー、2001年メンズウェアバイスプレジデントに就任。2004年3月メンズウェア部門のクリエイティブ・ディレクターに就任。
日本ではサンモトヤマによって紹介され(サンモトモヤマの茂登山長市郎会長が直接、2代目バスコに掛け合ったとされる)、後にグッチ・ジャパン設立。社長は長年、伊勢丹出身の田代俊明が務めていたが、トム・フォード退任時に辞任。現社長は、同じく伊勢丹出身の田中伸一。
Gianfranco Ferre ジャンフランコ・フェレの高額商品はこちら
歴史・解説
フェレは1944年、イタリア・ルガーノに生まれ、ミラノ工科大学建築家を卒業。首席を務めるほど優秀な学生だった。当初インテリアメーカーのデザイナーをしていたが、ミラノファッション界の権威、ウォルター・アルビーニの装身具をデザインしたことから、アクセサリーデザイナーとしての名声を高める。その後、フィオルッチのTシャツデザインで頭角を現し、スポーツウェアなど服のデザインも手がけたあと73年バイラ社からコレクションを任される。78年、自らの名「ジャンフランコ・フェレ」で、プレタポルテ・コレクションを発表。5回ロッキオ・ドーロ賞を受賞。建築家の特性も生かした構築的な造形美で評価を高める。
80年代、各国のファッション評論家が選ぶ「ゴールデンアイ賞」を8年間で5度受賞。
本体のフェレ以外にもディヒュ-ジョンの「ステューディオ000・1バイ・フェレ」、カジュアルの「オークス・バイ・フェレ」、90年からの「フェレ・ジーンズ」にフレグランスや皮革製品も手がける。
89年「ディオール」のデザイナーに抜擢され、同年7月のフェレによるディオールの初めてのコレクションである89秋冬オートクチュールコレクションにおいて、「ニュールック」をモチーフにしたデザインを発表し、デ・ドール賞を受賞。96年まで、ディオールのデザインを手がける。
アルマーニ、ヴェルサーチと並んで、ミラノの3Gと呼ばれ、日本でもバブル時期にこの3ブランドを着ていれば、それだけでおしゃれといわれた時期がありました。
日本では1980年から導入され、西武百貨店の子会社、エルビスによって展開されていたが、西武の再建計画の一環により、2003年春夏からオンワード樫山に移転した。
2005年、大韓航空の新制服をデザイン。フェレが航空会社の制服をデザインするのは初めてで、新制服は10月から登場予定。
Gianne Versace ジャンニ・ヴェルサーチ Italy
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歴史・解説
ジャンニ・ヴェルサーチは1946年12月2日、イタリア、レッジオ・カラブリアに生まれる。ブティックを経営していた母親の影響を受け、幼い頃からモードに関心を持つ。母親の下で働いたあと、ミラノへ。その巧みなカッティング技術が評判を呼び、72年「ジェニー」のデザイナーにスカウトされる。その後、「マリオ・ヴァレンティノ」の皮革部門や、「コンプリーチェ」の契約デザイナーとして活躍したあと、78年「ジャンニ・ベルサーチ」として初のレディースとメンズコレクションをミラノで発表。未来的な先端技術と天然素材を巧みに使った、その表現は尊厳を持って迎えられる。同年、兄、サント(Santo、社長)の協力をへて、ジャンニ・ヴェルサーチ社に設立。ミラノのスピーガ通りにブティックをオープン。1981年には、香水の発売を開始し、1982年には、イタリア婦人服デザイナーの最高賞であるゴールド・アイ(キッキオ・ドーロ) 賞を獲得した。さらにニューヨークのカティ・サーク賞を受賞し、その才能は一気に世界に認められるようになり、日本にも進出することになる。 1986年には、大統領から、勲3等を授与されるなどの世界中の注目を浴びる。90年にはパリでオートクチュールを発表。
以後、プレタポルテの「ジャンニ・ヴェルサーチ」に、ヤングラインの「ベルサス(VERSUS)」やジーンズライン「Versace Jeans Couture」、オートクチュールラインの「アトリエ・ヴェルサーチ(ATELIER VERSACE)」、スポーツラインの「VERSACE SPORT」、テーラードなビジネスライン「Versace Classic V2」、1993年には子供向けの「Versace Young」、コスメの「Versace Beauty」など複数のラインを次々発表。しかし、1997年7月15日にマイアミで凶弾に倒れる。
ジャンニの死後、98年春夏レディスコレクションからは妹のドナテッラ・ヴェルサーチ(Donatella Versace)が引き継いでいる。ドナテッラ・ヴェルサーチ(Gianniの妹)は1959年、カラブリア(イタリア)生まれ。フィレンツェ大学で言語学を学んだあと、ヴェルサーチの広告キャンペーンの仕事からキャリアをスタート。1993年に子供のライン(ヴェルサーチ・ヤング)を作り、続いてヴェルサスのヘッドデザイナーに就任。現在副社長兼すべてのブランドを統括するチーフデザイナーとして、ブランドの核となる役割を果たしている。
2004年何度かの中断を経て、オートクチュールから撤退。2005年春には、マドンナをキャンペーンフォトに起用。撮影はマリオ・テスティーノ。テーマは「オフィスの女性(women in the office)」。スタイリストはBrana Wolf。「彼女はアイコンです。彼女は、彼女のフィールドでの革新者であり最高です。彼女はすべての世代の女性の憧れであり、独特のスタイルを持ち、私とこのブランドの長年の友人でした」 とドナテッラ。
ジャンニがオペラに情熱を傾けたように、ドナテッラは現代音楽をショーに取り入れています。コレクションでは、ボーイ・ジョージがDJを担当し、その内容は派手で、セクシー。ナオミ・キャンベルらスーパーモデルが、モンローウォークで登場し、華麗な色彩に彩られたコレクションを展開します。見ていて、一番楽しいコレクションといえるでしょう。本国イタリアではホテルも経営。デビューからわずか20年で、これだけの規模に拡大したブランドもそうはないでしょう。ジャンニの死後、ドナテッラの才能を不安視する声も一部にはありましたが、今ではそれが杞憂に過ぎなかったことを彼女自身が証明しています。国内では、イタリア本社、三井物産、サンフレール系列のヴェルサーチ・ジャパンによって展開。
Gieves & Hawkes ギーブス&ホークス England
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解説・歴史
スーツの聖地、ロンドンのサヴィル・ロー1番地に店を構えるギーブス&ホークス(Gieves & Hawkes)は、エリザベス女王、女王の夫君エディンバラ公フィリップ殿下、チャールズ皇太子と3つの英国王室御用達(ロイヤルワラント・Royal Warrants)に指名されているイギリスを代表するテーラー。
ギーブスは1785年、ホークスは1771年設立。1809年、当時、ベルベット・キャップ・メーカーだったトーマス・ホークス(Thomas Hawkes)がジョージ3世から御用達を受けて以来、200年以上にわたって、王室御用達を続けている老舗。
トーマス・ホークスの顧客には、リージェント王子(Prince Regent、後のジョージ4世。ロンドンのリージェント・パークやリージェント・ストリートは彼にちなんで名づけられた)もおり、ある日曜日に王子がトーマスを呼びつけると、トーマスは「私は1週間のうち6日間は王に仕えるが、安息日は神に仕える」と言って、それを断り、メッセンジャーを送り返した。リージェント王子はこの拒絶にも怒らず、その後も御用達を継続させたという逸話も伝えられている。
その後、英国陸軍に制服を供給。18世紀にはネルソン提督、ウェリントン公、19世紀には冒険家のデヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)やヘンリー・モートン・スタンリー(Henry Morton Stanley)らが顧客に名を連ねた。
一方、ギーブスは、海軍のテーラーとして有名になり、1878年、ウィリアム・S・ギルバート(W S Gilbert)が作曲家、サー・アーサー・サリバン(Sir Arthur Sullivan)とオペラ「HMS Pinafore(軍艦ピナフォア−水兵に恋した娘)」を上演する際、海軍の服装についてギーブスにアドバイスを求めたとされる(ギルバート&サリバンはオペラ「ミカド」の製作者としても有名)。
第1次世界大戦に先立ち、ギーヴスは膨張式の人命救助ベストを開発し特許を取得。このベストのオリジナルは現在、ハンプシャーのBeaulieu博物館に展示されている。20世紀初頭には、日本海軍がギーブスに制服を発注。
1975年、ギーブスとホークス合併。1912年からサヴィル・ロウ1番地に店舗をかまえていたホークスにギーブスが移る形で再スタートを切る。英国陸軍の服の仕立て屋だったホークスと海軍仕官の仕立て屋だったギーブスが合併したことにより、英国の海軍・空軍・陸軍のユニフォームにアクセサリーの製作に加え、パブリックスクールの制服の製作で、英国上流社会に溶け込み、英国人に最も愛されるブランドとなる。現在でも英国の海軍・空軍・陸軍のユニフォーム製作は継続しており、軍関係者はギーブス&ホークスで注文できる。
1981年、チャールズ皇太子の結婚式のコスチュームを担当。スーツの顧客には、ピーター・セラーズ、ロジャー・ムーア、コリン・ファースらがいる。
本社と旗艦店があるサヴィルロー1番地は、Fairfax家が1732年に設立。1871年、Royal Geographical Societyに所有権が移り、1912年ホークスが取得。1926年には、コレクション・ライン(既製服、レディ・トゥ・ウェア)を開始。さらに、ビスポークとコレクション・ラインの中間にあたる「パーソナル・テーラリング・システム」も提案。現在でも、サヴィルロー1番地はビスポークのワークルームとして、デザイン、ホールセール、マーケティングとマネージメントチームの拠点として存続されている。
2005年4月からJoe-Casely Hayfordが参加。2006秋冬コレクションから、クリエイティブ・ディレクターに就任。
2005秋冬のキャンペーンにはGQのエディター、Dylan JonesとAnother magazineのエディター(というよりケイト・モスの元恋人で彼女の娘、 Lila Graceの父親)であるジェファーソン・ハック(JEFFERSON HACK)が登場。撮影はデヴィッド・ベイリー。
日本では、メルボ紳士服で展開されていたが、2004年9月、ギーブス&ホークスは、ダイドーと日本でのプロモートおよび販売を手がけるギーブス・アンド・ホークス・ジャパンを設立することで合意。日本国内において英国の伝統的オーダーメイドの技術を用いた「ギーブスアンドホークス」ブランドの既製、オーダーメイドのスーツおよびシャツ、ネクタイ、アクセサリーなどを販売する。新会社は、2005年秋から販売を開始し、ギーブス・アンド・ホークスのプレタコレクションだけでなく、より若い層をターゲットにした「Gieves」ラインも2006秋から展開する。2006年2月11日表参道に旗艦店をオープン。
Joe Casely-Hayford(ジョー・ケイスリー・ヘイフォード)
1956年、英国ケント生まれ。祖父は汎アフリカ主義を唱えたガーナ人政治家、ケイスリー・ヘイフォード。この祖父にちなんで名づけられ、法曹界や政治家の多い家系の伝統を破り、ジョーは幼少のころから関心を抱いていたアートとファッションの分野に進む。
ロンドンのテイラー&カッター・アカデミー卒業後、テイラー、Dougie Hayward(ダギー・ヘイワード)のワークルームでテーラリングの基本を修行。その後セントラル・セントマーチンでファッションデザインを学び(ガリアーノが同期)、ICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート)で美術史の修士号を取得。
1984年、自らのブランドを開始し、1986年、ロンドンファッションウィーク(ロンドン・コレクション)でランウェイデヴュー。同時にJoe Casely-Hayfordウィメンズウェアコレクションをスタートさせる。1996年、メンズウェアコレクションをパリコレクションに移動。2004年までウィメンズウェアはロンドン、メンズはパリで披露するという形が続く。
確かな技術と、ストリートスタイルにエレガンスを加えたといわれ、彼の作品はニューヨークのメトロポリタン・ミュージアム・オブ・アート(MOMA)やロンドンのデザインミュージアム、V&A、ファッション&テキスタイルミュージアムに展示される。Joseph(ジョセフ)やイタリアのブランド、Panchetti(パンチェッティ)のデザインを手がけ、英国音楽業界との深い関係でも知られており、Island Records(アイランド・レコーズ)のスタイルコンサルタントとしての多くのアーティストの衣装を手がける。The Clashの衣装デザインを託された後、プライマル・スクリームのボビー・ギレスピー、ルー・リード、リサ・スタンスフィールド、ヘレナ・クリスチャンセン、ロビー・ウィリアムス、ジョージ・マイケル、オアシスのLiam Gallagherの衣装を担当。1991年には、U2のワールドツアーの衣装を手がける。2002年にはデニムラインを開始したものの、2004年には彼自身のコレクションを休止。その後は、数々のプロジェクトデザインのコンサルタント、文筆業などを行っていた。
Giorgio Armani ジョルジオ・アルマーニ Italy
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歴史・解説
アルマーニは1934年イタリア・ピアチェンツァ生まれ。ミラノ大学で医学を専攻したが2回生の時に兵役のため大学を離れ、そのまま大学は退学。その間に、恋人が事故死する。兵役終了後、イタリアの百貨店リナシェンテで紳士服を手がけたことからファッション界へ入る。1965年、31歳の時に「セルッティ」の紳士服デザイナーにスカウトされ、「ヒットマン」というブランドのデザイナーに。1968年、10歳年下の建築家セルジオ・ガレオッティ(Sergio Galeotti)と出会い、 ガレオッティに独立を促される。
2年後の1970年に独立しフリーのデザイナーに。そして75年自社を設立。セルジオ・ガレオッティとの共同出資で「GIORGIO ARMANI SPA」社を設立。この時の資本金は1万ドル。続いて「GIORGIO ARMANI JUNIOR」(ジュニア部門)、「GIORGIO ARMANI INTIMO」(下着部門)、「GIORGIO ARMANI ACCESSORIES」(アクセサリー部門)などを次々に発表。79年ニーマン・マーカス賞受賞。「モードの帝王」の地位を築くとともに、1980年リチャード・ギア主演の映画「アメリカン・ジゴロ」の衣装を担当。ハリウッドに進出し、数多くのハリウッドスターがアルマーニの衣装を着るようになる。
1981年、若者向けセカンドラインとして、「EMPORIO ARMANI」(エンポリオ・アルマーニ)発表。「装うことを楽しく遊ぼう」がテーマ。エンポリオとは「市場」という意味。同じ年にジーンズラインである「ARMANI JEANS」(アルマーニ・ジーンズ)を発表。1982年、週刊誌「タイム」の表紙を飾る。ファッションデザイナーがタイム誌の表紙に起用されたのはクリスチャン・ディオール以来のこと。同年、レディース用フレグランスを発表。1984年メンズ用フレグランスを発表。1984年、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の衣装を担当。1985年、共同出資者である セルジオ・ガレオッティが白血病のため死去。これが、後に何度もアルマーニ買収の噂が巻き起こる要因となる。彼が生きていれば、アルマーニはマネージメントを任して、デザイン活動に専念できたが、アルマーニ本人がビジネス面も担当しなければいけなくなったからである。1991年、カジュアルライン「アルマーニ・エクスチェンジ」(Armani Exchange A/X)を発表。
2000年秋冬コレクションからはビジネスラインとしてメンズ・レディスを統合した「ARMANI COLLEZIONI」をスタート。2002年、ロレアルグループからメイクアップブランドとしてコスメを発売。日本では8月末より、新宿伊勢丹、池袋西武にオープン。衣料品ブランドとのジョイントも検討。売れ筋商品はファンデーションで、肌色にあわせて色を混ぜ合わせてつくりだす。11月にはスキンケアも導入された。
2004年12月、「Giorgio Armani Prive」でパリ・オートクチュールコレクションに参加すると発表。「Prive(プリヴェ、フランス語で「プライベート」の意味)」はもともと、アルマーニがミラノに作った会員制クラブの名前で、この名前の最新フレグランスも発売。アルマーニのオートクチュールコレクションは2005年1月24日の午前10時に「2005春夏コレクション」のトップを切って披露される。また、アルマーニはオートクチュール・ジュエリー「Prive」の展開も計画。アルマーニは「5ケタの価格のドレスを売る市場はまだあり、購買力のある女性は、平凡な高級品からは差別されたいと考えている。彼女たちは自分の秘書が自分と同じバッグを持っていることは喜ばないだろう」とコメント。
素材の品質のよさ、シルエットの美しさ、着心地の良さを追求し、最高級の女性の美しさを表現する。日本では伊藤忠がパートナーとなって展開されている。ヴェルサーチやフェレと並び、バブル時期の憧れのブランドのトップ。その後、日本での人気は多少衰えたが、それでもアルマーニが「モードの帝王」であり、「ミラノの帝王」であることに変わりはない。近年、アルマーニのコレクションも開かれるミラノの拠点、アルマーニ・テアトロを設計したのは建築家の安藤忠雄。
Givenchy ジバンシイ France
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歴史・解説
デザイナー、ユベルト・ジバンシイ(Hubert de Givenchy、正式にはジャン・ユベール・ジェーム・トラフィン・ド・ジバンシィ)は、1927年2月10日、フランス・ボーヴェで父が公爵位を持つ貴族の家に生まれた。幼くして父と死別し、ゴブラン織り業界の指導的立場にあり、タペストリー工場を営んでいた祖父のもとで育つ。法律家になるべく教育を受けたが、10歳のときにパリ万博エレガンス館で見たシャネルやランバンの仕事が忘れられず、バレンシアガに憧れてパリに出て、17歳でジャック・ファットのメゾンに入る。その後、ロベール・ピゲ、ルシアン・ルロンなどを経て、スキャパレリへ。そこで、才能を認められ、スキャパレリの右腕としてモデリストとなり、ヴァンドーム広場のブティックを任される。
1952年2月2日、独立して自らのブティックをオープン。同時にコレクションを開催。「べッティーナ・ブラウス」と「セパレート」、ワイシャツ地で作られたドレスを発表し、そのエレガンスな感覚が衝撃を与える。この時に初めてジバンシイはセパレートというスタイルを生み出した。「ベッティーナ・ブラウス」とは当時のトップマヌカンで、ショーに友情出演していたベッティーナ・グラジアーニが着ていた黒いひだ飾りのついたコットン・ポプリン製の開襟ブラウスのことである。これがアメリカのバイヤー達の間で評判を呼び、「ベッティーナ・ブラウス」と呼ばれることとなった。ジバンシイはわずか24歳にして「モードの神様」と呼ばれ、その後も次々と、53年の果物や野菜をプリントしたドレス、55年のシャツドレス、サックドレス、ウエストもヒップも強調しない若々しいシュミーズ・ドレス、58年ベビードール・ドレスなどを打ち出し、シンプルでスポーティ感覚にあふれながらもそのエレガンスさを表現したコレクションは多くの人々に支持された。
また、女優オードリー・ヘップバーンのデザイナーとしても知られ、「麗しのサブリナ」、「昼下がりの情事」、「パリの恋人」、「ティファニーで朝食を」、「シャレード」、「パリで一緒に」、「おしゃれ泥棒」、「華麗なる相続人」など多くの映画衣装も手がけた。58年のジバンシイの香水「ランテルディ」は、ヘップバーンが「私以外は使わないように」と語ったことから「ランテルティ(禁止)」と名づけられた。
57年、パルファム・ジバンシィ設立。初のフレグランス「De」発売。61年にはメンズ・フレグランスもスタートする。68年にはプレタポルテの「ジバンシィ・ヌーベル・ブティック」を開設。インテリア、香水など多くの部門を持ち、78年にはデ・ドール(金の指ぬき)賞受賞(82年に2回目のテ・ドール賞受賞)。憧れのバレンシアガが、68年にオートクチュールを閉店するときに職人と顧客を引き継いだことでも知られている。また、三宅一生は68年からジバンシイのアシスタントをしていた。73年、メンズライン「ジェントルマン・ジバンシイ」スタート。
88年、前年にパルファム・ジバンシイが買収されたのに続き、LVMHはジバンシィ・クチュールを買収する。当時はまだ、アルノーは登場しておらず、ルィ・ヴィトン社長のアンリ・ラカミエがMH(モエ・へネシー)と合併した頃である。ユベール・ド・ジバンシィ本人は95年末まで、デザイナー契約を結び、名誉会長兼芸術部門の責任者として、デザイナー活動を続けることとなった。問題は誰が後継者になるかということだった。そんな中、90年、初のメンズブティックオープン。93年、アクセサリー、ホームライン開始。
95秋冬コレクションをもってジバンシィは引退。その後、LVMHの実験を握ったベルナール・アルノーはジョン・ガリアーノをデザイナーに指名した。
ガリアーノは1960年ジブラルタル生まれのイギリス人で、6歳のときに両親とともに渡英。義務教育終了後、セント・マーティンに入り、テキスタイルを学んだ後、ファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を呼んだことでブラウンズと5年間の契約を結ぶ。デビュー当初はジャケットをボトムに使った「さかさまの服」など、アヴァンギャルドさが話題を集めた。一方で、カッティングとバイアスの確かさにも定評があり、古典や世界中の衣装から、そのときのトレンドアイテムを巧みに自分のコレクションに取り込む能力が高く評価されていた。
ガリアーノによるジバンシィはメディアの注目を集めたが、96春夏と96秋冬の2回のみでガリアーノはディオールに移籍。後任に指名されたのがアレキサンダー・マックイーンである。アルノーは97年10月にマックイーンと3年契約を結んだ。マックイーンは1968年、ロンドン生まれ。16歳から19歳までサヴィル・ロウのギーヴス&ホークスでカッティングの技術を学んだあと、コージ・タツノに師事。ロメヲ・ジリで働いた経験ももつ。ガリアーノと同じくセント・マーティン(美術学校修士課程)を卒業後、「ヴォーグ」のスタイリスト、イザベラ・ブロウに見出され、コレクションデビュー。ロンドンニューウェーブの先駆者として「アンファンテリブル(悪魔の申し子)」と呼ばれる。マックインーンのジバンシィは優れたカッティング技術によりセンセーショナルを巻き起こしたが、昔からのジバンシィファンの一部は、そのセンスについていけなかったのも事実である。
2000年12月4日、LVMHによるグッチ買収騒動の余波を受け、グッチグループがアレキサンダー・マックイーンを買収。このため、2001年1月に行われる予定だったジバンシィの2001春夏オートクチュールコレクションは「準備不足」を理由に突如中止に。LVMHとアレキサンダー・マックインーンの契約は2001年10月まで残っていたが、LVMHはこれを延長しないことを決定。マックイーンは2001秋冬を最後にジバンシィを離れ、LVMHは2001年3月後任に、ロンドン出身のジュリアン・マクドナルドを指名した。
ジュリアン・マクドナルドは1972年、イギリス南部ウェールズ生まれ。学生時代にコウジ・タツノで働き、ブライトン大学を経て、96年ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(王立芸術大学院)ニットウェアデザイン科を卒業。カール・ラガーフェルドのアシスタントとして、シャネルのプレタポルテとオートクチュール、カール・ラガーフェルドのニットウェアを担当した経歴を持つ。97秋冬から自身のブランド、ジュリアン・マクドナルドを開始しており、そのセクシーなスタイルを注目を集めつつあった。
2001秋冬オートクチュールコレクションからマクドナルドのジバンシィがスタートし、初のコレクションでユベール・ド・ジバンシィとオードリー・ヘップバーンの頃のジバンシィを回想するようなショーを開催。かつての名作を再現したコレクションだった。ジュリアンはレディスのプレタポルテとオートクチュール、アクセサリーのデザインを担当。2003年8月23日青山ツイン東館1階に国内初の紳士向け路面店をオープン。2003年8月新フレグランス「ヴェリィ イレジスティブル ジバンシィ」発売。キャンペーンモデルはリヴ・タイラー。これをきっかけに2004年春夏から、ブランド全体のキャンペーンモデルをリヴ・タイラーが務める。
2003年12月、LVMHは、ジバンシィ・オムのクリエイティブ・ディレクターに英国のデザイナー、オズワルド・ボーティング(Ozwald Boateng)を起用すると発表した。彼は、メンズ・プレタポルテのファーストラインの全責任を受け持つ。
ボーティングは、サヴィル・ローでビスポークテーラリングの修業をした後、1995年に自らのブランドをスタート。2000年には、ブリティッシュ・ファッション・アワードのベスト・メンズデザイナーを獲得。現在はパリ・コレクションで発表されており、ミック・ジャガー、デビッド・ボウイ、サミュエル・L・ジャクソン、キアヌ・リーヴスらが顧客として知られている。
2004年1月、ジュリアン・マクドナルドは4月の契約終了に伴い辞任するとテレビ番組で発言。後継者は決まらず、ジバンシィは2004秋冬のオートクチュールコレクションはランウェイショーは行わないと発表した。
2005年3月、レディスの新クリエイティブディレクターにイタリア人のリカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)を起用すると発表。Tisciは7月の2005年秋冬オートクチュールコレクションでデビュー。クチュールに加えレディスのプレタポルテ、アクセサリーコレクションを担当。「ジバンシィに加わり、自分のビジョンを、この伝説のクチュール・ハウスで担当できることを大いに喜びます」とTisci。ジバンシィのCEO、Marco Gobbettiは、「彼の才能、モダンな創造性、エレガンスは、ジバンシィの将来のために必要です」と発表した。
Tisciは、1975年イタリアのコモ生まれ(姉7人に妹一人で兄弟のうち男は彼だけらしい)。17歳からデザインをはじめ、ロンドンのセント・マーティン在学中にアントニオ・ベラルディのアシスタントを務め、1999年に自らのブランドを開始。彼のシグネチャーはミラノで発表されている。2003春夏コレクションにはデザイナー&アートディレクターとしてコカパーニも手がけていた。
Goyard ゴヤール France
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歴史・解説
ゴヤールは1853年エドメ・ゴヤール(Edme Goyard)によって創設された。ゴヤール家は1600年代からフランス・ニヴェルネ地方で水上筏の製作会社として知られており、パリに出たエドメはトランクメーカーであるモレル社に就職。そこで培った技術をエドメは同じくモレル社に入った息子、フランソワに伝承した。
モレルはフランソワを後継者に指名。1853年モレルの死去に伴い、フランソワが会社を引き継ぎサントノレ通り233番地に「メゾン・ゴヤール」が誕生する。
1860年フランソワに息子エドモンドが生まれる。エドモンドも父親の後を継ぎ、彼によって多くの革新がゴヤールにもたらせられる。エドモンドは「トワル・ゴヤール」と呼ばれるリネン・コットン・麻を織り上げ、天然アラビアゴムでカバーした耐久性、耐水性に優れたキャンバス地を開発。
1892年には、有名な3つの杉綾がYのイニシャルをかたどったモチーフを開始。これはゴヤールと樹木を意味するシンボルとして描かれ、現在でもゴヤールのトレードマークとなっている。
エドモンドはモンテカルロ、ニューヨーク、フィラデルフィアにゴヤールブティックをオープンさせ、1900年にパリ万博では銀メダルを獲得。1906年のミラノ国際博、1908年ロンドンの英仏博では金メダルを獲得。
1923年、70周年を機にエドモンドの息子、ロベールが家業を引き継ぐ。1925年パリの装飾芸術博で名誉賞授与。1931年旅行用デスクの発明で特許を取得。
1998年ゴヤールのコレクターとしても知られるジャン・ミシェル・シニョールが事業のホテル業を売却して、5代目のイザベルからゴヤールを買収。現在はシニョール家によって運営されている。
ゴヤールのクライアントにはアーサー・コナン・ドイル、グレゴリー・ペック、ウィンザー公夫妻らがおり、現代でもカール・ラガーフェルドやマドンナが愛用していることが知られている。
日本ではビームスなどのセレクトショップで扱われてきたが、2003年新宿伊勢丹にブティックをオープン。2004年7月ラブレス、2005年4月に日本高島屋にオープンし、着実に拡大している。
Gucci グッチ Italy
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歴史・解説
グッチの創立者、グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)は1881年、帽子を製造する家に生まれ、20世紀初頭、ロンドンのサヴォイホテルでエレベーターボーイとして働き始める。
このときにホテルを訪れた上流階級のエレガンスを吸収し、フィレンツェに戻るとアンティークショップに勤め、その後皮革会社で貿易やマネージメントを学び、第一次大戦後はレザークラフトの会社に迎えられ、革の選別法、メンテナンスを覚えローマ支社の支配人となる。そこで経営手腕を発揮したあと、ついに1921年フィレンツェのヴィグナ・ヌオヴァ通りに自分の店を開く。23年にはパリオーネ通りに2軒目の店を開き、品質保証をするために、世界で初めてデザイナーの名前を入れたダブルGのモノグラムを販売。ブランド商品の元祖となる。38年ローマのコンドッティ通りに店をオープン。「最上の伝統を最上の品質で、しかも過去のよいものを現代に反映させる商品作り」をコンセプトとする。
戦争中、牛皮が不足し、バッグ業界では代替の素材を考えざるを得なくなり、裏皮に使われていたブタ皮を表皮に使うようになった。中でもグッチは高級感あふれる仕上げの技術で評価を上げる。また、グッチの定番ともいえる持ち手に竹を使ったバンブーバッグが登場したのは1947年。第二次世界大戦中、経済制裁されたイタリアで革の大半を輸入に頼っていたグッチは困難な立場に立たされ、今ある革を少しでも減らさないように持ち手を竹で代用したのがバンブーバックの始まり。
40年代後半にロンドン、パリ、50年代にニューヨーク、ロサンゼルス、60年代にはバンクーバー、東京、ケープタウンと海外市場に進出。グッチオの三男がハリウッドで映画関係の仕事をしていた際、グッチ製品を映画の小道具として使いアメリカの女性の間で好評を得る。エリザベス・テーラー、オードリー・ヘップバーンらハリウッドスターや、ジャクリーヌ・ケネディら世界の“セレブリティー”たちの御用達となって絶大なる人気を誇る。1956年、モナコのレーニエ皇太子(現国王)と女優、グレース・ケリーの結婚式の招待客の贈り物に選ばれたのは、グッチのスカーフだった。
グッチオは1953年に死去。グッチオ亡き後は、息子アルドが経営の中心となり、65年ビットモカシン、68年レディスウェア発売。70年代には香水も発売された。しかし、80年代に入ってから、親族間でグッチの運営を巡って血みどろの骨肉の争いがおきる。グッチのブランドとしての勢いも低迷。倒産すら噂されるほどに経営が悪化した。グッチは当時、グッチオの4人の息子、アルド、バスコ、ウーゴ、ロドルフォによって運営されていたが、アルドの息子パウロは、父親に反抗。パウロはとくにアメリカ市場において、グッチは高級品だけではなく、いわゆる平場にも置けるような低額商品にも進出するべきと考え、独断で「PGコレクション」、続いて「パウロ・グッチ」を展開(これらの商品は現在、グッチは正規商品とは認めておらずメンテナンスなどは受けられません)。これが一族の大反対を受け、パウロはファミリーから追放される。パウロは反撃に転じ、1982年、米国CBSテレビのドキュメント番組「60ミニッツ」で「取締役会において暴力による制裁を受けた」と発言し、父親を脱税の罪で告訴、アルドは逮捕された。当時、一族の中で後継者と目されていたのは一番仕事熱心だったロドルフォの息子、マウリッツィオだった。パウロは父親の影響力を排除するため、自らの持ち株をマウリッツィオに提供。逆にアルドら他のファミリーはマウリッツィオに反抗する形で株をアラブ系投資グループのインベストコープ社に売却した。マウリッツィオは3代目の後継者となり、沈みかけた船を任されることとなった。
この状況下でも、マウリッツィオは努力し、1989年グッチ復興を願って当時、バッグドーフ・グッドマンの女性社長だったドーン・メロウをクリエイティブ・ディレクター兼副社長として招く。彼女はジェフリー・ビーンのデザインチームにいたリチャード・ランバートソンを採用。ランバートソンの強い推薦により、1990年、彼女がレディスのデザイナーに採用したのが、チーフデザイナー、マーク・ジェイコブスが率いる「ペリー・エリス」で同社のブリッジライン、スポーツウェアをデザインしていたトム・フォードである(このとき、ペリー・エリスにはマークとトムが机を並べていたんですね!)。トム・フォードは、ほとんど一人でウェア、アクセサリー、ギフトなどグッチの11にも及ぶラインのデザインを手がけ、91年には中断していたウェアコレクションを復活させた。
トム・フォード(Tom Ford)は1962年、アメリカ、テキサス州に生まれ、演劇、コマーシャル業界を経て、パーソンズ・スクール・オブ・デザインでインテリア・アーキテクチャーを専攻。ペリー・エリスなどでキャリアを積み、90年にグッチのデザインスタッフに加わる。スタイリッシュなコーディネートとゴージャスな素材使いで、イメージを大幅に刷新。その鮮やかな手腕で世界中にグッチ・ブームを再燃させた。
しかし、沈みかけた船は、もはやどうしようもなく、マウリッツィオは1993年、インベストコープ社に株のすべてを譲渡。グッチは70年に及ぶファミリー企業としての体制に終止符を打つ。2代目アルドは既に90年に死去しており、マウリッツィオも93年に離婚した元妻パトリシオに95年射殺され、その生涯を閉じることとなる。ちなみにパウロの息子、ロベルトは一族の復興を願って「フィレンツェの家」というブランドを興し、同様にパウロの娘、エリザベッタは「DIDI」というブランドを興したが、グッチ売却時の契約により、自らのファミリーネームである「グッチ」という名前を使用することができず、一部は日本にも紹介されたが苦戦している。
インベストコーブ社は再建に着手し、グッチ・グループN.V.社が設立され、弁護士の資格を持ち84年からグッチ・アメリカ社の社長だったドメニコ・デ・ソーレ(Domenico de Sole)がCEOに就任。もはや、自分の役割は終わったと思ったドーン・メロウは古巣のバッグドーフ・グッドマンに戻ったが、このとき自分の後任のクリエイティブ・ディレクターにトム・フォードを推薦。ここに現在のデ・ソーレ=フォードの体制が完成する。トム・フォードはマウリッツィオから指示されていたエレガンスなクラシック路線ではなくファッションモードを打ち出し、94年10月のレディスコレクションでは、「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンをイメージしたフェミニンなスカートやキュートなモヘアセーターを発表。やがてトム・フォードのデザインは人気を集め、93年には2億ドルだった売り上げは99年には12億ドルまで拡大した。インベストコープ社は95、96年と2回に分けて株を公開、持ち株をすべて売却。グッチはイタリア・ファッション産業界の中では、初の株式を完全公開した企業となった。
ドメニコはグッチが他社の手に渡るのを防ぐため、自らの資産と社員持ち株会の協力を得て、株を買い集めた。だが、ここに目をつけたのがLVMHのベルナール・アルノーである。まず98年6月、プラダがグッチ株の9.5%を取得し筆頭株主となる。99年1月LVMHがグッチ株の5%を集めたと発表。さらにプラダと提携し、プラダが保有するグッチ株を譲り受けたと述べた。後にLVMHの持ち株比率は34.4%まで上昇する。グッチはフランスの流通大手ピノー・プランタン・ルドゥート(PPR)と資本提携することで対抗。この争いは裁判までもつれ込んだが2001年、LVMHが手を引くことで決着。
グッチは1999年、セルジオ・ロッシ、2000年宝飾メーカー、ブシュロンを買収。2000年10月イヴ・サンローラン、2001年7月にはアレキサンダー・マックイーンの株式の51%、バレンシアガブランドの株式資本の91%を所有し、傘下におさめる。2001年にはトム・フォードがイヴ・サンローランリヴ・ゴーシュのデザイナーにも就任。同年皮革メーカー、ボッテガ・ヴェネタを買収。2002年、グッチグループからステラ・マッカートニーがデビューした。トム・フォードは「リアルなクロージングをクリーンなスタイルで表現する」をコンセプトに、黒アイテムを武器にグッチの最盛期を創りあげる。
しかし、2003年11月、グッチとピノー・プランタン・ルドゥート(PPR)は、グッチ・グループの最高経営責任者(CEO)ドメニコ・デ・ソーレとクリエィティブ・ディレクターのトム・フォードが2004年4月30日付で退任すると発表。両者の間にはブランド・コントロール、とくにYSLに関して対立があったとされ、株主として自分たちでコントロールしたいPPRと「ブランドビジネスを理解できていない」彼らとフォード、ソーレは合意できなかった。フォードは「グッチ・グループでない自分の将来を想像することは非常に悲しい。13年間、この会社は私の命であり、この産業で最も強いチームを率いたと確信しているし、残り時間も最善を尽くす」とコメント。デ・ソーレはグッチでの仕事を「one of the great loves of my life」と呼び、今後について「なにも約束できない」と語った。
2004年1月14日のグッチ、ミラノメンズコレクション。1月26日のリヴ・ゴーシュのパリメンズコレクション。2月25日のグッチ、ミラノコレクション。3月7日のリヴ・ゴーシュのパリコレクションでトム・フォードによるデザインは終了。
PPRは、2004年3月11日、グッチの後継者に、レディスがトム・フォードの部下でレディスデザインチームのヘッドだったアレッサンドラ・ファッキネッティ(ミュウミュウ出身)、メンズがメンズ部門のナンバー2であるジョン・レイ(キャサリン・ハムネット出身)、アクセサリーがフリーダ・ジャンニーニ(フェンディ出身)の3人、リヴ・ゴーシュの後継者は同じくトムの右腕でプラダ出身のステファノ・ピラッティを選んだ。
2005年のクルーズコレクションでフリーダ・ジャンニーニは、1966年、ロドルフォ(創設者、グッチオ・グッチの息子)がイタリアの芸術家Vittorio Accorneroとともにグレース・ケリーのために季節の花と37色のカラーパターンを作成してデザインしたシルクのスカーフをイメージしたフローラコレクションをデザイン。ジャンニーニはグッチの象徴的なバッグ、ホーボ、ジャッキー、バンブーにこの「Flora」を施した。
2005年3月8日、グッチは、レディス・ウェアを担当していたAlessandra Facchinettiが、わずか2シーズンで「マネージメントの不一致により辞任した」と発表。後任はアクセサリー部門を担当しているフリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)。ジャンニーニはレディスに加えて、アクセサリーのデザインも続ける。現在、グッチの売上の80%はアクセサリー部門が上げており、一部では、フェンディがジャンニーニを引き抜こうとしたため、それを防ぐために、このような結果になったと噂されている。
2005秋冬からはフリーダ・ジャンニーニが手掛けた新コレクション「グッチッシマ(GUCCISSIMA)」を開始。最高級レザーにGGのロゴやホースビット・モチーフを熱でエンボス加工などした。
2006年2月、メンズ・デザイナーのジョン・レイ(John Ray)が「個人的な理由」で辞任し、フリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)がメンズラインも担当するとグッチが発表。ジャンニーニはアクセサリー、レディスに加えメンズラインも担当し、トム・フォード辞任後のデザイン・トリオはこれによって終了する。グッチの社長兼CEO、マーク・リーは、「レイの決定を尊重し、過去10年にわたるメンズラインにおける彼の貢献」に感謝を捧げた。メンズラインはグッチ販売のおよそ5パーセントを占める。
フリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)
1972年、ローマ生まれ。父は建築家、母親はアーティストという芸術家一家で育ち、名前は画家のフリーダ・カーロにあやかって名づけられた。ローマ・ファッション・アカデミーを卒業後、フェンディのレザーグッズを担当。2002年9月にグッチに移籍し、2004年3月グッチのアクセサリー部門、2005年3月、レディス部門のクリエイティブ・ディレクターに就任。
ジョン・レイ(John Ray)
スコットランド出身。スコットランドでグラフィックデザインを学んだ後、広告会社に就職。その後、86年にロンドンのセント・マーティンでファッションを、ロイヤル・アカデミーでメンズウェアデザインを学び、92年キャサリン・ハムネットに入社。96年グッチにメンズウェアコンサルタントして移籍し、デザインチームに加わる。98年シニアメンズウェアデザイナー、2001年メンズウェアバイスプレジデントに就任。2004年3月メンズウェア部門のクリエイティブ・ディレクターに就任。
日本ではサンモトヤマによって紹介され(サンモトモヤマの茂登山長市郎会長が直接、2代目バスコに掛け合ったとされる)、後にグッチ・ジャパン設立。社長は長年、伊勢丹出身の田代俊明が務めていたが、トム・フォード退任時に辞任。現社長は、同じく伊勢丹出身の田中伸一。
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歴史・解説
1925年、ローマでエドアルド&アデーレ・フェンディ夫妻がローマのプレヴィシート通りに小さな皮革製品の店と毛皮工房をオープン。1946年、ピアーヴェ通りに店をオープン。これを機に創始者の娘、フェンディ五姉妹が会社に従事し始める。その後、フェンディ家の五人姉妹パオラ、アンナ、フランカ、カルラ(現社長)、アルダの才知と手腕によって、店は発展。
1965年にカール・ラガーフェルドが毛皮のデザイナーに就任。ラガーフェルドは、かつて試されたことのなかった、織り込み、重ね込み、エナメル加工、ステッチ使いなどさまざまな技法を駆使。クラシックな毛皮のイメージを一新し、クリエイティブで機能的なものに変えた革新的なデザインが話題を呼ぶ。上質の皮革製品を生み出すイタリア伝統のクラフトマンシップと斬新なデザインが結び付き、新テクニック、新素材への挑戦が多くの人の支持を受ける。カール・ラガーフェルドの革新的なアイディアとたぐいまれな職人技の結びつきによって、ほかの毛皮専業メーカーの追随を許さない、ラグジュアリーで個性的なモードブランドへと成長を遂げる。
1969年、毛皮コートのプレタポルテを発表。革製品もプリントや脱色、染色加工など新しい試みを施され、同時にバッグや小物も発表した。このときに、1940年代からコートや羊のバッグの裏地として使われていた「ダブルF」の柄にカールが着目、これを表側に使うよう提案し、有名な「ズッカ柄」が誕生。以後、ブラウン地にブラック文字の「ダブルF」はブランドのアイコンとして現在まで人気を保っている。
1977年には毛皮や革製品にコート、ジャケットなど幅広いアイテムが加わり、本格的なプレタポルテをスタート。ラガーフェルドが発表した初のコレクションは、ニューヨークの有名百貨店「ヘンリ・ベンデル」がコレクションすべてを買い占めたという。
1980年、既存のダブルF柄に、幅広のストライプ柄ぺカンを新たに加える。1985年にはローマ現代美術館においてフェンディ60周年およびカール・ラガーフェルドとのコラボレーション20周年を記念した展覧会を開催。同年、フェンディ初の香水を発表。1987年、創始者の孫世代が本格的に参加。毛皮とスポーツウェアのライン、フェンディッシメを発表。1989年、ニューヨーク5番街720番地にアメリカ初のフラッグシップストアをオープン。同年、フェンディ・ウオモ(メンズ)フレグランスを発売。1990年、衣類と小物のトータルメンズコレクション、フェンディ・ウオモを発表。メンズはシルヴィア・べントゥリーニ・フェンディがデザインしている。
1997年、新作バッグ「バゲット」を発表。スタイルオフィス・ディレクター、シルヴィア・べントゥリーニ・フェンディにより、97-98秋冬コレクションにて発表され、一大ブームを巻き起こす。名前はフランスパンを小わきに抱えているかのように持ち歩くことから名づけられた。このバッグは、クロコダイルやファーなど約600種類のバリエーションが生まれ、現在に至るまで世界で約40万個が販売されたという。1999年、新作バッグ「ロールバッグ」を発表。同年、LVMHグループとプラダが資本参加し、合弁会社を設立。2000年、直営店のネットワークを強化、全世界で4店舗から83店舗まで拡大。2001年、プラダが保有する合弁会社の株のすべてをLVMHグループが買収。LVMHグループがフェンディ株式の51%を所有することとなる。2001年春夏、一回り小さなサイズのダブルF柄「ズッキーノ」が登場。
日本では、1972年から、アオイによって展開され、1974年ホテルニューオータニ・サンローゼ赤坂にブティックをオープン。しかし、LVMHグループ入りに伴い、2001年3月には、LVMHとアオイによる、フェンディ・ジャパンを設立。LVMHの力が強まるにつれ、赤坂店(同店の上にアオイの東京本社がある)はクローズされ、LVMH主体の店舗展開がなされるようになる。これを受けて、2002年11月23日、神戸市中央区の旧居留地商業ビル1、2階にルイ・ヴィトン、ベルルッティとともに店舗をオープン。国内二店目の直営大型店で、毛皮専用サロンを設け、博多リバレイン店でのみ扱ってきた紳士衣料も販売。2003年8月銀座・並木通り店クローズ。2003年9月20日、表参道のLVMH複合ビルにセリーヌ、ダナ・キャラン、ロエベとともにONE表参道店オープン。
フェンディといえば、やはり毛皮。日本でもかつて、赤坂店でシーズン前に行われていた毛皮の受注会はセレブの憧れでした。あの、エヴィータも愛用し、ルキノ・ヴィスコンティ監督をはじめとして多くの映画でも使用されています。また、バッグの「セレリア」は創業者アデーレとエドアルド・フェンディが乗馬を好んでいたことにインスピレーションを得て誕生。セレリア・ラインは、ローマの伝統的な馬具に使用される貴重な革「キュリオ・フィオレ」を使用し、特徴的な、持ち手やへり部分のステッチも含め、全工程が専門の職人の手作業で行われている。バッグの中にはシリアルナンバー入りのシルバープレートが施される。
2003年春夏コレクションで新たに発表されたのは、古代ローマの戦車にインスピレー ションを得た新作バッグ「ビガ」。SFムードただようシルバーメタリック色のバッグは、今まで見たことのない斬新なデザイン。ONE表参道オープンを記念した限定バッグは、A4サイズの太陽をかたどって手縫いされた四角いスパンコールに、手縫いステッチが人気の「セレリア」のハンドル。フェンディが特定のショップのために商品を作るのは初。ダブルF柄には「TOKYO」の隠し文字がちりばめられている。
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歴史・解説
1925年、ローマでエドアルド&アデーレ・フェンディ夫妻がローマのプレヴィシート通りに小さな皮革製品の店と毛皮工房をオープン。1946年、ピアーヴェ通りに店をオープン。これを機に創始者の娘、フェンディ五姉妹が会社に従事し始める。その後、フェンディ家の五人姉妹パオラ、アンナ、フランカ、カルラ(現社長)、アルダの才知と手腕によって、店は発展。
1965年にカール・ラガーフェルドが毛皮のデザイナーに就任。ラガーフェルドは、かつて試されたことのなかった、織り込み、重ね込み、エナメル加工、ステッチ使いなどさまざまな技法を駆使。クラシックな毛皮のイメージを一新し、クリエイティブで機能的なものに変えた革新的なデザインが話題を呼ぶ。上質の皮革製品を生み出すイタリア伝統のクラフトマンシップと斬新なデザインが結び付き、新テクニック、新素材への挑戦が多くの人の支持を受ける。カール・ラガーフェルドの革新的なアイディアとたぐいまれな職人技の結びつきによって、ほかの毛皮専業メーカーの追随を許さない、ラグジュアリーで個性的なモードブランドへと成長を遂げる。
1969年、毛皮コートのプレタポルテを発表。革製品もプリントや脱色、染色加工など新しい試みを施され、同時にバッグや小物も発表した。このときに、1940年代からコートや羊のバッグの裏地として使われていた「ダブルF」の柄にカールが着目、これを表側に使うよう提案し、有名な「ズッカ柄」が誕生。以後、ブラウン地にブラック文字の「ダブルF」はブランドのアイコンとして現在まで人気を保っている。
1977年には毛皮や革製品にコート、ジャケットなど幅広いアイテムが加わり、本格的なプレタポルテをスタート。ラガーフェルドが発表した初のコレクションは、ニューヨークの有名百貨店「ヘンリ・ベンデル」がコレクションすべてを買い占めたという。
1980年、既存のダブルF柄に、幅広のストライプ柄ぺカンを新たに加える。1985年にはローマ現代美術館においてフェンディ60周年およびカール・ラガーフェルドとのコラボレーション20周年を記念した展覧会を開催。同年、フェンディ初の香水を発表。1987年、創始者の孫世代が本格的に参加。毛皮とスポーツウェアのライン、フェンディッシメを発表。1989年、ニューヨーク5番街720番地にアメリカ初のフラッグシップストアをオープン。同年、フェンディ・ウオモ(メンズ)フレグランスを発売。1990年、衣類と小物のトータルメンズコレクション、フェンディ・ウオモを発表。メンズはシルヴィア・べントゥリーニ・フェンディがデザインしている。
1997年、新作バッグ「バゲット」を発表。スタイルオフィス・ディレクター、シルヴィア・べントゥリーニ・フェンディにより、97-98秋冬コレクションにて発表され、一大ブームを巻き起こす。名前はフランスパンを小わきに抱えているかのように持ち歩くことから名づけられた。このバッグは、クロコダイルやファーなど約600種類のバリエーションが生まれ、現在に至るまで世界で約40万個が販売されたという。1999年、新作バッグ「ロールバッグ」を発表。同年、LVMHグループとプラダが資本参加し、合弁会社を設立。2000年、直営店のネットワークを強化、全世界で4店舗から83店舗まで拡大。2001年、プラダが保有する合弁会社の株のすべてをLVMHグループが買収。LVMHグループがフェンディ株式の51%を所有することとなる。2001年春夏、一回り小さなサイズのダブルF柄「ズッキーノ」が登場。
日本では、1972年から、アオイによって展開され、1974年ホテルニューオータニ・サンローゼ赤坂にブティックをオープン。しかし、LVMHグループ入りに伴い、2001年3月には、LVMHとアオイによる、フェンディ・ジャパンを設立。LVMHの力が強まるにつれ、赤坂店(同店の上にアオイの東京本社がある)はクローズされ、LVMH主体の店舗展開がなされるようになる。これを受けて、2002年11月23日、神戸市中央区の旧居留地商業ビル1、2階にルイ・ヴィトン、ベルルッティとともに店舗をオープン。国内二店目の直営大型店で、毛皮専用サロンを設け、博多リバレイン店でのみ扱ってきた紳士衣料も販売。2003年8月銀座・並木通り店クローズ。2003年9月20日、表参道のLVMH複合ビルにセリーヌ、ダナ・キャラン、ロエベとともにONE表参道店オープン。
フェンディといえば、やはり毛皮。日本でもかつて、赤坂店でシーズン前に行われていた毛皮の受注会はセレブの憧れでした。あの、エヴィータも愛用し、ルキノ・ヴィスコンティ監督をはじめとして多くの映画でも使用されています。また、バッグの「セレリア」は創業者アデーレとエドアルド・フェンディが乗馬を好んでいたことにインスピレーションを得て誕生。セレリア・ラインは、ローマの伝統的な馬具に使用される貴重な革「キュリオ・フィオレ」を使用し、特徴的な、持ち手やへり部分のステッチも含め、全工程が専門の職人の手作業で行われている。バッグの中にはシリアルナンバー入りのシルバープレートが施される。
2003年春夏コレクションで新たに発表されたのは、古代ローマの戦車にインスピレー ションを得た新作バッグ「ビガ」。SFムードただようシルバーメタリック色のバッグは、今まで見たことのない斬新なデザイン。ONE表参道オープンを記念した限定バッグは、A4サイズの太陽をかたどって手縫いされた四角いスパンコールに、手縫いステッチが人気の「セレリア」のハンドル。フェンディが特定のショップのために商品を作るのは初。ダブルF柄には「TOKYO」の隠し文字がちりばめられている。
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Ermenegildo Zegna エルメネジルド・ゼニア Italy.
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解説・歴史
ゼニアはもともと、北イタリアで1910年テキスタイルメーカーとして創業。初代エルメネジルド・ゼニアの父、アンジェロ・ゼニアは1859年に、農家に生まれ(1923年没)、時計職人となり、やがて毛織物を手がけ、フレッチナ地区で織物製造会社を設立した。45歳のとき、火事で工場を焼失。トリヴェロに移って工場を再建、技術的な研究に取り組んだ。
この父親から20歳で家業を受け継ぎ、近代的な企業に育て上げたのが、グループの創業者エルメネジルド・ゼニア(1892-1966)。職業繊維学校に学んだエルメネジルドは、1930年、最新の英国製紡績機による高品質毛織物の生産を始め、自分のトレードマークで国内および国際マーケットに進出。顧客のみならず第一線のファッションデザイナーに供給できる流通機構を作り上げた。
1968年、エルメネジルドの二人の息子、アルド(現会長)とアンジェロ(現社長)が事業を継承。紳士服地で確固たる地位を築いたあと、ゼニアは服地だけでなくメンズプレタの分野にも進出。「最高の素材は優れたデザインを、最高のデザインは優れた素材を求める」というデザインポリシーのもとに、スーツ、ジャケットからスポーツウエアまでの各種製品は国際的評価を得て、トータルメンズブラントとしてのゼニアの名を不動のものにした。業界で初めて、服地の耳にブランドネームを織り込んで品質を保証したことでも知られる。素材の開発から縫製まで一貫して自社のファクトリーで手がけ、原毛の買い付けから、紡績、染色加工、製品化までトリヴェロの工場では一貫した自社生産が行われている。
1980年代に入るとゼニア家の第三世代が経営に参画。アルドの息子パオロが服地部門、アンジェロの息子のエルメネジルド(通称ジルド)が既製服部門のそれぞれ総責任者に就任。ジルドの妹アンナがグループ全体のイメージと全世界のコミュニケーションを総括、さらにアンジェロの末娘ベネデッタが販売スタッフのトレーニングと直営店、フランチャイズ店のプロモーションを、パオロの姉、ローラが環境保全部門を担当する。「より伝統的に、より革新的に」をモットーに発展を続けてきたエルメネジルド・ゼニアグループは現在従業員3,800人。初代がブランドの確立、二代目が小売りへの進出、三代目が小売店の世界展開と、常に先見性を打ち出してきたオーナー型企業である。2002年の売上は6億6000万ユーロ。
日本では1977年、ゼニア・ジャパンが設立され、「エルメネジルド・ゼニア」ブランドのメンズウェアと「アニオナ」ブランドのレディスウェア、服地の輸入卸、販売を手がけていたが、アニオナは2005年秋冬から三喜商事に移管された。
1996年秋、銀座に直営の旗艦店オープン。1998年春夏からは、ライセンス商品として三陽商会との共同開発によるイタリアンスタイルのカジュアルドレスアップウェアとして、E.Z BY ZEGNA(イーズィー・バイ・ゼニア)ブランドをスタート。25歳をコアにファッション感度の高いヤング層がターゲット。2001年9月にはE.Z BY ZEGNA初の旗艦店(東京都渋谷区渋谷1-22-10)が渋谷にオープン。
2002年9月、フェラガモと共同でフィレンツェに新会社「ZeFer(ゼフェル)」を設立し、シューズのコレクションもスタート。シューズは2003秋冬から「エルメネジルド・ゼニア」のブランドで発表され、日本では9月から発売開始。服に合わせて靴でも「ナポリクチュール」、「サルトリアーレ」、「ソフト」、「ゼニア・スポーツ」の4ラインが提案されている。
また、現在は映画 「戦場のピアニスト」でアカデミー賞主演男優賞を受賞したエイドリアン・ブロディが、モデルを務めている。アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の授賞式にも、同ブランドのタキシードを着て出席した。
ゼニアのラインには、最高級なファブリックをテーラーメード感覚に仕立てた「サルトリア・コレクション」とドレスアップカジュアルがコンセプトの「ソフトコレクション」などがある。サルトリアーレコレクションは、伝統的なテーラード仕上げでフォーマルな品格を表現。美しい色合いをかもし出す格調高い素材が特徴。ソフトコレクションは、ビジネスの場でもより快適で自由な着こなしを提案。また、スポーツコレクションはアクティブなカジュアルウエアからシティカジュアルまで大人のカジュアルを提案。特にゼニアが独自に開発した防水性を持つミクロテネブルゾン、通気性と保温性という相反する特徴をあわせ持つ素材、ツインテックのスウエットウエアが好評。ゼニアの特徴の一つがオーダーメードである「ス・ミズーラ」(イタリア語で「あなたのサイズに合わせて」という意味)と呼ばれるシステム。「ス・ミズーラ」はパターンオーダーだが、生地選びから仕上がりまでのプロセスに、ゼニアのポリシーにのっとった独自のノウハウが生かされている。まず約450種(定番250種とシーズン200種)のファブリック(生地)と、100種類以上のモデルから自分の好みを選ぶことが出来る。基本的な採寸の後、サイズに近いマスターガーメントを着用して補正を加え、作成されたデータは、イタリア(またはスイス)のス・ミズーラ専用工場に送られ、仕立てられる。受注から納品まで約3-4週間。オーダー可能なアイテムはスーツのほか、ジャケット、コート、ベスト、トラウザーズ、フォーマルウエア、ドレスシャツなど。
Emilio Pucci エミリオ・プッチ Italy
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歴史・解説
フィレンツェの公爵家に生まれたエミリオ・プッチによって1940年代に創業。デザイナーのエミリオ・プッチはイタリア・ナポリ生まれ(1914-1992)。ミラノ大学へ通った後アメリカ・ジョージア州アセンズの大学で学ぶ。1937年、オレゴン州ポートランドのリード・カレッジに在籍、社会学を専攻。イタリア空軍のパイロットも務め、後には政治家としてイタリア議会に在籍したこともあるという。1939年、イタリア帰国後フィレンツェの大学に入学。1941年、政治学で博士号を取得。1945年、第2次世界大戦後、高校時代オリンピックのスキーチームの選手だったプッチは、自分でデザインしたスキーパンツが雑誌「ハーパース・バザー」に掲載され、人気を博す。
以後、同誌から女性用の冬服を依頼され、高級デパート、ロード&テイラーと契約。高級スキーウェアのデザインを請け負ったプッチは、翌年故国のカプリ島での休暇中、彼のガールフレンドのためにリゾートウェアをデザイン。アメリカで教育を受けたプッチの合理性と、カラフルな陽光溢れるイタリアの小島のムードを合わせ、プッチ独自の「太陽と紺碧の地中海に過ごすごくわずかな人のための」デザインが誕生。ヴォーグ誌は、「カプリのエミリオ」「イタリアから全ての南の島へ」というコピーで彼のデザインを紹介した。
スポーツウェアから始まり、50年代にカジュアルエレガンスの代表である先の細いパンツ、カプリルックを発表。ショーツ、リゾートドレス、鮮明なプリント柄など大胆な図柄と色、独特の幾何学模様のテキスタイルが世界中のセレブの人気を集め「プリントの王子」の異名を持つ。スポーツウエアのデザイナーや異業種とのコラボなどで評判を高める。
ちなみに「プッチ柄」とは、大胆でポップな多色使い、植物などをモチーフとした流れるような柄、あるいは直線的な幾何学的プリント柄のこと。
1960年代にはマリリン・モンロー、エリザベス・テーラー、ジャクリーヌ・ケネディらによって米国でブレイクした。1964年アメリカの「ブラニフ航空」の制服をデザイン。
1971年アポロ15号のマークをデザイン。1988年ニューヨークにブティックをオープン。
エミリオはイタリアの家族的経営に誇りを持ち、自身が富豪でもあるため、商業ベースで事業を拡大する方針はとらず、限られたバイヤーが、彼の居住するフィレンツェのプッチ城を訪れ、城のホールでファッションショーを見て、買い付けを行うという方式をとっていた。当時、日本でこれができたのが、ビームス。日本でプッチの小物や下着を正規に扱うことができるのはビームスだけだった。
プッチは、1992年に亡くなり、1997年にはミラノの会社に経営権を譲渡。60‐70年代のリバイバルブームによって再評価され、娘、ラウドミア(Laudomia pucci)により復活。
2000年、LVMHグループに参加。2001秋冬より、ジュリオ・エスパーダがアーティスティック・ディレクターに就任。ラウドミア・プッチはイメージ・ディレクターとなる。
2001年のミラノ・サローネでプッチはカッペリーニ社、パトリック・ノルゲとコラボレーション。ソファや椅子に「プッチ柄」が蘇り、デザイン界の話題をさらった。2003春夏からデザイナーがクリスチャン・ラクロア(Christian Lacroix)に変更。クリスチャン・ラクロアは、1951年フランス、アルル生まれ、ソルボンヌ大学で美術史を専攻後、エルメス入社。アクセサリーデザイナーを経て、ギ・ポーランの助手としてビブロス入社。81年ジャン・パトゥのデザイナーに抜擢。87年LVMH(当時は、アガシュ・ウィロー・グループ)のバックアップにより自らのメゾンをフォーブル・サントーレに構え、88年二回目のデ・ドール賞(金の指貫)受賞。同年イタリアのジェニーからプレタポルテにも進出。オートクチュールの寵児として一世を風靡したが、94年香水「セラヴィ」の失敗以後、輝きを失いつつある。が、2003年春夏からエミリオ・プッチのアーティスティック・ディレクターに就任。2002年フランス最高の勲章レジオン・ド・ヌールを受賞。
2004秋冬からはブランド創設の基となったスキーウェアコレクションを、ロシニョールとの提携により再開。
2005年10月、エミリオ・プッチはクリスチャン・ラクロワの後任としてマシュー・ウィリアムソンを次期デザイナーに指名。「ウィリアムソンは、プッチのスピリッツに最適な、カラーでグラマーなブランドを作成しました」と発表した。マシュー・ウィリアムソンは、ベルナール・アルノーが個人的に(鶴の一声で)選んだとされ、エミリオ・プッチの娘ラウドミア(Laudomia)は、ラクロアの辞任を確認した後で「プッチは持続的な物語です。私たちはまた、彼に会うでしょう。それは『さよなら(goodbye)』ではなく、『またね(arrivederci)』です」と述べた。ラクロアは自分のブランドがLVMHを去ったのにプッチだけ残るのは、ラクロアの新オーナーであるFalic兄弟に対して「アンフェア」になると語った。
日本ではセレクトショップで展開されていたが2004年2月、伊勢丹新宿に初の直営1号店がオープンした。今後は、路面店も含め2006年までに直営店を10店舗程まで増やしていく方針。2004年11月26日、銀座晴海通りに日本初の路面店をオープン。
ESCADA エスカーダ German
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歴史・解説
エスカーダは、1976年にウォルフガング・ライとその妻、マルガレッタ・ライにより創立され、小さなニットウェア製造業者として始まった。1979年にブランド創設。1982年アメリカに進出。1985年大阪にブティックオープンした。90年初の香水発表。
しかし、順調に発展してきたエスカーダに悲劇が訪れる。92年創業者でありヘッドデザイナーだったマルガレッタが52歳の若さで死去。94年には86年からエスカーダに参加していたブライアン・レニーがデザインディレクターに就任。創業の地munichにフラッグシップショップオープン。98年アイウェア開始、この年のアカデミー賞授賞式で助演女優賞を受賞したキム・ベイシンガーがエスカーダを着用。2000年バッグ、シューズなどのアクセサリー開始、新香水センティメント発売。2001年ランジェリースタート、NY5番街にブティックオープン。2003年六本木ヒルズに旗艦店オープン。
今では香水メーカーとしてのほうが有名だが、エスカーダはすべての女性のあらゆるニーズを追求してきた。細部にいたるまでの完璧なこだわりを持ち、常に最高の品質基準を満たす幅広いアイテムを、明確なコンセプトのもとに打ち出してきた。とくに香水におけるオリジナリティ溢れる調香と、色とりどりのボトルやパッケージはファッション以上に日本の女性も魅了。そのきっかけとなったのが「センティメント」であり、当時の人気の調香をきっちり取り入れて作られた。ハート型の斬新なボトル、ホログラミックなパッケージ、スイートなピンクカラー。これらが、力の入ったプロモーションによりエスカーダは幸か不幸か「香水ブランド」として認識された。その後の、トロピカルパンチ、セクシーグラフィティも人気を集めた。
日本では1981年、丸紅、サン・フレールの共同出資によりエスカーダ・ジャパンを設立。1985年、ESCADA AGが経営参加し、1994年、ESCADA AGが50%、丸紅50%による新会社を設立。2000年、エスカーダ・ジャパンはESCADA AGが100%出資する子会社となる。
ETRO エトロ Italy
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歴史・解説
エトロの創始者ジンモ・エトロは1940年ミラノに生まれ、建築家を志していたが、義父の家業を継ぐために断念し、オリジナリティー溢れる優れたテキスタイルを次々と生み出した。1968年、ジンモがエトロ社を設立。若い頃、祖母が持っていたインドのカシミール紋様のショールに魅せられた彼は、自らの手で蘇らせようと決意。19世紀後半には完全に姿を消していたカシミール紋様を独自の技法とセンスで現代に蘇らせる。別名ペイズリー柄とも呼ばれるエトロの代表的モチーフがここに誕生した。 そこで、テキスタイルメーカーとして評価を得る中で、ジンモは自らが創り出したカシミール紋様の織物やプリント生地を使った壁や家具の布貼り、カーテンなどを発表。ここで、製品に「ETRO」というブランド名をつけ、2000種以上にも及ぶカシミール紋様をあしらったホームコレクション(ベッドカバー、テーブルクロス、毛布、ガウンなど)を発表する。
1996年10月、ミラノレディスコレクションでショーを開催。続いて、1997年1月ミラノメンズコレクションに参加。現在はジンモ・エトロ社長のもと、ヤコボ、キーン、イッポリト、ヴェロニカの4人の子供たちが経営している。キーンは64年生まれ、ケンブリッジ大学とミラノ大学で中・近世史を学んだ後、84年エトロ入社。シーズンカタログのアートディレクターを経て、97年からコレクションのクリエイティブディレクターに就任し、プレタポルテとフレグランスを立ち上げる。99年10月からはセント・マーティンズに学んだヴェロニカがレディースのチーフデザイナーに(メンズはそのままキーンが担当)。2000春夏コレクションで、ヴェロニカ・エトロがレディスのデザイナーとしてデビュー。キーンと2人の共同創作として発表された。また、2002-03秋冬コレクションより長男のヤコポ・エトロがアクセサリーコレクション(バッグ、レザーグッズ、スカーフ、ショール)のチーフデザイナーに。ホームコレクションのチーフデザイナーと、テキスタイル部門の責任者も兼任するようになる。
デザイナー、ヴェロニカ・エトロ(Veronica Etro)
1974年、ミラノ生まれ。創業者ジンモの末っ子。イギリスのセントマーチンズ美術大学を卒業後、2000年春夏シーズンからレディスのチーフデザイナーに就任。
国内では、サン・モトモヤ系列のエトロ・ファーイーストが展開している。
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解説・歴史
ゼニアはもともと、北イタリアで1910年テキスタイルメーカーとして創業。初代エルメネジルド・ゼニアの父、アンジェロ・ゼニアは1859年に、農家に生まれ(1923年没)、時計職人となり、やがて毛織物を手がけ、フレッチナ地区で織物製造会社を設立した。45歳のとき、火事で工場を焼失。トリヴェロに移って工場を再建、技術的な研究に取り組んだ。
この父親から20歳で家業を受け継ぎ、近代的な企業に育て上げたのが、グループの創業者エルメネジルド・ゼニア(1892-1966)。職業繊維学校に学んだエルメネジルドは、1930年、最新の英国製紡績機による高品質毛織物の生産を始め、自分のトレードマークで国内および国際マーケットに進出。顧客のみならず第一線のファッションデザイナーに供給できる流通機構を作り上げた。
1968年、エルメネジルドの二人の息子、アルド(現会長)とアンジェロ(現社長)が事業を継承。紳士服地で確固たる地位を築いたあと、ゼニアは服地だけでなくメンズプレタの分野にも進出。「最高の素材は優れたデザインを、最高のデザインは優れた素材を求める」というデザインポリシーのもとに、スーツ、ジャケットからスポーツウエアまでの各種製品は国際的評価を得て、トータルメンズブラントとしてのゼニアの名を不動のものにした。業界で初めて、服地の耳にブランドネームを織り込んで品質を保証したことでも知られる。素材の開発から縫製まで一貫して自社のファクトリーで手がけ、原毛の買い付けから、紡績、染色加工、製品化までトリヴェロの工場では一貫した自社生産が行われている。
1980年代に入るとゼニア家の第三世代が経営に参画。アルドの息子パオロが服地部門、アンジェロの息子のエルメネジルド(通称ジルド)が既製服部門のそれぞれ総責任者に就任。ジルドの妹アンナがグループ全体のイメージと全世界のコミュニケーションを総括、さらにアンジェロの末娘ベネデッタが販売スタッフのトレーニングと直営店、フランチャイズ店のプロモーションを、パオロの姉、ローラが環境保全部門を担当する。「より伝統的に、より革新的に」をモットーに発展を続けてきたエルメネジルド・ゼニアグループは現在従業員3,800人。初代がブランドの確立、二代目が小売りへの進出、三代目が小売店の世界展開と、常に先見性を打ち出してきたオーナー型企業である。2002年の売上は6億6000万ユーロ。
日本では1977年、ゼニア・ジャパンが設立され、「エルメネジルド・ゼニア」ブランドのメンズウェアと「アニオナ」ブランドのレディスウェア、服地の輸入卸、販売を手がけていたが、アニオナは2005年秋冬から三喜商事に移管された。
1996年秋、銀座に直営の旗艦店オープン。1998年春夏からは、ライセンス商品として三陽商会との共同開発によるイタリアンスタイルのカジュアルドレスアップウェアとして、E.Z BY ZEGNA(イーズィー・バイ・ゼニア)ブランドをスタート。25歳をコアにファッション感度の高いヤング層がターゲット。2001年9月にはE.Z BY ZEGNA初の旗艦店(東京都渋谷区渋谷1-22-10)が渋谷にオープン。
2002年9月、フェラガモと共同でフィレンツェに新会社「ZeFer(ゼフェル)」を設立し、シューズのコレクションもスタート。シューズは2003秋冬から「エルメネジルド・ゼニア」のブランドで発表され、日本では9月から発売開始。服に合わせて靴でも「ナポリクチュール」、「サルトリアーレ」、「ソフト」、「ゼニア・スポーツ」の4ラインが提案されている。
また、現在は映画 「戦場のピアニスト」でアカデミー賞主演男優賞を受賞したエイドリアン・ブロディが、モデルを務めている。アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の授賞式にも、同ブランドのタキシードを着て出席した。
ゼニアのラインには、最高級なファブリックをテーラーメード感覚に仕立てた「サルトリア・コレクション」とドレスアップカジュアルがコンセプトの「ソフトコレクション」などがある。サルトリアーレコレクションは、伝統的なテーラード仕上げでフォーマルな品格を表現。美しい色合いをかもし出す格調高い素材が特徴。ソフトコレクションは、ビジネスの場でもより快適で自由な着こなしを提案。また、スポーツコレクションはアクティブなカジュアルウエアからシティカジュアルまで大人のカジュアルを提案。特にゼニアが独自に開発した防水性を持つミクロテネブルゾン、通気性と保温性という相反する特徴をあわせ持つ素材、ツインテックのスウエットウエアが好評。ゼニアの特徴の一つがオーダーメードである「ス・ミズーラ」(イタリア語で「あなたのサイズに合わせて」という意味)と呼ばれるシステム。「ス・ミズーラ」はパターンオーダーだが、生地選びから仕上がりまでのプロセスに、ゼニアのポリシーにのっとった独自のノウハウが生かされている。まず約450種(定番250種とシーズン200種)のファブリック(生地)と、100種類以上のモデルから自分の好みを選ぶことが出来る。基本的な採寸の後、サイズに近いマスターガーメントを着用して補正を加え、作成されたデータは、イタリア(またはスイス)のス・ミズーラ専用工場に送られ、仕立てられる。受注から納品まで約3-4週間。オーダー可能なアイテムはスーツのほか、ジャケット、コート、ベスト、トラウザーズ、フォーマルウエア、ドレスシャツなど。
Emilio Pucci エミリオ・プッチ Italy
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歴史・解説
フィレンツェの公爵家に生まれたエミリオ・プッチによって1940年代に創業。デザイナーのエミリオ・プッチはイタリア・ナポリ生まれ(1914-1992)。ミラノ大学へ通った後アメリカ・ジョージア州アセンズの大学で学ぶ。1937年、オレゴン州ポートランドのリード・カレッジに在籍、社会学を専攻。イタリア空軍のパイロットも務め、後には政治家としてイタリア議会に在籍したこともあるという。1939年、イタリア帰国後フィレンツェの大学に入学。1941年、政治学で博士号を取得。1945年、第2次世界大戦後、高校時代オリンピックのスキーチームの選手だったプッチは、自分でデザインしたスキーパンツが雑誌「ハーパース・バザー」に掲載され、人気を博す。
以後、同誌から女性用の冬服を依頼され、高級デパート、ロード&テイラーと契約。高級スキーウェアのデザインを請け負ったプッチは、翌年故国のカプリ島での休暇中、彼のガールフレンドのためにリゾートウェアをデザイン。アメリカで教育を受けたプッチの合理性と、カラフルな陽光溢れるイタリアの小島のムードを合わせ、プッチ独自の「太陽と紺碧の地中海に過ごすごくわずかな人のための」デザインが誕生。ヴォーグ誌は、「カプリのエミリオ」「イタリアから全ての南の島へ」というコピーで彼のデザインを紹介した。
スポーツウェアから始まり、50年代にカジュアルエレガンスの代表である先の細いパンツ、カプリルックを発表。ショーツ、リゾートドレス、鮮明なプリント柄など大胆な図柄と色、独特の幾何学模様のテキスタイルが世界中のセレブの人気を集め「プリントの王子」の異名を持つ。スポーツウエアのデザイナーや異業種とのコラボなどで評判を高める。
ちなみに「プッチ柄」とは、大胆でポップな多色使い、植物などをモチーフとした流れるような柄、あるいは直線的な幾何学的プリント柄のこと。
1960年代にはマリリン・モンロー、エリザベス・テーラー、ジャクリーヌ・ケネディらによって米国でブレイクした。1964年アメリカの「ブラニフ航空」の制服をデザイン。
1971年アポロ15号のマークをデザイン。1988年ニューヨークにブティックをオープン。
エミリオはイタリアの家族的経営に誇りを持ち、自身が富豪でもあるため、商業ベースで事業を拡大する方針はとらず、限られたバイヤーが、彼の居住するフィレンツェのプッチ城を訪れ、城のホールでファッションショーを見て、買い付けを行うという方式をとっていた。当時、日本でこれができたのが、ビームス。日本でプッチの小物や下着を正規に扱うことができるのはビームスだけだった。
プッチは、1992年に亡くなり、1997年にはミラノの会社に経営権を譲渡。60‐70年代のリバイバルブームによって再評価され、娘、ラウドミア(Laudomia pucci)により復活。
2000年、LVMHグループに参加。2001秋冬より、ジュリオ・エスパーダがアーティスティック・ディレクターに就任。ラウドミア・プッチはイメージ・ディレクターとなる。
2001年のミラノ・サローネでプッチはカッペリーニ社、パトリック・ノルゲとコラボレーション。ソファや椅子に「プッチ柄」が蘇り、デザイン界の話題をさらった。2003春夏からデザイナーがクリスチャン・ラクロア(Christian Lacroix)に変更。クリスチャン・ラクロアは、1951年フランス、アルル生まれ、ソルボンヌ大学で美術史を専攻後、エルメス入社。アクセサリーデザイナーを経て、ギ・ポーランの助手としてビブロス入社。81年ジャン・パトゥのデザイナーに抜擢。87年LVMH(当時は、アガシュ・ウィロー・グループ)のバックアップにより自らのメゾンをフォーブル・サントーレに構え、88年二回目のデ・ドール賞(金の指貫)受賞。同年イタリアのジェニーからプレタポルテにも進出。オートクチュールの寵児として一世を風靡したが、94年香水「セラヴィ」の失敗以後、輝きを失いつつある。が、2003年春夏からエミリオ・プッチのアーティスティック・ディレクターに就任。2002年フランス最高の勲章レジオン・ド・ヌールを受賞。
2004秋冬からはブランド創設の基となったスキーウェアコレクションを、ロシニョールとの提携により再開。
2005年10月、エミリオ・プッチはクリスチャン・ラクロワの後任としてマシュー・ウィリアムソンを次期デザイナーに指名。「ウィリアムソンは、プッチのスピリッツに最適な、カラーでグラマーなブランドを作成しました」と発表した。マシュー・ウィリアムソンは、ベルナール・アルノーが個人的に(鶴の一声で)選んだとされ、エミリオ・プッチの娘ラウドミア(Laudomia)は、ラクロアの辞任を確認した後で「プッチは持続的な物語です。私たちはまた、彼に会うでしょう。それは『さよなら(goodbye)』ではなく、『またね(arrivederci)』です」と述べた。ラクロアは自分のブランドがLVMHを去ったのにプッチだけ残るのは、ラクロアの新オーナーであるFalic兄弟に対して「アンフェア」になると語った。
日本ではセレクトショップで展開されていたが2004年2月、伊勢丹新宿に初の直営1号店がオープンした。今後は、路面店も含め2006年までに直営店を10店舗程まで増やしていく方針。2004年11月26日、銀座晴海通りに日本初の路面店をオープン。
ESCADA エスカーダ German
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歴史・解説
エスカーダは、1976年にウォルフガング・ライとその妻、マルガレッタ・ライにより創立され、小さなニットウェア製造業者として始まった。1979年にブランド創設。1982年アメリカに進出。1985年大阪にブティックオープンした。90年初の香水発表。
しかし、順調に発展してきたエスカーダに悲劇が訪れる。92年創業者でありヘッドデザイナーだったマルガレッタが52歳の若さで死去。94年には86年からエスカーダに参加していたブライアン・レニーがデザインディレクターに就任。創業の地munichにフラッグシップショップオープン。98年アイウェア開始、この年のアカデミー賞授賞式で助演女優賞を受賞したキム・ベイシンガーがエスカーダを着用。2000年バッグ、シューズなどのアクセサリー開始、新香水センティメント発売。2001年ランジェリースタート、NY5番街にブティックオープン。2003年六本木ヒルズに旗艦店オープン。
今では香水メーカーとしてのほうが有名だが、エスカーダはすべての女性のあらゆるニーズを追求してきた。細部にいたるまでの完璧なこだわりを持ち、常に最高の品質基準を満たす幅広いアイテムを、明確なコンセプトのもとに打ち出してきた。とくに香水におけるオリジナリティ溢れる調香と、色とりどりのボトルやパッケージはファッション以上に日本の女性も魅了。そのきっかけとなったのが「センティメント」であり、当時の人気の調香をきっちり取り入れて作られた。ハート型の斬新なボトル、ホログラミックなパッケージ、スイートなピンクカラー。これらが、力の入ったプロモーションによりエスカーダは幸か不幸か「香水ブランド」として認識された。その後の、トロピカルパンチ、セクシーグラフィティも人気を集めた。
日本では1981年、丸紅、サン・フレールの共同出資によりエスカーダ・ジャパンを設立。1985年、ESCADA AGが経営参加し、1994年、ESCADA AGが50%、丸紅50%による新会社を設立。2000年、エスカーダ・ジャパンはESCADA AGが100%出資する子会社となる。
ETRO エトロ Italy
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歴史・解説
エトロの創始者ジンモ・エトロは1940年ミラノに生まれ、建築家を志していたが、義父の家業を継ぐために断念し、オリジナリティー溢れる優れたテキスタイルを次々と生み出した。1968年、ジンモがエトロ社を設立。若い頃、祖母が持っていたインドのカシミール紋様のショールに魅せられた彼は、自らの手で蘇らせようと決意。19世紀後半には完全に姿を消していたカシミール紋様を独自の技法とセンスで現代に蘇らせる。別名ペイズリー柄とも呼ばれるエトロの代表的モチーフがここに誕生した。 そこで、テキスタイルメーカーとして評価を得る中で、ジンモは自らが創り出したカシミール紋様の織物やプリント生地を使った壁や家具の布貼り、カーテンなどを発表。ここで、製品に「ETRO」というブランド名をつけ、2000種以上にも及ぶカシミール紋様をあしらったホームコレクション(ベッドカバー、テーブルクロス、毛布、ガウンなど)を発表する。
1996年10月、ミラノレディスコレクションでショーを開催。続いて、1997年1月ミラノメンズコレクションに参加。現在はジンモ・エトロ社長のもと、ヤコボ、キーン、イッポリト、ヴェロニカの4人の子供たちが経営している。キーンは64年生まれ、ケンブリッジ大学とミラノ大学で中・近世史を学んだ後、84年エトロ入社。シーズンカタログのアートディレクターを経て、97年からコレクションのクリエイティブディレクターに就任し、プレタポルテとフレグランスを立ち上げる。99年10月からはセント・マーティンズに学んだヴェロニカがレディースのチーフデザイナーに(メンズはそのままキーンが担当)。2000春夏コレクションで、ヴェロニカ・エトロがレディスのデザイナーとしてデビュー。キーンと2人の共同創作として発表された。また、2002-03秋冬コレクションより長男のヤコポ・エトロがアクセサリーコレクション(バッグ、レザーグッズ、スカーフ、ショール)のチーフデザイナーに。ホームコレクションのチーフデザイナーと、テキスタイル部門の責任者も兼任するようになる。
デザイナー、ヴェロニカ・エトロ(Veronica Etro)
1974年、ミラノ生まれ。創業者ジンモの末っ子。イギリスのセントマーチンズ美術大学を卒業後、2000年春夏シーズンからレディスのチーフデザイナーに就任。
国内では、サン・モトモヤ系列のエトロ・ファーイーストが展開している。
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Donna Karan ダナ・キャラン U.S.A
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歴史・解説
ダナ・キャラン、本名ダナ・アイヴィ・ファスケ(キャランは前夫の苗字)は1948年アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。仕立屋の父とモデルやブティックの店員をしていた母に育てられ、自然とファッションセンスを身につける。パーソンズ・デザイン学校卒業後、アン・クライン社に入社。74年にアンが他界すると同時にルイス・デルオリオとともにブランドの後継者に抜擢され、スポーティで着やすい服が高い評価を得る。このコンビはコティ賞を3度受賞。ブリッジゾーンのさきがけとなる「アンクラインU」もこの二人がスタートさせた。84年当時、アンクライン社を買収していたタキヒヨーの滝富夫氏のバックアップを得て、自らのブランドを設立。1984年には、「ダナ・キャラン」でニューヨークコレクションに参加。1985年にはニューヨークにダナ・キャラン・ニューヨーク社を設立。同年、デザイナー・オブ・ジ・イヤー受賞。
シンプルで洗練された服がキャリア・ウーマンの間で評判を呼ぶ。経済的に余裕のある新世代(ベビーブーム世代)女性のニーズを巧みに取り入れることに成功する。彼女自身がキャリア・ウーマンであり、彼女がターゲットにした顧客たちと同世代で、洗練されたイメージがあった。「クローゼットを開けて、そこに足りないものを次のシーズンにデザインする」スタイルは多くの女性に支持された。
1989年、DKNYをスタート。NYPD(ニューヨーク市警本部)のように響きがいいこのロゴは初年度に1億ドルを売り上げ、大成功を収める。91年御主人に着せることを想定してメンズ、92年「DKNY MENS」、96年「ダナキャラン シグネチャー」を発表。1997年には子供のために「DKNY KIDS」「DKNY JEANS」をスタートさせた。自らのライフスタイルを実践するごとく、ラインを増やしていった。
しかし、1992年初の香水、「ダナ・キャラン・ニュー・ヨーク」が大失敗する。通常、香水はライセンスし、専門家に任せるがキャランはすべて自分で行うことを望み、「ダナ・キャラン ビューティカンパニー」を設立したが、これが裏目に出る。最初の半年で590万ドルの赤字を計上。96年株式を公開。この年、デミ・ムーアを広告に起用。さらに、実験的なコレクション「D」をスタートするが、これも成果を上げられずに終わる。97年「DKNYジーンズ」開始。香水部門をエスティ・ローダーに任せる。しかし、売り上げは伸びず株価は低迷。ダナ・キャラン自身は新興宗教的な「ニューエイジ」にはまり、その影響がコレクションにも見られるようになる。彼女の顧客はキャリア・ウーマンであったが、少しづつではあるが、そこから離れつつあった。
だが、2001年転機が訪れる。ダナ・キャランと夫のステファン・アイスは夫妻による経営をあきらめ、LVMHにダナ・キャランの商標権を持つ、ガブリエル・スタジオ(キャラン夫妻の会社)とダナ・キャランインターナショナルを売却。買収金額は総額6億4500万ドル、日本円でおよそ720億円。LVMHは両社を統合。これにより、ダナ・キャランはわずらわしい経営面に抹殺されることなく、デザイン面のみに注力できるようになり、復活しつつある。2001年8月20日、マディソン・アヴェニューに新しいブティックをオープンした。2003年、「DKNYジーンズ」のライセンス契約を伊メーカーのSINVと締結。
2003年9月20日、表参道のONE表参道ビルに旗艦店をオープン。オープン記念の限定品はライトグレーの上品な色合いのスウェード製バッグ。手提げバッグ&クラッチバッグの2ウェイで限定20個を発売。そのほか同じデザインでサイズの大きな黒のバッグやラビットファーのトートバッグも限定で発売された。
国内では、当初「ドナ・カラン」と表記されていました。後にオンワード系列となったダナキャランジャパンが展開。
個人的な話ですが、私は95年ごろ、ダナ・キャランのコレクションラインにはまっていました。きれいなシルエット、美しいドレープ感、そしてストレッチ素材を用いた着やすさなど毎シーズン、何着も購入してましたし、ダナ・キャランを2着買って、カルバン・クライン・コレクションを1着買うというペースでした。ただ、少しずつシルエットが変わり、生地も悪くなっていって、ショップも撤退するところが多くなり、ついに買わなくなってしまったのですが、この1、2年元に戻りつつあるようです。2003年、春夏ニューヨークコレクションでは最前席にベルナール・アルノーがまるで娘の発表会を見守る父親のように座っていたといいます。コレクションの最後にちらっと、はにかむ姿を見せる仕種など、確かに彼女は魅力的な女性なのですが滝富夫といい、アルノーといいおじ様たちに、なんかほっとけない魅力を感じさせるのでしょうか?
Dolce&Gabbana ドルチェ&ガッバーナ Italy
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歴史・解説
ドメニコ・ドルチェ(DOMENICO DOLCE)とステファノ・ガッバーナ(STEFANO GABBANA)の二人によるブランド。ドメニコは1958年、イタリアのバレルモ生まれ。ステファノは62年ミラノ生まれ。1980年、当時22歳のドメニコ・ドルチェと、19歳のステファノ・ガッバーナは、ミラノのファッションデザイナーのスタジオで働いていた時に出会う。
1982年、ミラノにオフィスを構え、85年にレディス、90年にメンズのコレクションを発表。派手な色彩にあふれた躍動感あるスタイルは、「モードに新しい風が吹いた」といわれ、一躍トップ・デザイナーとなる。
その後、日本へ上陸、アメリカでも支持される。1992年レディス用フレグランスを発表。1993年にはマドンナのワールドツアーに1500のデザインを提出。1994年、メンズ用のフレグランスを発表。
1994年ディフュージョンライン、「D&G」を発表。2001年3月にはカジュアルライン「&(アンド) ドルチェ&ガッバーナ」発表。2006年2月、表参道ヒルズに旗艦店をオープン。
続いて、2006年4月に銀座店オープン。銀座店は1階がバッグなどレディス&メンズのアクセサリー、2階がレディス・フロアとVIPラウンジ、地下1階にメンズ・フロア。地下1階から地上2階の吹き抜けには高さ15メートルの展示用の棚がそびえ、より高級志向の顧客に向けて、コレクションラインのドレスやスーツを豊富にそろえた。
国内では三崎商事によって展開されている。
ちなみに、たまに、ネットオークションなどで見かけるドルチェ&ガッバーナの「ベーシック」というのは、イタリアでアウトレットショップに向けて卸しているライン。日本では正規には展開されておらず、イタリアでも直営店では販売していない。
Dsquared2 ディースクエアード Italy
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歴史・解説
カナダ出身の双子の兄弟、ディーン・カートン(Dean Caten)とダン・カートン(Dan Caten)が手掛けるディースクエアード(名字はケイティン、兄のほうはディンと表記される場合もあります)。2人は1965年、イタリア人の父とイギリス人の母との間にカナダで生まれる。互いにトロントでアシスタント経験などをし、デザイナーとして6年のキャリアを積んだあと、ニューヨーク生活を経て、ミラノに渡りデザイナーやスタイリストをしながらファッションビジネスを学ぶ。
1994年にパリの展示会SEHMで初めてコレクションを発表。1994年に「D2」としてミラノコレクションに初参加。モダン・ベイシックにイタリアンモードとアメリカンスポーツをミックスし、トラディショナルなアイテムを、タイトにキュートにアレンジした。「自分たちが着たいものをつくる」というその主張でつくられたカジュアルウエアは、多くの海外有名セレクトショップなどでも取り扱われるようになる。
2003秋冬からはレディスラインも本格的にスタートし、巨大ディスコを会場にしたコレクションは、ダイナミックな演出で初のレディスデビューを飾った。飛行機のタラップをスーパーモデルが降りてくる趣向で、膨らんだミニボンバージャケットなど、カジュアルな中にも今のスタイルを盛り込んでいる。
2007年秋にはICRグループのITFはDsquared2のフレグランスとコスメティックをグローバルに製造・販売するライセンス契約を締結し、最初のフレグランスが発売される予定。
国内では、三崎商事によって展開されており、2004年5月12日青山に路面店をオープン。ブランドのトータル化と路面店の出店でブランド訴求力を高めていく方針。
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歴史・解説
ダナ・キャラン、本名ダナ・アイヴィ・ファスケ(キャランは前夫の苗字)は1948年アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。仕立屋の父とモデルやブティックの店員をしていた母に育てられ、自然とファッションセンスを身につける。パーソンズ・デザイン学校卒業後、アン・クライン社に入社。74年にアンが他界すると同時にルイス・デルオリオとともにブランドの後継者に抜擢され、スポーティで着やすい服が高い評価を得る。このコンビはコティ賞を3度受賞。ブリッジゾーンのさきがけとなる「アンクラインU」もこの二人がスタートさせた。84年当時、アンクライン社を買収していたタキヒヨーの滝富夫氏のバックアップを得て、自らのブランドを設立。1984年には、「ダナ・キャラン」でニューヨークコレクションに参加。1985年にはニューヨークにダナ・キャラン・ニューヨーク社を設立。同年、デザイナー・オブ・ジ・イヤー受賞。
シンプルで洗練された服がキャリア・ウーマンの間で評判を呼ぶ。経済的に余裕のある新世代(ベビーブーム世代)女性のニーズを巧みに取り入れることに成功する。彼女自身がキャリア・ウーマンであり、彼女がターゲットにした顧客たちと同世代で、洗練されたイメージがあった。「クローゼットを開けて、そこに足りないものを次のシーズンにデザインする」スタイルは多くの女性に支持された。
1989年、DKNYをスタート。NYPD(ニューヨーク市警本部)のように響きがいいこのロゴは初年度に1億ドルを売り上げ、大成功を収める。91年御主人に着せることを想定してメンズ、92年「DKNY MENS」、96年「ダナキャラン シグネチャー」を発表。1997年には子供のために「DKNY KIDS」「DKNY JEANS」をスタートさせた。自らのライフスタイルを実践するごとく、ラインを増やしていった。
しかし、1992年初の香水、「ダナ・キャラン・ニュー・ヨーク」が大失敗する。通常、香水はライセンスし、専門家に任せるがキャランはすべて自分で行うことを望み、「ダナ・キャラン ビューティカンパニー」を設立したが、これが裏目に出る。最初の半年で590万ドルの赤字を計上。96年株式を公開。この年、デミ・ムーアを広告に起用。さらに、実験的なコレクション「D」をスタートするが、これも成果を上げられずに終わる。97年「DKNYジーンズ」開始。香水部門をエスティ・ローダーに任せる。しかし、売り上げは伸びず株価は低迷。ダナ・キャラン自身は新興宗教的な「ニューエイジ」にはまり、その影響がコレクションにも見られるようになる。彼女の顧客はキャリア・ウーマンであったが、少しづつではあるが、そこから離れつつあった。
だが、2001年転機が訪れる。ダナ・キャランと夫のステファン・アイスは夫妻による経営をあきらめ、LVMHにダナ・キャランの商標権を持つ、ガブリエル・スタジオ(キャラン夫妻の会社)とダナ・キャランインターナショナルを売却。買収金額は総額6億4500万ドル、日本円でおよそ720億円。LVMHは両社を統合。これにより、ダナ・キャランはわずらわしい経営面に抹殺されることなく、デザイン面のみに注力できるようになり、復活しつつある。2001年8月20日、マディソン・アヴェニューに新しいブティックをオープンした。2003年、「DKNYジーンズ」のライセンス契約を伊メーカーのSINVと締結。
2003年9月20日、表参道のONE表参道ビルに旗艦店をオープン。オープン記念の限定品はライトグレーの上品な色合いのスウェード製バッグ。手提げバッグ&クラッチバッグの2ウェイで限定20個を発売。そのほか同じデザインでサイズの大きな黒のバッグやラビットファーのトートバッグも限定で発売された。
国内では、当初「ドナ・カラン」と表記されていました。後にオンワード系列となったダナキャランジャパンが展開。
個人的な話ですが、私は95年ごろ、ダナ・キャランのコレクションラインにはまっていました。きれいなシルエット、美しいドレープ感、そしてストレッチ素材を用いた着やすさなど毎シーズン、何着も購入してましたし、ダナ・キャランを2着買って、カルバン・クライン・コレクションを1着買うというペースでした。ただ、少しずつシルエットが変わり、生地も悪くなっていって、ショップも撤退するところが多くなり、ついに買わなくなってしまったのですが、この1、2年元に戻りつつあるようです。2003年、春夏ニューヨークコレクションでは最前席にベルナール・アルノーがまるで娘の発表会を見守る父親のように座っていたといいます。コレクションの最後にちらっと、はにかむ姿を見せる仕種など、確かに彼女は魅力的な女性なのですが滝富夫といい、アルノーといいおじ様たちに、なんかほっとけない魅力を感じさせるのでしょうか?
Dolce&Gabbana ドルチェ&ガッバーナ Italy
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歴史・解説
ドメニコ・ドルチェ(DOMENICO DOLCE)とステファノ・ガッバーナ(STEFANO GABBANA)の二人によるブランド。ドメニコは1958年、イタリアのバレルモ生まれ。ステファノは62年ミラノ生まれ。1980年、当時22歳のドメニコ・ドルチェと、19歳のステファノ・ガッバーナは、ミラノのファッションデザイナーのスタジオで働いていた時に出会う。
1982年、ミラノにオフィスを構え、85年にレディス、90年にメンズのコレクションを発表。派手な色彩にあふれた躍動感あるスタイルは、「モードに新しい風が吹いた」といわれ、一躍トップ・デザイナーとなる。
その後、日本へ上陸、アメリカでも支持される。1992年レディス用フレグランスを発表。1993年にはマドンナのワールドツアーに1500のデザインを提出。1994年、メンズ用のフレグランスを発表。
1994年ディフュージョンライン、「D&G」を発表。2001年3月にはカジュアルライン「&(アンド) ドルチェ&ガッバーナ」発表。2006年2月、表参道ヒルズに旗艦店をオープン。
続いて、2006年4月に銀座店オープン。銀座店は1階がバッグなどレディス&メンズのアクセサリー、2階がレディス・フロアとVIPラウンジ、地下1階にメンズ・フロア。地下1階から地上2階の吹き抜けには高さ15メートルの展示用の棚がそびえ、より高級志向の顧客に向けて、コレクションラインのドレスやスーツを豊富にそろえた。
国内では三崎商事によって展開されている。
ちなみに、たまに、ネットオークションなどで見かけるドルチェ&ガッバーナの「ベーシック」というのは、イタリアでアウトレットショップに向けて卸しているライン。日本では正規には展開されておらず、イタリアでも直営店では販売していない。
Dsquared2 ディースクエアード Italy
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歴史・解説
カナダ出身の双子の兄弟、ディーン・カートン(Dean Caten)とダン・カートン(Dan Caten)が手掛けるディースクエアード(名字はケイティン、兄のほうはディンと表記される場合もあります)。2人は1965年、イタリア人の父とイギリス人の母との間にカナダで生まれる。互いにトロントでアシスタント経験などをし、デザイナーとして6年のキャリアを積んだあと、ニューヨーク生活を経て、ミラノに渡りデザイナーやスタイリストをしながらファッションビジネスを学ぶ。
1994年にパリの展示会SEHMで初めてコレクションを発表。1994年に「D2」としてミラノコレクションに初参加。モダン・ベイシックにイタリアンモードとアメリカンスポーツをミックスし、トラディショナルなアイテムを、タイトにキュートにアレンジした。「自分たちが着たいものをつくる」というその主張でつくられたカジュアルウエアは、多くの海外有名セレクトショップなどでも取り扱われるようになる。
2003秋冬からはレディスラインも本格的にスタートし、巨大ディスコを会場にしたコレクションは、ダイナミックな演出で初のレディスデビューを飾った。飛行機のタラップをスーパーモデルが降りてくる趣向で、膨らんだミニボンバージャケットなど、カジュアルな中にも今のスタイルを盛り込んでいる。
2007年秋にはICRグループのITFはDsquared2のフレグランスとコスメティックをグローバルに製造・販売するライセンス契約を締結し、最初のフレグランスが発売される予定。
国内では、三崎商事によって展開されており、2004年5月12日青山に路面店をオープン。ブランドのトータル化と路面店の出店でブランド訴求力を高めていく方針。
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C
Cacharel キャシャレル France
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歴史・解説
キャシャレルは、1962年、当時30歳だったJean Bousquet(ジャン・ブーケ、現会長)によって創業される。64年会社創設。ミシン販売業の息子として生まれたジャンは、子供のころから洋服作りに夢中になり、フランス南部、Camargue(カマルグ)の小さな鳥からブランド名は名づけられた。63年、シアサッカーのブラウスはエルの表紙を飾り、サラ・ムーン(Sarah Moon)の写真は話題を呼んだ。
カジュアルブランドとして知名度を高め、1999年には売り上げが16億フランに達するほどのブランドにまで成長。コリーヌ・サリューがデザインを手掛けていたが2001春夏からイギリス、ロンドン・コレクションで活躍していたデザイナーデュオ、クレメンツ・リベイロ-Clements Ribeiro (Suzanne ClementsとInacio Ribeiro)を起用してリニューアル。20年ぶりにパリコレクションに復帰し、新生「cacharel」を誕生させた。
2002秋冬コレクションは、テキスタイルデザインの「Celia Birtwell」とクレメンツ・リベイロがコラボレーション。とくにプリントは、「cacharel」にトータルな新しい動きを与え、リラックスしたフレッシュな女性らしさと、カラーとラインで明確化された新しい洗練性を表現した。多種多様のハンドメイドと布使い、カラーもソフトで女性らしい洗練性を感じさせる。2005年春夏からは「オウン」のデザイナー、ベルギーのデュオ、エルヴェ・イヴルノゴーとティエリー・ロンドネを起用し、メンズ・コレクションをスタート。ブランド名は「キャシャレル・ル」で2005年春夏にミニコレクションでデビューし、2005年秋冬から本格的にフル・コレクションを発表する予定。
日本では1998年から、三喜商事によって展開されていたが、伊藤忠ファッションシステムが日本におけるマスターライセンシーを獲得したことに伴い、2004春からサンエーインターナショナルがサブライセンシーを得て、展開。2005年春からはキャシャレルのヤングターゲットのニューラインとして、「ベイビー・ジェーン・キャシャレル(Baby Jane Cacharel)」を発売。2005年4月16日、青山に国内最大のフラッグシップショップをオープン。
デザイナー夫婦デュオであるクレメンツ・リベイロのうち、スザンヌ・クレメンツ(Suzanne Clements)は1969年、英国サリー(Surrey)生まれ。イナシオ・リベイロ(Inacio Ribeiro)は1963年、ブラジル、イタペセリカ(Itapecerica)に生まれる。二人はロンドンのセントラル・セントマーティン・カレッジ・アート&デザイン科(Central St Martins College of Art & Design)に就学中に出会い、1991年トップの成績で卒業。一年後、二人は結婚し、クレメンツは既に、自らがデザインしたニットウェアなどがリバティやハロッズに納品され、リベイロも、ロンドンでデザイナーとしてデビューしていた。
卒業後、二人はブラジルに行き、アパレルメーカーのコンサルタントして働き始める。1993年ロンドンに戻り、自らのブランドをスタートさせる。1995年10月の初めてのコレクションは手描きのシルク・シフォン、リネンで女性らしい美しさと豊富なカラーリング、豪華なカシミア、大胆なストライプで評判を呼び、瞬く間に注目を集める。
シューズラインは1996年2月に始まり、同年、彼らは新人デザイナー賞である「ロイズ・バンク英国ファッション賞(Lloyds Bank British Fashion Awards)」受賞。1997年、新人およびベストデザイナー賞にノミネートされる。2000年、ベスト・英国デザイナー賞は受賞できなかったものの、そのときに受賞したフセイン・チャラヤン(Hussein Chalayan)は受賞スピーチで、「自分は受賞できるとは思っていなかった。私はクレメンツ・リベイロがもらうべきだと思っていました」と発言した。
2000年5月、二人はロンドンをベースにしたまま、フランスブランド「キャシャレル」のデザインを引き継ぐことに合意。同年10月彼らによる初の「キャシャレル」プレタポルテコレクションはパリで発表され、キャシャレルのオーダーは50%上昇したといわれる。2001秋冬コレクションでは、トロンプルイユ(だまし絵)が話題を呼び、可愛いワンピースやトップス、プリントが注目。
Cartier カルティエ France
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歴史・解説
1847年ルイ・フランソワ・カルティエが、師匠のアドルフ・ピカールから、パリ・モントルゲイユ街31番地のアトリエを譲り受ける。1853年カルティエ、ヌーブ・デ・プティシャン通り5番地で、自らのメゾンを開く。1856年、ナポレオン1世の姪で、皇帝ナポレオン3世の従妹、マチルド皇女が初めてカルティエを訪れ、宝飾品を買い求める。彼女の存在が後にカルティエは王侯貴族に愛されるきっかけとなる。1859年、イタリアン大通り9番地に進出。1860年、最初のロシア人客サルティコフ皇太子が訪れる。1872年、息子アルフレッドを共同経営者とする。1874年、アルフレッド・カルティエ、店の経営権を任される。
1888年、最初のブレスレッド・ジュエリー ウォッチを製作。1898年アルフレッド、長男のルイを事業のパートナーとする。1899年、カルティエ、ラ・ペ通り13番地に移転。
1900年、カルティエ銀の代わりにプラチナをセッティングに使用。1902年、ニューバーリントン通り4番地にカルティエ・ロンドンがオープン。1904年、イギリス国王エドワード7世、スペイン王アルフォンス13世の御用達店となる。エドワード7世は「宝石商の王であるがゆえに、王の宝石商」とカルティエを讃えた。この頃、ルイ・カルティエは友人であるブラジル人飛行士アルベルト・サントス・デュモンのために、レザーストラップ腕時計を製作。サントスが誕生するとともに、これが初の腕時計ともいわれる。
1905年、ポルトガル王カルロス1世の御用達店に。1906年ジャック・カルティエ(アルフレッドの3男、ルイの弟)、ロンドン店の経営者となる。抽象的、幾何学デザインの「アールデコ」ジュエリーを試作。初の量産型腕時計、ブレスレッド・ウォッチ「トノー」を製作。ロシア皇帝ニコライ2世の御用達店に。1908年、シャム国王パラミンドル・マハ・チュラロンコルンの御用達店になる。 1909年、ロンドン店ニューボンド通り175-176に移転。ピエール・カルティエ(アルフレッドの次男、ルイの弟)、ニューヨーク5番街712番地に支店オープン。シャルル・ジャコーが入社。
1908年ルイがパリのオークションで買い上げたブルーダイヤモンド「ホープ」をピエール・カルティエが販売。「C」を組み合わせたロゴマークが誕生する。
1911年、1904年のモデルを原型にした腕時計「サントス・デュモン」を発表。
1912年、パリ市議会、カルティエの「皇帝の卵」を皇帝ニコラス2世に贈呈。これは現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されている。最初のバケット(BAGUETTE)カットのダイヤモンド創作。バゲットはフランス語で「棒」の意味で、ダイヤで用いられる段状のカット。長方形の宝石となり、ルイ・フランソワ・カルティエが創出。
1920年代、アールデコの幾何学的なデザインを代表するものとなる。「コメット」クロック発売。
1913年、28歳の天才時計師、モーリス・クーエ、初のミステリークロック「モデルA」を発表。水晶の中に文字盤が浮いているように見えるため、この名がある。セルビア王ピエールの御用達店になる。1914年パンテール(豹)モチーフを初めて採用。当時の女性ディレクター、ジャンヌ・トゥーサンのあだ名がパンテールだったことによる(当時、まだ珍しかった毛皮をよく着ていたため)。パヴェ・ダイヤモンドとオニキスのパンテールがベゼルを飾る婦人用オーバル・ブレスレット・ウォッチを製作。オルレアン公フィリップの御用達店になる。 1917年ピエール・カルティエが55個と73個の2連真珠ネックレスをモートン・F.プラント邸と交換したことにより、カルティエ・ニューヨーク店は5番街653番地に移転。初めて腕時計「タンク」の図案を描く。これは、1919年に腕時計「タンク」として発表された。第1次世界大戦での戦車のキャタピラーからインスパイアされたもの。
ニューヨークにEuropean Watch&Clock Co.Incを設立。ベルギー国王アルベール1世御用達店になる。 921年、後のエドワード8世(王位放棄後はウィンザー公)、英皇太子の御用達店に。「カルティエ フレール」を「カルティエSA」と改称。1923年、門形ミステリークロック「ビリケン」(上部にびりけんが鎮座する。カルティエのサイトで見ることができる)誕生。
1924年スリーカラーのスリーゴールドリングとブレスレッド誕生。1925年アルフレッド・カルティエ死去。
1929年、サンモリッツに支店を開設。エジプト王フーアド1世の御用達店になる。1931年グラモン公爵のために、初めてアカデミー・フランセーズ会員の剣を製作。「ミステリー懐中時計」を発表。1933年ジャンヌ・トゥーサンがカルティエ高級宝飾部門の全権を委任。見えないセッティング(ミステリーセッテイング)の特許権取得。1942年ルイ・カルティエ、ジャック・カルティエ死去。パリ占領を表現したジェエリー「籠の鳥」を創作。2年後、解放を祝うブローチ「自由の鳥」も創作。
1945年ピエール・カルティエがカルティエ・パリとカルティエ・ニューヨークの社長に就任。ジャックの息子のジャン・ジャック・カルティエがカルティエ・ロンドンを経営。1948年ルイの息子、クロード・カルティエが、パリに戻った祖父のピエールからカルティエ・ニューヨークの社長を引き継ぐ。ウィンザー公夫人、パンテール・ブローチをパリで注文する(1987年、ジュネーブのサザビー・オークションで、カルティエ・コレクションのために買い戻される)。1955年ジャン・コクトーのために、彼自身のデザインによるアカデミー・フランセーズ会員の剣を製作。1965年ピエール・カルティエ死去。
1968年カルティエ・ブランド初のオーバル型高級ライター(収納式ローラー)誕生。1969年カルティエ・オークションで69.42カラットのペアシェイプカットダイヤモンドを買い、これをリチャード・バートンに売る。彼は、このダイヤモンドをエリザベス テイラーに贈る。これが有名なカルティエ=バートン=テイラー・トライアングル。アラン・ドミニク・ペラン、「ブリケカルティエ(カルティエ ライター)」社に参加。カルティエ・ジュネーブがオープン。同年、カルティエ・ニューヨークのデザイナー、アルド・チブロのアイデアにより、ラブ・ブレスレット発表。1970年カルティエ・香港がオープン。1971年カルティエ・ミュンヘンがオープン。
1972年ジョゼフ・カヌイを中心とする投資家グループがカルティエ・パリを買取り、ロベール・オックがカルティエ・パリの社長に就任。1973年ロベール・オックがアラン・ドミニク・ペランの協力を得て「レ・マスト・ドゥ カルティエ」コンセプトを考案し、ペランが「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」の担当重役となる。ビアリッツとシンガポールに最初の「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」ブティックがオープン。1974年先の投資家グループによるカルティエ・ロンドンの買い取り。「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」東京店がオープン。1976年「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」ラインのヴェルメイユ腕時計のコレクションを発表。オーバルペン(楕円形万年筆)を発表。
1978年スティール&ゴールドの腕時計「サントス」を発表。カルティエ・スカーフ初のコレクションを発表。ジャンヌ・トゥーサン死去。1979年カルティエ・パリ、カルティエ・ロンドン、カルティエ・ニューヨークを「カルティエ・モンド」の下に統合、世界中のカルティエ利権を統合する。ロベール・オック事故死。ジョゼフ・カヌイ、「カルティエ・モンド」の社長に就任。1981年「カルティエ」と各地の「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」合併。アラン・ドミニク・ペラン、「カルティエ」と「カルティエ・インターナショナル」の社長に就任。「マスト」と「サントス」の香水を発表。1982年ミシュリーヌ・カヌイ、宝飾部門の責任者となり、「カルティエの芸術」をテーマとする彼女の最初のニュージュエリーコレクションを発表。1983年エリック・ヌスバウムを責任者として「カルティエ・コレクション」を集成。このコレクションにより、カルティエの歴史的、芸術的発展が一望できる。腕時計「パンテール・ドゥ・カルティエ」を発表。続いてアイウェア「マスト」、「VLC」を発表。1984年ゴールドとパールをテーマとする第2回ニュージュエリーコレクションを発表。「カルティエ現代美術財団」を設立。1985年、1943年の防水腕時計にヒントをえた腕時計「パシャ」を発表。1986年「パンテール」をテーマとする第3回ニュージュエリーコレクションを発表。腕時計「マスト・21・ヴァンテアン」(オール スティール)を発表。万年筆「パシャ・ドゥ・カルティエ」を発表。1987年香水「パンテール・ドゥ・カルティエ」を発表。テーブルウェア(ポーセリン、クリスタル、シルバーウェア)のコレクション「メゾン ドゥ カルティエ」を発表。1988年エジプトをテーマとする第4回ニュージュエリーコレクションを発表。紳士用アクセサリーの「パーソナル・ライン」を発表。カルティエは、「ピアジェ」社、「ボーム&メルシエ」社の最大株主となる。「カルティエ インターナショナル」、パリ8区フランソワ1世通り51番地に本拠を置く。1989年腕時計「タンク・アメリカン」を発表。パリのプティ・パレ美術館で初の本格的回顧展「カルティエの芸術」展開催。
1990年「パンテール・ドゥ・カルテイェ」ハンドバッグを発表。1991年「インドへの道」をテーマとする第5回ニュージュエリーコレクションを発表。ニュージュエリーコレクション「インド ギャラン」を発表。国際高級腕時計委員会(C.I.H.H.)創設。第1回国際高級時計展(S.I.H.H.)開催。腕時計「ディアボロ」を発表。万年筆「パンテール・ドゥ・カルティエ」を発表。カルティエ ジャパン・銀座ブティック、オープン。1992年腕時計のニューコレクション、「ベニュワール」、「カスクドール」、「ベルエポック」を発表。続いて腕時計「ミニ パンテール ドゥ カルティエ」を発表。万年筆「クーガー ドゥ カルティエ」を発表。オードトワレ「パシャ・ドゥ・カルティエ」を発表。
1993年10月23日、ヴァンドーム・グループ(現在のリシュモン)設立。カルティエ、ピアジェ、ボーム&メルシエ、ダンヒル、モンブラン、クロエ、カール ラガーフェルド、スルカ、ハケット、シーガーが参加する。クロノリフレックス ムーブメント ウォツチ「パシャ、クーガー・ドゥ・カルティエ、ディアボロ」を発表。「マスト・ウォッチ」と「エリプス」リングを創作。パステル調のクロコダイル「ミニ・パンテール・ドゥ・カルティエ・バッグ」を発表。
1994年ジュエリー「ナチュラ」コレクションを発表。サントス・デュモン・ウォッチの90周年を記念して、プラチナとピンク ゴールドの限定版サントス・デュモンを製作。男性用レザーグッズコレクション「ゴールド・オン・ブラック」を発表。カルティエ現代美術財団がパリ左岸ラスパイユ大通り、ジャン・ヌーベル作の建築物に拠点を置く。
1995年ウォッチのニューコレクション、「パシャ」と「パシャC」を発表。万年筆「ルイ・カルティエ」を発表。パルファン「ソー・プリティ・ドゥ・カルティエ」を発表。
1996年ウォッチのニューコレクション、「タンク・フランセーズ」を発表。1997年、ブレスレット「アニバーサリー」発表。側面に希望のメッセージを刻み込むことができる。2002年新作時計「ロードスター」発表。リシュモングループの統合に伴い、日本法人も2001年1月1日付けでリシュモンジャパン株式会社となる。資本金は2億5千万円。
2003年7月19日、銀座中央通りに新ブティックオープン。2005年11月26日、カルティエ 南青山ブティックがオープン。国内では32店舗目、ダイヤモンドを連想させる外観は銀座2丁目ブティック(中央通り店)も手がけたブルーノ・モワナーがデザイン。同時に青山との共生を図る「カルティエ青山芸術文化サロン」も発足。宮沢や音楽家の坂本龍一らが参画し、シンポジウム開催やタブロイド誌発行などを手がける。
CELINE セリーヌ France
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解説・歴史
セリーヌは、バッグが有名だが、もとは子供靴専門店。1945年、女性実業家セリーヌ・ヴィピアナ(Celine Vipiana)が夫、Richardとともに開いた子供靴専門店がその発祥。この子供靴は、パリの革職人の技術を生かしたもので、上流階級を中心に支持が広がり、顧客の成長とともにアイテムも増加。 1959年、婦人靴、65年、香水とスカーフ。66年バッグに進出し、ついに67年プレタポルテを開始した。バッグ開始とともに、現在のセリーヌのモチーフである馬車の柄とバックルのバッグ「サルキー」や馬具の金具をモチーフにしたモカシンで人気を集め、一躍一流ブランドとなった。オートクチュールメゾンではなかったものの、その上品さはパリ高級層の支持を集めた。
そして1987年、ベルナール・アルノー率いるフィナンシエール・アガッシュ(当時、まだLVMHではなく傘下のブランドもディオールしかなかった)がセリーヌを買収。アルノーがディオールから連れてきた(ディオールの極東担当部長)ナン・ルジェ新社長のもと(当時、まだ30代の女性)、組織改革を行った。ディオールはまだ、このとき皮革製品が弱く、革製品に強くオートクチュールを展開していないセリーヌなら、ディオールとバッティングしないと考えたと思われる。
1996年、セリーヌはアガッシュからLVMHに移り、97年、マイケル・コース(Michael Kors)をプレタポルテのデザイナーとして招き、コースは99年2月クリエイティブディレクターに就任した。
マイケル・コースは1959年、アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。81年からニューヨークで活動し、セリーヌの堅実さにスポーティ感覚を取り入れた。その結果、セリーヌの売上は240億円と倍増。LVMHが念願としていた、アメリカのキャリア層への進出もディオール以上の成果を上げた。
マイケル・コースはニュー・ヨークコレクションで自身の名前を付けたブランドを展開しており、こちらは日本国内ではオンワード樫山によって展開されている。
2003年、A&G(アスブレー&ガラード・グループ)が、LVMHが保有するコース社株式の3分の1と、オンワード樫山USAが保有する10%、マイケル・コースのパートナー、ジョン・オーチャリー(同社CEO)の保有分を手に入れたこともあり、セリーヌ社は1年の期限付きで、マイケル・コースとの契約を延長。セリーヌのジャンマルク・ルビエ社長は、「この契約延長はあくまで暫定的なもの」としており、2004年には確実にデザイナーが交代する思われている。A&Gは映画「タイタニック」のネックレスも製作した英国王室御用達のジュエラー。
2003年4月からバッグやキャスケットなどデニム素材の新シリーズ「パリ・マカダム」を発売。マカダムは19世紀の砕石舗道のことで、歴史的建造物やカフェなどパリの街並みをイメージして名づけられた。2003年9月20日、LVMHのブランド総合ビル「ONE表参道」ビルに、旗艦店がオープン。
2004年4月、LVMHは、2005春夏からの次期アーティスティック・ディレクターにロベルト・メニケッティ(Roberto Menichetti)を起用すると発表。ロベルト・メニケッティはNY州バッファロー生まれの37歳。90年代の初めにパリで、クロード・モンタナのデザイン助手を務めた。その後、ジル・サンダーで、メンズラインのスタート時に重要な役割を果たし、1997年にバーバリーのクリエイティブディレクターに就任。プローサムラインをデザインしたが、4年後の2001年、ローズマリー・ブラヴォーとの意見の相違により辞任。1シーズンだけ、セルッティのクリエイティブ・ディレクターを務めた後、2004年2月NYコレクションで自らのブランドを発表した。セリーヌと契約しても、このコレクションは継続される見込み。
2005年4月23日、直営路面店を、銀座並木通りにオープン。ミニブギーバッグをオープン記念の限定品としてオーストリッチとクロコで発売。
2005年5月セリーヌが相互の合意として、わずか2シーズンでメニケッティが会社を去ったと発表した。
2005年7月、新アーティスティック・ディレクターにIvana Omazicを起用。Omazicはクロアチア生まれの32歳。European Institute of Design in Milanで学び、ロメオ・ジリを経てプラダ・グループに。プラダ・スポーツ、ジル・サンダーを担当後、ミュウミュウのレディス・コーディネーターに就任。2005年4月にセリーヌに移った。セリーヌは女性デザイナーを中心にメニケッティの後任を探していたと噂され、イサベル・トレド、ヴェロニク・ブランキーノ、アレッサンドラ・ファキネッティが候補に挙げられていた。なお、セリーヌのメンズはかつては丸紅が展開していたライセンス品などもあったが、マイケル・コースが就任以後、メンズラインは展開していない。
CHANEL シャネル France
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解説・歴史
ココ・シャネル(本名ガブリエル・シャネル)は1883年、フランス南西部オーヴェルニュ地方に行商人の娘として生まれ、1910年、パリ・カンボン通り21番地に帽子店をオープンしたのがブランドの始まり。当時装飾過多の帽子が多い中、そのシンプルなつくりは多くの注目を集めた。その後、ブティックを開き、男性用の下着に使われていたジャージー素材に着目。コルセットに固まっていた女性の体を開放し、引き締まったからだが基本というメッセージを投げかけた。また、「きらきらした衣装を作るのは簡単でも、リトルブラックドレスを作るのは難しい」と語り、喪服でしかなかった黒をモードな色として取り入れた。さらに、「本当の大地の色」として、ベージュを好み20年代にはジャージのスーツに織り込まれ「ベージュの女王」とも呼ばれる。肌の色とベージュをつなげて脚を長くみせ、つま先は傷や汚れを目立たせないよう足元を締める黒で覆ったバイカラーシューズなども発表。紳士ものであるツイード素材を女性用スーツに仕立てるなど数々の斬新なアイデアを生み出した。
1921年、オードゥ・パルファム「NO.5」登場。ナンバリングされた実験ボトルが並ぶ研究室で、彼女が5番目のサンプルを取り上げたとき、これが生まれた。ジャスミンやバラなどの天然成分に加え、初めてアルデヒドなどの合成香料を使用した。調香したのはエルネスト・ポー。70年ココ自身がつけていたのはアンリ・ロベールが調香したNo.19。
1924年、人造宝石のアクセサリーを提案。1932年にはダイヤモンドを使用したハイジュエリーを発表。20年代から30年代にかけて、活動的になった女性の支持を得て、ココはクチュールの女王となった。しかし、1939年第2次世界大戦が近づくと、ココは自らの店を閉め、クチュール界から引退する。一説には当時、隆盛を極めていたスキャパレリに負けたためとの話もあった。
しかし、ココ・シャネルはこれでは終わらなかった。戦中から戦後の15年間の中断期間を経て、71歳でクチュール界にカムバックを果たす。ディオールのニュールックが、彼女の考える女性の開放とは違っていたため、カムバックを決意したとの説もある。ともあれ、1953年、70歳になったココはかつての助手たちに電報を打った。「今すぐ、来るように。私たちはあと10年しか働けないのだから」。1954年、シャネル復活。20年前と同じような黒のテーラードスーツをメーンにしたコレクションはファッションジャーナリストの不評を買ったものの、アメリカ女性に受け入れられた。アメリカでは実用的な服が求められていたのである。1971年、ココ・シャネル、ホテル・リッツの一室で静かに息を引き取る。
1969年リーベルマン・ウェルシェリー社により、シャネル製品の日本での輸入・販売を開始。
1975年には口紅を発表したものの、ココの死後、やや低迷していたブランドを救ったのが、カール・ラガーフェルドである。1938年、ドイツのハンブルグに生まれ、16歳でIWS(国際羊毛事務局、ウールマークを認定しているところ)のコンクール、コート部門で最優秀賞を受賞。10代でピエール・バルマンで4年働き、その後ジャン・パトゥに移り、21歳でアート・ディレクターに就任。63年に独立以降、自身のブランドやフェンディでデザイナーを務めていた。1983年からシャネルのオートクチュール、84年にはプレタポルテも担当。ラガーフェルド入社後、シャネルの売上は20%伸びたといわれている。ブランドのアイデンティティを生かしながら、独自の創造性を加えた。現在では、パリ・カンボン通り31番地で、彼のデッサンをもとに、華麗な作品が熟練した職人たちによって作られている。
1980年、日本でシャネル株式会社設立。商品はすべてフランスで製造され、ライセンスは行っていない。1987年には時計もコレクションに加え、香水は84年に「シャネルのエスプリ」のキャッチフレーズで、「ココ」を発売した後、96年に「アリュール」、2000年には「ココ・マドモアゼル」を発売。2002年秋(日本国内は2003年春)には、フレグランス業界最大の話題である「チャンス」を発売する。このフレグランスは、20代、30代前半の若い女性をターゲットに開発され、ボトルもシャネルのフレグランスとしては初めて円形のデザインを採用した。現在シャネルのメイクアップ製品をクリエートするのはドミニク・モンクルトワ。ココに才能を見込まれ、69年入社。80年以後はハイディ・モラヴェッツとのコラボレートで数々の製品を生み出している。ちなみに「メイクに光を」とのココの提案を受け、シャネルは光・ルミエールという言葉を製品名に付ける独占権をもっている。
1994年シャネルブティック本店(銀座並木通り)、1996年心斎橋店、2001年表参道店オープン。2002年、シャネル社はフランスの伝統的なクチュールメゾン5社を買収。コスチュームジュエリーの「デリュ」、羽根・カメリアの「ルマリエ」、刺しゅうの「ルサージュ」、靴の「マサロ」、帽子の「ミッシェル」で、これらを集結させてカール・ラガーフェルドは「サテライト・ラブ」と命名。このラインが2003秋から日本でもスタートし、銀座と心斎橋で発売される。
2004年12月4日、銀座3丁目に銀座シャネルビル(旧ワーナーブラザース・ストア)に旗艦店をオープン。2003年7月に店舗と本社機能を兼ねた新ビルを着工。ビルのデザインはニューヨークの建築家、ピーター・マリノが手がけ、高さ56メートルの10階建て。外観には発光ダイオード、ステンレススチール、特殊なクリスタルグラスを散りばめ、縦横に光沢を放ち、ブランドを象徴するツイードを模したものとなる。建物は全10フロアで、1-2階がブティック、3階にV.I.P.サロン。4階は各種イベントを開催する多目的ホールで、5-9階がオフィスフロア。10階にアラン・デュカスのレストラン「ベージュ・東京」。地下が駐車場。レストラン「ベージュ・東京」はシャネル日本法人とアラン・デュカス率いるグループ・アラン・デュカス社の合弁会社。ココ・シャネルが愛したベージュ色を基調に洗練された内装に椅子はツイード。スタッフの制服は黒のニットにスニーカー(夜はエナメル靴)で、カール・ラガーフェルドが手掛けた。
オープンを記念して発売されるコレクション「エフェメール・ド・ギンザ」はパールでかたどられたシャネルの「C」のロゴマークが付いたツイードジャケット・アンサンブルや、同シリーズのパール付きキルティング・バッグなどで、「Chanel Ginza 2004」の文字が記されている。ブティック限定でオリジナルのツイードジャケットやアクセサリーがデザインされるのは、シャネル創業94年の歴史を通じて今回が初めて。そのほかにも財布や手帳など、Ginza」のロゴ入りの限定アイテムがラインナップされる。1階奥にはシャネルの香水やコスメ、スキンケアがフルラインでそろうビューティスペース「フレグランス・バー」と「カラー・バー」もあり、3人のビューティ・アナリストが常駐。
オープンを記念して、これまでフランスでしか取り扱いのなかった香水「ガーデニア」「ボワ デ ジル」「キュイール ドゥ ルシー」(各75ml)がセットになったコフレ(39,900円)を発売。2005年1月には同じく日本未発売の香水「シャネル No.22」も展開される。シャネルのアイコン、白と黒のバイカラー・ツイードをモチーフにした、新色アイシャドウ「ツィード マドモワゼル」(7,350円)も発売。
シャネル(英、仏、独語など) コレクションやジュエリー、アイウェア、コスメなどのコーナーに分かれている。
CHAUMET ショーメ France
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歴史・解説
1780年、マリー・エティエンヌ・ニトが宝石店を創立。まだ若いニトの店の前である日、ナポレオンの馬車馬が突然暴れだし、ニトは必死に手綱をとりナポレオンを救う。これが縁となり、ナポレオンはニトの宝石技術に魅了され、戴冠式の宝石をはじめ次々と宝飾品を注文。1802年、ショーメはナポレオン御用達のジュエラーとなり、同年ニトは皇帝の剣を製作。フランス王室に伝わる140カラットのダイヤモンド「レジャン」をセットした。以降、とくにショーメのティアラ技術は高く評価され、ヨーローッパ全土の王侯貴族に愛される。
1848年、ロンドン支店を開きヴィクトリア女王御用達ジュエラーとなる。
1907年、7代目ジョセフ・ショーメのとき、現在のショーメの名前が付けられ、パリのヴァンドーム広場12番地に店を構える。本店にはル・グラン・サロンなどもあり、ルイ16世時代に建てたられた建物は歴史的建造物にも指定されている。」
ふっくらしたボリューム感のある「アノー」コレクションやフレンチテーストを取り入れた「リアン」などが特徴的なデザイン。数々の時計コレクションも誕生させ、特に有名なのがカトリーヌ・ドヌーブも愛した「ケイシスコレクション」。2002年には表参道と銀座に直営店を同時にオープン。
2004年よりメンズラインスタート。最初のテーマは「ダンディ」で、時計、カフスボタン、指輪、マフラーなどを展開。
Chloe クロエ France
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解説・歴史
クロエの創業は1952年、2人のパリ市民、Jacques LenoirとGaby Aghionによって設立された。Gaby Aghionはアレキサンドリア生まれのエジプトの貴族だったが、第2次世界大戦中にカイロから逃亡。パリに行き着いた。
ブランドの名前はロンゴスの古代小説「ダフニスとクロエにまつわる牧人風のレスボスの物語」を原作とした、バレエ音楽「ダフニスとクロエ」が由来。この作品は、ダフニスとクロエの恋物語で、主人公であるクロエの優雅な踊りからインスピレーションを得たといわれている。
クロエの高級プレタポルテはロマンチックで、かつシックであり50年代のフレンチ・ファッションを代表するものとして明確な地位を確立した。1963年には、創業家がヘッドデザイナーとしてKarl Lagerfeld(カール・ラガーフェルド)を任命。ラガーフェルトが作成したフローラルの花柄プリントやシェイプされたデザインはクロエの名を益々高めた。1970年にはクロエ社とコロネット商会が、ライセンス契約を結び、国内での展開がスタート。1974年に導入された、フレグランスはベストセラーとなった。
1985年には、スイスの高級ラグジュアリーグループ、Richemont(リッチモント、またはリシュモン。カルティエ、ヴァン クリーフ&アーペル、ピアジュ、ボームメルシー、モンブラン、ジャガー・ルクルト、アルフレッド・ダンヒルを持つLVMHに対抗するグループ)が、AghionとLenoirからクロエを買収。80年代の終わりには、国際市場拡張のために、Martine Sitbon(マルティーヌ・シットボン)がデザイナーに就任。クロエに彼女らしいユニークさと現代のビジョンをもたらした。
1992年にはラガーフェルドが復帰。5年にわたってクロエを再構築し、ネオ・クラシックドレスやヒッピー風のレースでクロエはさらに成長。そして、1997年、26歳のステラ・マッカートニー(Stella McCartney)がクリエイティブ・ディレクターに就任する。ステラはビートルズのポール・マッカートニーの娘でありセント・マーティン出身。ステラの若くて元気なセンスは再度クロエに新しい感性を注ぎ込んだ。
クラシックでロマンチックなクロエにストリート感覚を持ち込み、テイラードスーツではイギリスのビスポーク感覚を取り入れ、彼女独特のキャミソールで女性らしさを表現。ローライズ・ジーンズにペアとなるブラウスとテイラードスーツを組み合わせるなど新しい感覚を巧みに表現した。しかし、父親譲りの菜食主義者で環境保護に熱心な彼女は一説によると毛皮の使用などで会社ともめ、グッチグループに引き抜かれる形でデザイナーを降板。
2001年4月、4年間ステラのパートナーであった、Phoebe Philo(フィービー・フィロー)が、クリエイティブディレクターに就任。モデルのようなスタイルを持つフィービーは1973年にパリで生まれ、ロンドン郊外で成長。1993年公立高校を経て、セントマーティン入学。1996年、卒業を1年前にして、クロエに取り組むためパリに招待された。この期間に、クロエは従来の女性らしいロマンチックさに加え、若くセクシーな感性を取り入れた。今、最も美しいデザイナーである。彼女はさらなる再構築をクロエに施し、2001
秋冬コレクションから、カジュアル・ライン「See by Chloe」(シー・バイ・クロエ)を開始し、アクセサリーやスイムウエアといった新しいカテゴリーもスタートした。
2005年秋冬コレクションはフィロが妊娠していたこともありデザインチームが手がける。2004秋にシルベラードバッグがわずか数週間で6000個完売し、シエナ・ミラーも購入。2005年、パディントンバッグが大ヒット。
2006年1月、フィービー・フィロが家族とより多くの時間を過ごしたいという「個人的な理由」で辞任。後継者は発表されず、3月の2006-2007秋冬コレクションは、社内のデザインチームによってクリエイトされる。フィロが出産・育児休暇中だった時、デザインチーム(Sara Jowett、Natasha Lee、Valeska Duetsch、Adrian Appiolaza、Yvan Mispelaere)が彼女に代わってデザインしたことがある。
国内ではライセンス品も含めて、コロネット商会が手がけていたわけですが、パリコレでの評価と国内での展開が合っていませんでした。パリコレではステラ、フィービー以後、キャミソールドレスやストリート感覚を取り入れ若々しくリニューアルしているのに対し、コロネット商会では、青山のショップに一歩足を踏み入れれば、そこは50年代のシャネルを思わせる店作り。若いやつは入ってくるなといわんばかり。それとも、若いのはこれぐらいの価格は買わないとでも思ってるんでしょうか?こういうのを見ると、ライセンス展開の欠点を目の当たりにするような気がしました。まだ、カネボウが展開しているインナーのライセンス品のほうがいいような感じです。
しかし、2002年、コロネット商会は、伊藤忠の支援を得て経営再建に入り、2003年春夏からは、本国リシュモンの日本法人、リシュモンジャパンによる展開が開始され、同時に「シー・バイ・クロエ」もスタートしました。これに伴い、日本の旗艦店であった青山店もクローズされました。今後、ブランドのリニューアルによるさらなる発展が期待できます。また、新たな旗艦店も計画されています。2004年3月にはラフォーレ原宿1階に「シー・バイ・クロエ」のショップがオープン。2005年9月大阪・心斎橋そごうにクロエ初のアクセサリーショップがオープン。2006年1月14日、青山に旗艦店がオープン。
Christian Dior クリスチャン・ディオール France
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歴史・解説
クリスチャン・ディオールは1905年、フランスのノルマンディーで裕福な実業家の家に生まれる。外交官を志して、政治学院に学ぶが、在学中に当時、台頭していたシュールレアリスムに魅せられ、友人と画廊を開設。ダリやコクトーなど多くの芸術家と親交を深めるが、30年代の恐慌に見舞われ失職。このとき、友人からデッサンを習い、1938年、ロゲール・ピゲに見込まれてモード界に入る。後に、ルシアン・ルロンのメゾンへ移るが、46年、マルセル・ブサックと出会い、12月にクリスチャン・ディオール・オートクチュール・メゾンが誕生した。ブサックは、繊維業界で成功した大富豪で、当時「コットン王」と呼ばれていた。ディオールはプサックに「エレガントな女性と最上級な女性のためのクチュリエになりたい」と語ったと伝えられている。この時、ディオールがプサックに会いに行く途中、ディオールは道に落ちていた星型の馬車の部品につまずく。それを拾って、ポケットに入れたままメゾン設立の夢を語った。以後、星はディオールののラッキーモチーフとなる。
47年、ディオールは初のコレクションで「コロール(花冠)ライン」を発表。これを、ハーパース・バザール誌の編集長カーメル・スノウが「ニュー・ルック」と呼び、この名前が広まる。ニュールックは、丸みを帯びた肩に胸、ウエストは細く絞られ、スカートは布を贅沢に使い(戦後すぐでモノがあまりない時代に)、ペチコートで膨らませたラインが踵まで伸びる女性らしさを引き出した華麗なスタイルだった。シャネルによって機能的な美しさがアピールされた後に、ディオールはフェミニンな美しさを改めて強調したのである。
また、1948年にはアメリカにおいてライセンス生産を開始。アメリカに「クリスチャン・ディオール・ニューヨーク」という別会社を作り、そこがニューヨークの靴下会社プレスティージ社と契約し「クリスチャン・ディオール」ブランドのナイロンストッキングの製造を許可した。これが、ブランドによるライセンス生産のはしりといわれている。
後にライセンスはネクタイ、下着、ソックス、アクセサリーと拡大し、80年代後半にはディオールは200を越すライセンスを抱えていた。また、同時にこの方式を婦人服にも応用しオートクチュールだけでなく、アメリカの既製服業者と組んで、ディオールのデザインによるドレスを高級既製服、プレタポルテとしてアメリカでの製造・販売を開始した。オートクチュールからプレタポルテへと拡大することで、ディオールはファッションを芸術だけでなくビジネスとしても成功させたのである。
続いて、48年にはジグザグライン、50年パーティカルライン、51年オーバル、52年シニュアス、53年チューリップ、54年Hライン、55年Aライン、56年アローラインと次々に発表し、センセーショナルを起こした。このシーズンごとに新しいラインを名づけて発表するというのもディオールがはじめたことである。これはマスコミにも受け入れやすく、一般大衆にもわかりやすくするためで、ディオールは戦後のファッション界が一部のお金持ちのためではなく、一般大衆の手にゆだねられることをこの時点で理解していたのである。1955年8月3日、ソルボンヌ大学大講堂でデザイナーとして初の講演を行う。ここで、ディオールは自らの仕事を「伝統を新しさの中に生かすこと」と語る。しかし、1957年10月24日ディオールは53歳の若さで心臓発作により急逝する。メゾンは若干21歳のイブ・サンローランが引き継ぐことになった。これにより、デザイナーの死後もメゾンは残り、ブランドを引き継ぐというビジネスモデルが成立することとなった。
サンローランは、確立されたメゾンの高度な技術に独創性を加え、初めてのコレクションでトラベーズ(台形)ラインを発表。多くの顧客に支持されたが、その後のホブル・スカート、60年秋冬の「ビートライン」は不評で、サンローランがアルジェリア戦争に徴兵されたのを機に、オーナーであるブサックは彼を解雇。マルク・ボアンをデザイナーに起用した。
マルク・ボアンは当時34歳。ジャン・パトゥのアシスタントだったときにディオールのロンドン店のデザイナーとして引き抜かれ、61年「スリムルック」、67年「サファリルック」、70年「マキシルック」で、従来からの顧客の支持を受け、デ・ドヌール賞も2回受賞した。
しかし、革新性にかけたデザインは徐々に衰退し、1968年には48年に設立された香水部門である「パルファン・クリスチャン・ディオール」がモエ・へネシー社に買収され、78年には親会社であるマルセル・ブサック・グループが倒産。ブサックは流通大手のウィロ兄弟によって救済され、アガッシュ=ウィログループに入るが、80年ブサックの死後、81年には公的救済(この時期のフランスは社会党政権)を求める事態となった。
1984年、ここにベルナール・アルノーが登場する。彼はフランスの投資銀行ラザール・フレールと組み、ついにブサック・グループを買収し、1985年4月1日、傘下のクリスチャン・ディオールを手に入れ、自らが社長となった。そして、1989年5月、次のデザイナーとして、イタリア人のジャンフランコ・フェレをオートクチュールとレディス・プレタポルテ、アクセサリーの責任者に据えた。フェレは1944年、イタリアに生まれ、ミラノ工科大学建築科を卒業。一部にはフランスのブランドがイタリア人をデザイナーに起用したことへの反発もあったが、89年7月のフェレによる初めてのコレクションである89秋冬オートクチュールコレクションにおいて、「ニュールック」をモチーフにしたデザインを発表し、デ・ドール賞を受賞。不安を吹き飛ばす。
さらにアルノーはライセンス生産も絞り込んだ。90年アルノーはLVMHの社長に就任。そして、96年ディオールは次のデザイナーとして、ジョン・ガリアーノを指名することとなる。当時、ガリアーノは同じLVMHグループの「ジバンシー」のデザイナーだった。彼はこのとき36歳、1960年ジブラルタル生まれのイギリス人で、6歳のときに両親とともに渡英。義務教育終了後、セント・マーチンスに入り、テキスタイルを学んだ後、ファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を呼んだことでブラウンズと5年間の契約を結ぶ。デビュー当初はジャケットをボトムに使った「さかさまの服」など、アヴァンギャルドさが話題を集めた。一方で、カッティングとバイアスの確かさにも定評があり、古典や世界中の衣装から、そのときのトレンドアイテムを巧みに自分のコレクションに取り込む能力が高く評価されていた。
ディオールに移る前に2シーズンだけジバンシーのデザイナーを勤め、ついに97年春夏、初のディオールコレクションを発表。ちょうど、ディオールが「ニュールック」を発表してから50年にあたり、ガリアーノは現代版ニュールックを発表。丸い肩で胸を強調し、パッドを入れた腰に細いウエスト。スカートがミニになったのが、現代らしさを表している。また、このときのテーマは「マサイ族」であり、後にこれが香水「ジャドール」につながっていく。
2000年春夏コレクションでは、ボロ布ドレスを発表。コレクションではモデル一人につき、1体のアイテムしか使用しない(モデルは着替えずに、着るのは1着のみ)という贅沢なコレクションを開催し、オートクチュール、プレタともに、現在のトレンドをリードする一人である。メンズは、ディオール・ムッシュのチーフデザイナー、パトリック・ラヴォワを経て、今はイブ・サンローラン・リヴ・ゴーシュから来たエディ・スリマンが「ディオール・オム」を担当している。
エディ・スリマン(Hedi Slimane)は1968年パリ生まれ。1997年、イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ オムのアーティスティック・ディレクターに抜擢され、2001-2002秋冬コレクションより、ディオール・オムのクリエイティブ・ディレクターを務める。2003年7月3年間の契約延長をし、メンズフレグランスのクリエイティブ・ディレクターも兼任する。日本でディオール・オムを扱っているのは、銀座、表参道、神戸、新宿伊勢丹、名古屋松坂屋、岩田屋の6店。
日本国内では、1953年に大丸と提携してファッションショーを開催して進出。ちなみにこのショーは日本で始めて行われたファッションショーともいわれている。その後、カネボウが独占販売権を獲得。長くライセンス生産を行っていたが、LVMH社のライセンスを絞る方針により、97年2月7日ディオールはカネボウとの契約を同年4月30日に解消すると発表。自ら輸入品を販売することとなり、97年秋冬をもってライセンス生産は終了した。当時、カネボウのディオール関連売上は500億円に上るといわれており、紳士・婦人服だけでなく、ストッキングやソックス、ベビー服、本国にはないゴルフウェアまで多岐にわたっていた。これを失ったカネボウは5日後の2月12日、ランバンとライセンス契約し、ストッキングやインナーに関してはクロエと契約した(クロエは、LVMHとならぶブランドグループ、リシュモン系列)。ちなみにこのとき、ディオールのライセンス品のデザインをしていたのは、パリコレにも参加していたコウジ・ニホンマツ(二本松幸司)。カネボウは彼をそのまま、ランバンのライセンスにおけるデザイナーにスライドさせた。
クリスチャン・ディオール(ジャポン社)は97年、銀座・並木通りに旗艦店をオープン。ガリアーノも来日した。余談ですが、私はこのときに、ガリアーノとお会いしたんですが、身近で見るとあまりカリスマ性も感じずに、普通の陽気な外人のお兄さんって感じでした。私と一緒にオープンニングパーティに行ったある人は私に、ガリアーノを指差しながら、「あのラフな外人は誰だ?」と聞いてきたぐらいです。ガリアーノとは気づかなかったらしいです。
2003年3月6日、ディオール・オム初のショップが伊勢丹新宿にオープン。同年6月革グッズの新シリーズ「ハードコア・ディオール」を発表。バッグの素材は柔らかいシルクジャージーながら、金具で全体を引き締めた新ライン。
2003年12月7日には青山に銀座を上回るLVMHの拠点とも呼べる、ブティックをオープン。建設中から、それを覆うボードでシーズンごとのコレクションを発表し存在感を発揮。
これまでに後藤久美子、長谷川理恵、宮沢リエらがディオールの最新ファッションをまとってこのボードに登場した。屋上にはディオールのラッキーモチーフである「星」が飾られる。地上4階、地下1階にメンズ(ディオール・オム)、レディス、バッグ、シューズ、ファインジュエリーまでそろうフルラインショップ。地下1階がディオール・オム。1階にアクセサリー、革小物。2階に婦人服、ジュエリーにVIPルーム。3階が世界最大面積の化粧品売り場。初めて、エステティックやネイルカラーのコーナーも設ける。化粧品売り場は約220平方メートルで、ファッションショーの楽屋裏をイメージした内装。エステティックやメーキャップ、ネイルカラーはいずれも有料で、ファッションショーのイメージを生かした化粧やマニキュアなどをしてもらえる。口紅やマニキュアを組み合わせた「表参道ニュールック」(1万3200円)などの日本限定品やフレグランス「クリス1947」も先行発売する。4階がイベントスペース。
表参道店限定バッグは「Dior Star」。カラフルなプリントにCDのロゴ、モチーフの星が付けられたもの。同時に同モチーフのキーケース、財布も先行発売。また、同時に日本限定発売のリング「Star」も500個限定で発売される。その他、ディオール・オムでも1点モノの限定品が発売される予定。また、新作のピンクロゴライン「ガーリー」も手に入る。
2004年10月24日には銀座晴海通り店がオープン。近藤書店などが入居していたビルの地下1階から地上6階に入居。設計は乾久美子。5-6階には展示スペース、「ディオール・ミュージアム」も。総面積は約1380平方メートル。表参道の世界最大店(1485平方メートル)に次ぐ規模になり、新店は高級既製服やバッグ、小物類、高級宝飾品、紳士服「ディオールオム」の専用売り場も設置。銀座店オープン記念品は、「ゴルメット・ドゥ・ディオール」からピンクゴールドの限定リングを発売。限定150個で、シリアルナンバーとGINZAの刻印入り。並木通り店は閉店する。
2005年4月28日、大阪・心斎橋に西日本最大級の旗艦店、心斎橋店をオープン。地上2階地下1階で御堂筋に面しており、店の前面にはディオール本人の時代から店内の椅子などに用いられたカナージュ模様が施され、店内には、顧客専用の部屋も用意。オープン記念の限定品「レディ・ディオール」は1950年代のパリの風景や女性の顔がプリントされたもので、大(15万5400円)、小(13万4400円)2種類、計130個を販売する。
日本でのディオールの売上は全世界の15%を占めており、ディオールでは2007年までに販売を2倍にすることを計画している。
Christian Lacroix クリスチャン ラクロア France
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歴史・解説
デザイナーのクリスチャン ラクロア(Christian Marie Marc Lacroix)は、1951年5月16日フランス、プロヴァンス地方のアルルに生まれ、ソルボンヌ大学で美術史を専攻後、エルメス入社。アクセサリーデザイナーを経て、1974年、Francoise Rosenthielと結婚。1980年ギ・ポーランの助手としてビブロス入社。1981年ジャン・パトゥのオートクチュールのチーフデザイナーに抜擢される。
1987年に独立して、自身のメゾン「クリスチャン ラクロア」を設立。初のオートクチュールコレクションを発表。同年、LVMH(当時は、アガシュ・ウィロー・グループ)のバックアップにより自らのメゾンをフォーブル・サントーレに構え、7月のオートクチュールでデ・ドール賞(金の指貫)を受賞。1988年、二回目のデ・ドール賞受賞。1989年イタリアのジェニーからプレタポルテにも進出。
90年初の香水「セ・ラ・ヴィ」発表。1995年カジュアルライン「BAZAR」開始。96年「ジーンズ・ド・クリスチャン ラクロア」をスタート。
オートクチュールの寵児として一世を風靡したが、香水の失敗以後、輝きを失いつつあるとの評価もあった。
2002年フランス最高の勲章レジオン・ド・ヌールを受賞。2003年、2005年4月に一新されたエールフランスの制服デザインを担当。乗務員や地上職員ら17職種、約3万6000人の制服を手がけた。2004年、マドンナのワールドツアーの衣装をデザイン。2004年春夏から、メンズラインを開始。Sadevグループによって生産され、フランスの高級専門店およびデパートと、中東でスーツ、シャツ、ニットなどを販売。2003年春夏から2006年春夏までエミリオ・プッチのアーティスティック・ディレクターに就任。その後、フランスの高速鉄道TGV(Tres Grande Vitesse)の内装をデザイン。2004年にはラルース辞書百年版の装丁も手がける。表紙と各アルファベットのトップページのデザインを担当した。
2005年1月、ラクロアのオートクチュール・コレクション終了後、LVMHは米国第2位の免税店グループ、Falicグループにクリスチャン ラクロワを売却すると発表。Falicグループは、ファッションとコスメ分野への進出を明らかにしており、2003年12月にはLVMHからコスメブランド「Hard Candy」と「Urban Decay」を買収したことがあった。
日本では三共生興によって展開され、2001年代官山に日本初のフラッグシップショップをオープン。2005年3月、銀座のZOE GINZAに旗艦店をオープン(代官山は閉店)。
COACH コーチ U.S.A
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解説・歴史
コーチは1941年、マイルス・カーン、リリアン・カーン夫妻と、その仲間という家族経営の皮革小物工房として米ニューヨーク・マンハッタンのロフトでスタートした。夫妻は、使い込むほど手になじみ、味の出る野球のグローブを参考にグローブの丈夫さ、美しさに着目。皮そのものの持ち味を生かした製品を考え、第一号バッグが60年代初期に誕生。化学薬品でコーティングしていない天然皮革は、耐久性、機能性に優れ、一つひとつ手作業で作られている。その後、皮革小物から、バッグを中心にしてファッション分野へ進出。
62年、前衛的なデザイナーとして知られ映画「王様と私」の衣装やIBMのユニフォームをデザインしたボニー・カシンを迎え入れ、彼女は買い物袋から発案したカジュアルバッグ「カシン・キャリー」を発表。「バゲット・バッグ」「ダッフル・サック」もヒットする。現在のバッグにも使われているクリップ式の金具や「ドッグリーシュ」の金具も彼女の発案。その後、76年には、海外にもショップを開いた。
さらなる、転機が訪れたのは85年。サラ・リー・コーポレーションに吸収合併されたことによる。日本進出は88年。三越との提携により三越の子会社PDCにより、同年9月に横浜三越、続いて日本橋三越店がオープン。さらに、96年、トミー・ヒルフィガーでデザインやマーケティングを担当していたリード・クラッコフ(現社長兼エグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクター)を、エグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターに迎え、ファッション面を強化した。
リード・クラッコフ(Reed Krakoff)は、ボストン生まれ。画家を目指し、NYのパーソンズ・スクール・オブ・デザインに通い、ラルフ・ローレン、トミー・ヒルフィガーを経て96年12月コーチ入社。商品デザインや全世界のブランドイメージの統一を行い、コーチを「ライフスタイル・アクセサリー・ブランド」へと発展させた。2001年、CFDA(アメリカ・ファッションデザイナー評議会)のアクセサリー部門で最優秀賞を受賞。
98年春からは「ネオ・コレクション」を発売。高品質レザーに代わる新素材を開発し、実用的で体になじむことを目的にデザインされた。98年9月からは、スイスの高級時計メーカー、モバード・グループとライセンス契約した「ウオッチ・コレクション」を発売。スイス製の高性能ムーブメントと、コーチならではの付け心地の良い革ストラップやスタイリッシュなケース、ブレスレットが特徴。2001年からロゴ゙模様をあしらった「シグネチャー・コレクション」スタート。
2001年8月、米コーチは折半出資により住友商事と合弁でコーチ・ジャパンを設立。新会社は、三越子会社から店舗を引き継ぎ、2002年3月時点で79店舗を展開。1年間に、約100店舗まで拡大するとした。2002年5月には旗艦店である銀座店を開店。初上陸アイテムもそろえて、日本最大のショップとしてオープンした。2003年4月4日関西初の路面店を心斎橋に、4月16日第2旗艦店である渋谷店、4月25日六本木ヒルズ店オープン。2004年4月16日、第3の旗艦店である丸の内店オープン。2005年4月8日、マンディ・ムーアがテープカットに駆けつけた名古屋栄店オープン。2005秋、赤ちゃん用の「ベビー・コレクション」発売。パステルカラーのカシミア毛布やテディベア形の写真立て、帽子やミトンなどを旗艦店のみで販売している。
私も仕事用には、コーチのバッグを使っているのですが、エルメスとかと違って、雑に扱ってもOKというイメージですね、丈夫ですし。唯一、壊れそうなのが金具部分ですが、私も経験がありますけど、コーチショップならばどの店でも無料で修理を引き受けてくれます。ついでにローションサービスもしてくれるので、暇なときにはショップによるのもいいかも。
Cynthia Rowley シンシア・ローリー U.S.A.
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解説・歴史
シンシア・ローリー(Cynthia Rowley)は、アメリカ、イリノイ州バーリントン生まれ。アーティスト両親の影響を受け、7歳の時、初めてドレスをデザイン。シカゴ芸術学院(Art of Institute of Chicago)在学中に地下鉄に乗っていた彼女は、自分が着ていたジャケットに目を留めた百貨店、マーシャル・フィールズのバイヤーに「その服はどこで売られているのか」と尋ねられた。それは彼女が自分自身で作ったものであり、そのように答えると、マーシャル・フィールズは即座にシンシア・ローリーの服を売り始めたという、デビュー伝説を持つ。
1983年、芸術学院を卒業したシンシアは、祖母から贈られた3,000ドルを手に、N.Y.へ向かい、ハイエンドショップへ8つのコレクションを販売。1週間後、彼女は30,000ドルを手にしていた。この資金を元にビジネスをはじめ、初のショーを開催。1988年、CYNTHIA ROWLEY INC.を設立。7番街にオフィスを移転。1994年、ニューヨークで始めての直営店をオープン。1995年、CFDA(Council of Fashion Designer's of America)の新人賞であるペリー・エリス賞を受賞。1995年、シカゴに2号店をオープン。1995年銀座店オープン(現在はクローズ)。1996年、ロサンゼルスに米国内で3店目となる直営店をオープン。1996年、Michaelangelo Shoe Awardを受賞。同年、結婚。1997年、Annual MichaelAward'sの婦人服デザイナー部門で大賞に選ばれる。1999年、日本にてコスメティックを発売(カネボウの子会社、エキップから発売。米国では2002年春から開始)。
1999年10月、友人でもあるN.Y.タイムズのエディター、アイリー・ ローゼンズウィーグと少女のための本「カッコイイ女の子になるための、魔法の絵本―スウェル・ガール(Swll)」刊行。
2001年春夏より、日本にてスリープウェア・インティメント発表。日本にて2001年秋冬よりジュエリー・ヘアアクセサリー発表。2002年「Swell」の続編「Home Swell Home」
発売、2003年には、「Swell Holiday」発売。このシーリーズは続いて「Swell Dressed Party」が予定されている。
国内ではグンゼ産業(現・GSIクレオス)によって展開されていたが、2002年秋冬からはイトキンが引き継いでいる。また、手袋やシューズなど、ライセンス先も多岐に渡り、とくにコスメはウェアよりも有名かもしれない。
現在では、レディスウェアだけでなく、メンズウェア、シューズ、バッグ、レザーグッズ、傘、時計、アイウェア、テーブルクロスにまでコレクションは拡大。
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歴史・解説
キャシャレルは、1962年、当時30歳だったJean Bousquet(ジャン・ブーケ、現会長)によって創業される。64年会社創設。ミシン販売業の息子として生まれたジャンは、子供のころから洋服作りに夢中になり、フランス南部、Camargue(カマルグ)の小さな鳥からブランド名は名づけられた。63年、シアサッカーのブラウスはエルの表紙を飾り、サラ・ムーン(Sarah Moon)の写真は話題を呼んだ。
カジュアルブランドとして知名度を高め、1999年には売り上げが16億フランに達するほどのブランドにまで成長。コリーヌ・サリューがデザインを手掛けていたが2001春夏からイギリス、ロンドン・コレクションで活躍していたデザイナーデュオ、クレメンツ・リベイロ-Clements Ribeiro (Suzanne ClementsとInacio Ribeiro)を起用してリニューアル。20年ぶりにパリコレクションに復帰し、新生「cacharel」を誕生させた。
2002秋冬コレクションは、テキスタイルデザインの「Celia Birtwell」とクレメンツ・リベイロがコラボレーション。とくにプリントは、「cacharel」にトータルな新しい動きを与え、リラックスしたフレッシュな女性らしさと、カラーとラインで明確化された新しい洗練性を表現した。多種多様のハンドメイドと布使い、カラーもソフトで女性らしい洗練性を感じさせる。2005年春夏からは「オウン」のデザイナー、ベルギーのデュオ、エルヴェ・イヴルノゴーとティエリー・ロンドネを起用し、メンズ・コレクションをスタート。ブランド名は「キャシャレル・ル」で2005年春夏にミニコレクションでデビューし、2005年秋冬から本格的にフル・コレクションを発表する予定。
日本では1998年から、三喜商事によって展開されていたが、伊藤忠ファッションシステムが日本におけるマスターライセンシーを獲得したことに伴い、2004春からサンエーインターナショナルがサブライセンシーを得て、展開。2005年春からはキャシャレルのヤングターゲットのニューラインとして、「ベイビー・ジェーン・キャシャレル(Baby Jane Cacharel)」を発売。2005年4月16日、青山に国内最大のフラッグシップショップをオープン。
デザイナー夫婦デュオであるクレメンツ・リベイロのうち、スザンヌ・クレメンツ(Suzanne Clements)は1969年、英国サリー(Surrey)生まれ。イナシオ・リベイロ(Inacio Ribeiro)は1963年、ブラジル、イタペセリカ(Itapecerica)に生まれる。二人はロンドンのセントラル・セントマーティン・カレッジ・アート&デザイン科(Central St Martins College of Art & Design)に就学中に出会い、1991年トップの成績で卒業。一年後、二人は結婚し、クレメンツは既に、自らがデザインしたニットウェアなどがリバティやハロッズに納品され、リベイロも、ロンドンでデザイナーとしてデビューしていた。
卒業後、二人はブラジルに行き、アパレルメーカーのコンサルタントして働き始める。1993年ロンドンに戻り、自らのブランドをスタートさせる。1995年10月の初めてのコレクションは手描きのシルク・シフォン、リネンで女性らしい美しさと豊富なカラーリング、豪華なカシミア、大胆なストライプで評判を呼び、瞬く間に注目を集める。
シューズラインは1996年2月に始まり、同年、彼らは新人デザイナー賞である「ロイズ・バンク英国ファッション賞(Lloyds Bank British Fashion Awards)」受賞。1997年、新人およびベストデザイナー賞にノミネートされる。2000年、ベスト・英国デザイナー賞は受賞できなかったものの、そのときに受賞したフセイン・チャラヤン(Hussein Chalayan)は受賞スピーチで、「自分は受賞できるとは思っていなかった。私はクレメンツ・リベイロがもらうべきだと思っていました」と発言した。
2000年5月、二人はロンドンをベースにしたまま、フランスブランド「キャシャレル」のデザインを引き継ぐことに合意。同年10月彼らによる初の「キャシャレル」プレタポルテコレクションはパリで発表され、キャシャレルのオーダーは50%上昇したといわれる。2001秋冬コレクションでは、トロンプルイユ(だまし絵)が話題を呼び、可愛いワンピースやトップス、プリントが注目。
Cartier カルティエ France
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歴史・解説
1847年ルイ・フランソワ・カルティエが、師匠のアドルフ・ピカールから、パリ・モントルゲイユ街31番地のアトリエを譲り受ける。1853年カルティエ、ヌーブ・デ・プティシャン通り5番地で、自らのメゾンを開く。1856年、ナポレオン1世の姪で、皇帝ナポレオン3世の従妹、マチルド皇女が初めてカルティエを訪れ、宝飾品を買い求める。彼女の存在が後にカルティエは王侯貴族に愛されるきっかけとなる。1859年、イタリアン大通り9番地に進出。1860年、最初のロシア人客サルティコフ皇太子が訪れる。1872年、息子アルフレッドを共同経営者とする。1874年、アルフレッド・カルティエ、店の経営権を任される。
1888年、最初のブレスレッド・ジュエリー ウォッチを製作。1898年アルフレッド、長男のルイを事業のパートナーとする。1899年、カルティエ、ラ・ペ通り13番地に移転。
1900年、カルティエ銀の代わりにプラチナをセッティングに使用。1902年、ニューバーリントン通り4番地にカルティエ・ロンドンがオープン。1904年、イギリス国王エドワード7世、スペイン王アルフォンス13世の御用達店となる。エドワード7世は「宝石商の王であるがゆえに、王の宝石商」とカルティエを讃えた。この頃、ルイ・カルティエは友人であるブラジル人飛行士アルベルト・サントス・デュモンのために、レザーストラップ腕時計を製作。サントスが誕生するとともに、これが初の腕時計ともいわれる。
1905年、ポルトガル王カルロス1世の御用達店に。1906年ジャック・カルティエ(アルフレッドの3男、ルイの弟)、ロンドン店の経営者となる。抽象的、幾何学デザインの「アールデコ」ジュエリーを試作。初の量産型腕時計、ブレスレッド・ウォッチ「トノー」を製作。ロシア皇帝ニコライ2世の御用達店に。1908年、シャム国王パラミンドル・マハ・チュラロンコルンの御用達店になる。 1909年、ロンドン店ニューボンド通り175-176に移転。ピエール・カルティエ(アルフレッドの次男、ルイの弟)、ニューヨーク5番街712番地に支店オープン。シャルル・ジャコーが入社。
1908年ルイがパリのオークションで買い上げたブルーダイヤモンド「ホープ」をピエール・カルティエが販売。「C」を組み合わせたロゴマークが誕生する。
1911年、1904年のモデルを原型にした腕時計「サントス・デュモン」を発表。
1912年、パリ市議会、カルティエの「皇帝の卵」を皇帝ニコラス2世に贈呈。これは現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されている。最初のバケット(BAGUETTE)カットのダイヤモンド創作。バゲットはフランス語で「棒」の意味で、ダイヤで用いられる段状のカット。長方形の宝石となり、ルイ・フランソワ・カルティエが創出。
1920年代、アールデコの幾何学的なデザインを代表するものとなる。「コメット」クロック発売。
1913年、28歳の天才時計師、モーリス・クーエ、初のミステリークロック「モデルA」を発表。水晶の中に文字盤が浮いているように見えるため、この名がある。セルビア王ピエールの御用達店になる。1914年パンテール(豹)モチーフを初めて採用。当時の女性ディレクター、ジャンヌ・トゥーサンのあだ名がパンテールだったことによる(当時、まだ珍しかった毛皮をよく着ていたため)。パヴェ・ダイヤモンドとオニキスのパンテールがベゼルを飾る婦人用オーバル・ブレスレット・ウォッチを製作。オルレアン公フィリップの御用達店になる。 1917年ピエール・カルティエが55個と73個の2連真珠ネックレスをモートン・F.プラント邸と交換したことにより、カルティエ・ニューヨーク店は5番街653番地に移転。初めて腕時計「タンク」の図案を描く。これは、1919年に腕時計「タンク」として発表された。第1次世界大戦での戦車のキャタピラーからインスパイアされたもの。
ニューヨークにEuropean Watch&Clock Co.Incを設立。ベルギー国王アルベール1世御用達店になる。 921年、後のエドワード8世(王位放棄後はウィンザー公)、英皇太子の御用達店に。「カルティエ フレール」を「カルティエSA」と改称。1923年、門形ミステリークロック「ビリケン」(上部にびりけんが鎮座する。カルティエのサイトで見ることができる)誕生。
1924年スリーカラーのスリーゴールドリングとブレスレッド誕生。1925年アルフレッド・カルティエ死去。
1929年、サンモリッツに支店を開設。エジプト王フーアド1世の御用達店になる。1931年グラモン公爵のために、初めてアカデミー・フランセーズ会員の剣を製作。「ミステリー懐中時計」を発表。1933年ジャンヌ・トゥーサンがカルティエ高級宝飾部門の全権を委任。見えないセッティング(ミステリーセッテイング)の特許権取得。1942年ルイ・カルティエ、ジャック・カルティエ死去。パリ占領を表現したジェエリー「籠の鳥」を創作。2年後、解放を祝うブローチ「自由の鳥」も創作。
1945年ピエール・カルティエがカルティエ・パリとカルティエ・ニューヨークの社長に就任。ジャックの息子のジャン・ジャック・カルティエがカルティエ・ロンドンを経営。1948年ルイの息子、クロード・カルティエが、パリに戻った祖父のピエールからカルティエ・ニューヨークの社長を引き継ぐ。ウィンザー公夫人、パンテール・ブローチをパリで注文する(1987年、ジュネーブのサザビー・オークションで、カルティエ・コレクションのために買い戻される)。1955年ジャン・コクトーのために、彼自身のデザインによるアカデミー・フランセーズ会員の剣を製作。1965年ピエール・カルティエ死去。
1968年カルティエ・ブランド初のオーバル型高級ライター(収納式ローラー)誕生。1969年カルティエ・オークションで69.42カラットのペアシェイプカットダイヤモンドを買い、これをリチャード・バートンに売る。彼は、このダイヤモンドをエリザベス テイラーに贈る。これが有名なカルティエ=バートン=テイラー・トライアングル。アラン・ドミニク・ペラン、「ブリケカルティエ(カルティエ ライター)」社に参加。カルティエ・ジュネーブがオープン。同年、カルティエ・ニューヨークのデザイナー、アルド・チブロのアイデアにより、ラブ・ブレスレット発表。1970年カルティエ・香港がオープン。1971年カルティエ・ミュンヘンがオープン。
1972年ジョゼフ・カヌイを中心とする投資家グループがカルティエ・パリを買取り、ロベール・オックがカルティエ・パリの社長に就任。1973年ロベール・オックがアラン・ドミニク・ペランの協力を得て「レ・マスト・ドゥ カルティエ」コンセプトを考案し、ペランが「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」の担当重役となる。ビアリッツとシンガポールに最初の「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」ブティックがオープン。1974年先の投資家グループによるカルティエ・ロンドンの買い取り。「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」東京店がオープン。1976年「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」ラインのヴェルメイユ腕時計のコレクションを発表。オーバルペン(楕円形万年筆)を発表。
1978年スティール&ゴールドの腕時計「サントス」を発表。カルティエ・スカーフ初のコレクションを発表。ジャンヌ・トゥーサン死去。1979年カルティエ・パリ、カルティエ・ロンドン、カルティエ・ニューヨークを「カルティエ・モンド」の下に統合、世界中のカルティエ利権を統合する。ロベール・オック事故死。ジョゼフ・カヌイ、「カルティエ・モンド」の社長に就任。1981年「カルティエ」と各地の「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」合併。アラン・ドミニク・ペラン、「カルティエ」と「カルティエ・インターナショナル」の社長に就任。「マスト」と「サントス」の香水を発表。1982年ミシュリーヌ・カヌイ、宝飾部門の責任者となり、「カルティエの芸術」をテーマとする彼女の最初のニュージュエリーコレクションを発表。1983年エリック・ヌスバウムを責任者として「カルティエ・コレクション」を集成。このコレクションにより、カルティエの歴史的、芸術的発展が一望できる。腕時計「パンテール・ドゥ・カルティエ」を発表。続いてアイウェア「マスト」、「VLC」を発表。1984年ゴールドとパールをテーマとする第2回ニュージュエリーコレクションを発表。「カルティエ現代美術財団」を設立。1985年、1943年の防水腕時計にヒントをえた腕時計「パシャ」を発表。1986年「パンテール」をテーマとする第3回ニュージュエリーコレクションを発表。腕時計「マスト・21・ヴァンテアン」(オール スティール)を発表。万年筆「パシャ・ドゥ・カルティエ」を発表。1987年香水「パンテール・ドゥ・カルティエ」を発表。テーブルウェア(ポーセリン、クリスタル、シルバーウェア)のコレクション「メゾン ドゥ カルティエ」を発表。1988年エジプトをテーマとする第4回ニュージュエリーコレクションを発表。紳士用アクセサリーの「パーソナル・ライン」を発表。カルティエは、「ピアジェ」社、「ボーム&メルシエ」社の最大株主となる。「カルティエ インターナショナル」、パリ8区フランソワ1世通り51番地に本拠を置く。1989年腕時計「タンク・アメリカン」を発表。パリのプティ・パレ美術館で初の本格的回顧展「カルティエの芸術」展開催。
1990年「パンテール・ドゥ・カルテイェ」ハンドバッグを発表。1991年「インドへの道」をテーマとする第5回ニュージュエリーコレクションを発表。ニュージュエリーコレクション「インド ギャラン」を発表。国際高級腕時計委員会(C.I.H.H.)創設。第1回国際高級時計展(S.I.H.H.)開催。腕時計「ディアボロ」を発表。万年筆「パンテール・ドゥ・カルティエ」を発表。カルティエ ジャパン・銀座ブティック、オープン。1992年腕時計のニューコレクション、「ベニュワール」、「カスクドール」、「ベルエポック」を発表。続いて腕時計「ミニ パンテール ドゥ カルティエ」を発表。万年筆「クーガー ドゥ カルティエ」を発表。オードトワレ「パシャ・ドゥ・カルティエ」を発表。
1993年10月23日、ヴァンドーム・グループ(現在のリシュモン)設立。カルティエ、ピアジェ、ボーム&メルシエ、ダンヒル、モンブラン、クロエ、カール ラガーフェルド、スルカ、ハケット、シーガーが参加する。クロノリフレックス ムーブメント ウォツチ「パシャ、クーガー・ドゥ・カルティエ、ディアボロ」を発表。「マスト・ウォッチ」と「エリプス」リングを創作。パステル調のクロコダイル「ミニ・パンテール・ドゥ・カルティエ・バッグ」を発表。
1994年ジュエリー「ナチュラ」コレクションを発表。サントス・デュモン・ウォッチの90周年を記念して、プラチナとピンク ゴールドの限定版サントス・デュモンを製作。男性用レザーグッズコレクション「ゴールド・オン・ブラック」を発表。カルティエ現代美術財団がパリ左岸ラスパイユ大通り、ジャン・ヌーベル作の建築物に拠点を置く。
1995年ウォッチのニューコレクション、「パシャ」と「パシャC」を発表。万年筆「ルイ・カルティエ」を発表。パルファン「ソー・プリティ・ドゥ・カルティエ」を発表。
1996年ウォッチのニューコレクション、「タンク・フランセーズ」を発表。1997年、ブレスレット「アニバーサリー」発表。側面に希望のメッセージを刻み込むことができる。2002年新作時計「ロードスター」発表。リシュモングループの統合に伴い、日本法人も2001年1月1日付けでリシュモンジャパン株式会社となる。資本金は2億5千万円。
2003年7月19日、銀座中央通りに新ブティックオープン。2005年11月26日、カルティエ 南青山ブティックがオープン。国内では32店舗目、ダイヤモンドを連想させる外観は銀座2丁目ブティック(中央通り店)も手がけたブルーノ・モワナーがデザイン。同時に青山との共生を図る「カルティエ青山芸術文化サロン」も発足。宮沢や音楽家の坂本龍一らが参画し、シンポジウム開催やタブロイド誌発行などを手がける。
CELINE セリーヌ France
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解説・歴史
セリーヌは、バッグが有名だが、もとは子供靴専門店。1945年、女性実業家セリーヌ・ヴィピアナ(Celine Vipiana)が夫、Richardとともに開いた子供靴専門店がその発祥。この子供靴は、パリの革職人の技術を生かしたもので、上流階級を中心に支持が広がり、顧客の成長とともにアイテムも増加。 1959年、婦人靴、65年、香水とスカーフ。66年バッグに進出し、ついに67年プレタポルテを開始した。バッグ開始とともに、現在のセリーヌのモチーフである馬車の柄とバックルのバッグ「サルキー」や馬具の金具をモチーフにしたモカシンで人気を集め、一躍一流ブランドとなった。オートクチュールメゾンではなかったものの、その上品さはパリ高級層の支持を集めた。
そして1987年、ベルナール・アルノー率いるフィナンシエール・アガッシュ(当時、まだLVMHではなく傘下のブランドもディオールしかなかった)がセリーヌを買収。アルノーがディオールから連れてきた(ディオールの極東担当部長)ナン・ルジェ新社長のもと(当時、まだ30代の女性)、組織改革を行った。ディオールはまだ、このとき皮革製品が弱く、革製品に強くオートクチュールを展開していないセリーヌなら、ディオールとバッティングしないと考えたと思われる。
1996年、セリーヌはアガッシュからLVMHに移り、97年、マイケル・コース(Michael Kors)をプレタポルテのデザイナーとして招き、コースは99年2月クリエイティブディレクターに就任した。
マイケル・コースは1959年、アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。81年からニューヨークで活動し、セリーヌの堅実さにスポーティ感覚を取り入れた。その結果、セリーヌの売上は240億円と倍増。LVMHが念願としていた、アメリカのキャリア層への進出もディオール以上の成果を上げた。
マイケル・コースはニュー・ヨークコレクションで自身の名前を付けたブランドを展開しており、こちらは日本国内ではオンワード樫山によって展開されている。
2003年、A&G(アスブレー&ガラード・グループ)が、LVMHが保有するコース社株式の3分の1と、オンワード樫山USAが保有する10%、マイケル・コースのパートナー、ジョン・オーチャリー(同社CEO)の保有分を手に入れたこともあり、セリーヌ社は1年の期限付きで、マイケル・コースとの契約を延長。セリーヌのジャンマルク・ルビエ社長は、「この契約延長はあくまで暫定的なもの」としており、2004年には確実にデザイナーが交代する思われている。A&Gは映画「タイタニック」のネックレスも製作した英国王室御用達のジュエラー。
2003年4月からバッグやキャスケットなどデニム素材の新シリーズ「パリ・マカダム」を発売。マカダムは19世紀の砕石舗道のことで、歴史的建造物やカフェなどパリの街並みをイメージして名づけられた。2003年9月20日、LVMHのブランド総合ビル「ONE表参道」ビルに、旗艦店がオープン。
2004年4月、LVMHは、2005春夏からの次期アーティスティック・ディレクターにロベルト・メニケッティ(Roberto Menichetti)を起用すると発表。ロベルト・メニケッティはNY州バッファロー生まれの37歳。90年代の初めにパリで、クロード・モンタナのデザイン助手を務めた。その後、ジル・サンダーで、メンズラインのスタート時に重要な役割を果たし、1997年にバーバリーのクリエイティブディレクターに就任。プローサムラインをデザインしたが、4年後の2001年、ローズマリー・ブラヴォーとの意見の相違により辞任。1シーズンだけ、セルッティのクリエイティブ・ディレクターを務めた後、2004年2月NYコレクションで自らのブランドを発表した。セリーヌと契約しても、このコレクションは継続される見込み。
2005年4月23日、直営路面店を、銀座並木通りにオープン。ミニブギーバッグをオープン記念の限定品としてオーストリッチとクロコで発売。
2005年5月セリーヌが相互の合意として、わずか2シーズンでメニケッティが会社を去ったと発表した。
2005年7月、新アーティスティック・ディレクターにIvana Omazicを起用。Omazicはクロアチア生まれの32歳。European Institute of Design in Milanで学び、ロメオ・ジリを経てプラダ・グループに。プラダ・スポーツ、ジル・サンダーを担当後、ミュウミュウのレディス・コーディネーターに就任。2005年4月にセリーヌに移った。セリーヌは女性デザイナーを中心にメニケッティの後任を探していたと噂され、イサベル・トレド、ヴェロニク・ブランキーノ、アレッサンドラ・ファキネッティが候補に挙げられていた。なお、セリーヌのメンズはかつては丸紅が展開していたライセンス品などもあったが、マイケル・コースが就任以後、メンズラインは展開していない。
CHANEL シャネル France
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解説・歴史
ココ・シャネル(本名ガブリエル・シャネル)は1883年、フランス南西部オーヴェルニュ地方に行商人の娘として生まれ、1910年、パリ・カンボン通り21番地に帽子店をオープンしたのがブランドの始まり。当時装飾過多の帽子が多い中、そのシンプルなつくりは多くの注目を集めた。その後、ブティックを開き、男性用の下着に使われていたジャージー素材に着目。コルセットに固まっていた女性の体を開放し、引き締まったからだが基本というメッセージを投げかけた。また、「きらきらした衣装を作るのは簡単でも、リトルブラックドレスを作るのは難しい」と語り、喪服でしかなかった黒をモードな色として取り入れた。さらに、「本当の大地の色」として、ベージュを好み20年代にはジャージのスーツに織り込まれ「ベージュの女王」とも呼ばれる。肌の色とベージュをつなげて脚を長くみせ、つま先は傷や汚れを目立たせないよう足元を締める黒で覆ったバイカラーシューズなども発表。紳士ものであるツイード素材を女性用スーツに仕立てるなど数々の斬新なアイデアを生み出した。
1921年、オードゥ・パルファム「NO.5」登場。ナンバリングされた実験ボトルが並ぶ研究室で、彼女が5番目のサンプルを取り上げたとき、これが生まれた。ジャスミンやバラなどの天然成分に加え、初めてアルデヒドなどの合成香料を使用した。調香したのはエルネスト・ポー。70年ココ自身がつけていたのはアンリ・ロベールが調香したNo.19。
1924年、人造宝石のアクセサリーを提案。1932年にはダイヤモンドを使用したハイジュエリーを発表。20年代から30年代にかけて、活動的になった女性の支持を得て、ココはクチュールの女王となった。しかし、1939年第2次世界大戦が近づくと、ココは自らの店を閉め、クチュール界から引退する。一説には当時、隆盛を極めていたスキャパレリに負けたためとの話もあった。
しかし、ココ・シャネルはこれでは終わらなかった。戦中から戦後の15年間の中断期間を経て、71歳でクチュール界にカムバックを果たす。ディオールのニュールックが、彼女の考える女性の開放とは違っていたため、カムバックを決意したとの説もある。ともあれ、1953年、70歳になったココはかつての助手たちに電報を打った。「今すぐ、来るように。私たちはあと10年しか働けないのだから」。1954年、シャネル復活。20年前と同じような黒のテーラードスーツをメーンにしたコレクションはファッションジャーナリストの不評を買ったものの、アメリカ女性に受け入れられた。アメリカでは実用的な服が求められていたのである。1971年、ココ・シャネル、ホテル・リッツの一室で静かに息を引き取る。
1969年リーベルマン・ウェルシェリー社により、シャネル製品の日本での輸入・販売を開始。
1975年には口紅を発表したものの、ココの死後、やや低迷していたブランドを救ったのが、カール・ラガーフェルドである。1938年、ドイツのハンブルグに生まれ、16歳でIWS(国際羊毛事務局、ウールマークを認定しているところ)のコンクール、コート部門で最優秀賞を受賞。10代でピエール・バルマンで4年働き、その後ジャン・パトゥに移り、21歳でアート・ディレクターに就任。63年に独立以降、自身のブランドやフェンディでデザイナーを務めていた。1983年からシャネルのオートクチュール、84年にはプレタポルテも担当。ラガーフェルド入社後、シャネルの売上は20%伸びたといわれている。ブランドのアイデンティティを生かしながら、独自の創造性を加えた。現在では、パリ・カンボン通り31番地で、彼のデッサンをもとに、華麗な作品が熟練した職人たちによって作られている。
1980年、日本でシャネル株式会社設立。商品はすべてフランスで製造され、ライセンスは行っていない。1987年には時計もコレクションに加え、香水は84年に「シャネルのエスプリ」のキャッチフレーズで、「ココ」を発売した後、96年に「アリュール」、2000年には「ココ・マドモアゼル」を発売。2002年秋(日本国内は2003年春)には、フレグランス業界最大の話題である「チャンス」を発売する。このフレグランスは、20代、30代前半の若い女性をターゲットに開発され、ボトルもシャネルのフレグランスとしては初めて円形のデザインを採用した。現在シャネルのメイクアップ製品をクリエートするのはドミニク・モンクルトワ。ココに才能を見込まれ、69年入社。80年以後はハイディ・モラヴェッツとのコラボレートで数々の製品を生み出している。ちなみに「メイクに光を」とのココの提案を受け、シャネルは光・ルミエールという言葉を製品名に付ける独占権をもっている。
1994年シャネルブティック本店(銀座並木通り)、1996年心斎橋店、2001年表参道店オープン。2002年、シャネル社はフランスの伝統的なクチュールメゾン5社を買収。コスチュームジュエリーの「デリュ」、羽根・カメリアの「ルマリエ」、刺しゅうの「ルサージュ」、靴の「マサロ」、帽子の「ミッシェル」で、これらを集結させてカール・ラガーフェルドは「サテライト・ラブ」と命名。このラインが2003秋から日本でもスタートし、銀座と心斎橋で発売される。
2004年12月4日、銀座3丁目に銀座シャネルビル(旧ワーナーブラザース・ストア)に旗艦店をオープン。2003年7月に店舗と本社機能を兼ねた新ビルを着工。ビルのデザインはニューヨークの建築家、ピーター・マリノが手がけ、高さ56メートルの10階建て。外観には発光ダイオード、ステンレススチール、特殊なクリスタルグラスを散りばめ、縦横に光沢を放ち、ブランドを象徴するツイードを模したものとなる。建物は全10フロアで、1-2階がブティック、3階にV.I.P.サロン。4階は各種イベントを開催する多目的ホールで、5-9階がオフィスフロア。10階にアラン・デュカスのレストラン「ベージュ・東京」。地下が駐車場。レストラン「ベージュ・東京」はシャネル日本法人とアラン・デュカス率いるグループ・アラン・デュカス社の合弁会社。ココ・シャネルが愛したベージュ色を基調に洗練された内装に椅子はツイード。スタッフの制服は黒のニットにスニーカー(夜はエナメル靴)で、カール・ラガーフェルドが手掛けた。
オープンを記念して発売されるコレクション「エフェメール・ド・ギンザ」はパールでかたどられたシャネルの「C」のロゴマークが付いたツイードジャケット・アンサンブルや、同シリーズのパール付きキルティング・バッグなどで、「Chanel Ginza 2004」の文字が記されている。ブティック限定でオリジナルのツイードジャケットやアクセサリーがデザインされるのは、シャネル創業94年の歴史を通じて今回が初めて。そのほかにも財布や手帳など、Ginza」のロゴ入りの限定アイテムがラインナップされる。1階奥にはシャネルの香水やコスメ、スキンケアがフルラインでそろうビューティスペース「フレグランス・バー」と「カラー・バー」もあり、3人のビューティ・アナリストが常駐。
オープンを記念して、これまでフランスでしか取り扱いのなかった香水「ガーデニア」「ボワ デ ジル」「キュイール ドゥ ルシー」(各75ml)がセットになったコフレ(39,900円)を発売。2005年1月には同じく日本未発売の香水「シャネル No.22」も展開される。シャネルのアイコン、白と黒のバイカラー・ツイードをモチーフにした、新色アイシャドウ「ツィード マドモワゼル」(7,350円)も発売。
シャネル(英、仏、独語など) コレクションやジュエリー、アイウェア、コスメなどのコーナーに分かれている。
CHAUMET ショーメ France
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歴史・解説
1780年、マリー・エティエンヌ・ニトが宝石店を創立。まだ若いニトの店の前である日、ナポレオンの馬車馬が突然暴れだし、ニトは必死に手綱をとりナポレオンを救う。これが縁となり、ナポレオンはニトの宝石技術に魅了され、戴冠式の宝石をはじめ次々と宝飾品を注文。1802年、ショーメはナポレオン御用達のジュエラーとなり、同年ニトは皇帝の剣を製作。フランス王室に伝わる140カラットのダイヤモンド「レジャン」をセットした。以降、とくにショーメのティアラ技術は高く評価され、ヨーローッパ全土の王侯貴族に愛される。
1848年、ロンドン支店を開きヴィクトリア女王御用達ジュエラーとなる。
1907年、7代目ジョセフ・ショーメのとき、現在のショーメの名前が付けられ、パリのヴァンドーム広場12番地に店を構える。本店にはル・グラン・サロンなどもあり、ルイ16世時代に建てたられた建物は歴史的建造物にも指定されている。」
ふっくらしたボリューム感のある「アノー」コレクションやフレンチテーストを取り入れた「リアン」などが特徴的なデザイン。数々の時計コレクションも誕生させ、特に有名なのがカトリーヌ・ドヌーブも愛した「ケイシスコレクション」。2002年には表参道と銀座に直営店を同時にオープン。
2004年よりメンズラインスタート。最初のテーマは「ダンディ」で、時計、カフスボタン、指輪、マフラーなどを展開。
Chloe クロエ France
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解説・歴史
クロエの創業は1952年、2人のパリ市民、Jacques LenoirとGaby Aghionによって設立された。Gaby Aghionはアレキサンドリア生まれのエジプトの貴族だったが、第2次世界大戦中にカイロから逃亡。パリに行き着いた。
ブランドの名前はロンゴスの古代小説「ダフニスとクロエにまつわる牧人風のレスボスの物語」を原作とした、バレエ音楽「ダフニスとクロエ」が由来。この作品は、ダフニスとクロエの恋物語で、主人公であるクロエの優雅な踊りからインスピレーションを得たといわれている。
クロエの高級プレタポルテはロマンチックで、かつシックであり50年代のフレンチ・ファッションを代表するものとして明確な地位を確立した。1963年には、創業家がヘッドデザイナーとしてKarl Lagerfeld(カール・ラガーフェルド)を任命。ラガーフェルトが作成したフローラルの花柄プリントやシェイプされたデザインはクロエの名を益々高めた。1970年にはクロエ社とコロネット商会が、ライセンス契約を結び、国内での展開がスタート。1974年に導入された、フレグランスはベストセラーとなった。
1985年には、スイスの高級ラグジュアリーグループ、Richemont(リッチモント、またはリシュモン。カルティエ、ヴァン クリーフ&アーペル、ピアジュ、ボームメルシー、モンブラン、ジャガー・ルクルト、アルフレッド・ダンヒルを持つLVMHに対抗するグループ)が、AghionとLenoirからクロエを買収。80年代の終わりには、国際市場拡張のために、Martine Sitbon(マルティーヌ・シットボン)がデザイナーに就任。クロエに彼女らしいユニークさと現代のビジョンをもたらした。
1992年にはラガーフェルドが復帰。5年にわたってクロエを再構築し、ネオ・クラシックドレスやヒッピー風のレースでクロエはさらに成長。そして、1997年、26歳のステラ・マッカートニー(Stella McCartney)がクリエイティブ・ディレクターに就任する。ステラはビートルズのポール・マッカートニーの娘でありセント・マーティン出身。ステラの若くて元気なセンスは再度クロエに新しい感性を注ぎ込んだ。
クラシックでロマンチックなクロエにストリート感覚を持ち込み、テイラードスーツではイギリスのビスポーク感覚を取り入れ、彼女独特のキャミソールで女性らしさを表現。ローライズ・ジーンズにペアとなるブラウスとテイラードスーツを組み合わせるなど新しい感覚を巧みに表現した。しかし、父親譲りの菜食主義者で環境保護に熱心な彼女は一説によると毛皮の使用などで会社ともめ、グッチグループに引き抜かれる形でデザイナーを降板。
2001年4月、4年間ステラのパートナーであった、Phoebe Philo(フィービー・フィロー)が、クリエイティブディレクターに就任。モデルのようなスタイルを持つフィービーは1973年にパリで生まれ、ロンドン郊外で成長。1993年公立高校を経て、セントマーティン入学。1996年、卒業を1年前にして、クロエに取り組むためパリに招待された。この期間に、クロエは従来の女性らしいロマンチックさに加え、若くセクシーな感性を取り入れた。今、最も美しいデザイナーである。彼女はさらなる再構築をクロエに施し、2001
秋冬コレクションから、カジュアル・ライン「See by Chloe」(シー・バイ・クロエ)を開始し、アクセサリーやスイムウエアといった新しいカテゴリーもスタートした。
2005年秋冬コレクションはフィロが妊娠していたこともありデザインチームが手がける。2004秋にシルベラードバッグがわずか数週間で6000個完売し、シエナ・ミラーも購入。2005年、パディントンバッグが大ヒット。
2006年1月、フィービー・フィロが家族とより多くの時間を過ごしたいという「個人的な理由」で辞任。後継者は発表されず、3月の2006-2007秋冬コレクションは、社内のデザインチームによってクリエイトされる。フィロが出産・育児休暇中だった時、デザインチーム(Sara Jowett、Natasha Lee、Valeska Duetsch、Adrian Appiolaza、Yvan Mispelaere)が彼女に代わってデザインしたことがある。
国内ではライセンス品も含めて、コロネット商会が手がけていたわけですが、パリコレでの評価と国内での展開が合っていませんでした。パリコレではステラ、フィービー以後、キャミソールドレスやストリート感覚を取り入れ若々しくリニューアルしているのに対し、コロネット商会では、青山のショップに一歩足を踏み入れれば、そこは50年代のシャネルを思わせる店作り。若いやつは入ってくるなといわんばかり。それとも、若いのはこれぐらいの価格は買わないとでも思ってるんでしょうか?こういうのを見ると、ライセンス展開の欠点を目の当たりにするような気がしました。まだ、カネボウが展開しているインナーのライセンス品のほうがいいような感じです。
しかし、2002年、コロネット商会は、伊藤忠の支援を得て経営再建に入り、2003年春夏からは、本国リシュモンの日本法人、リシュモンジャパンによる展開が開始され、同時に「シー・バイ・クロエ」もスタートしました。これに伴い、日本の旗艦店であった青山店もクローズされました。今後、ブランドのリニューアルによるさらなる発展が期待できます。また、新たな旗艦店も計画されています。2004年3月にはラフォーレ原宿1階に「シー・バイ・クロエ」のショップがオープン。2005年9月大阪・心斎橋そごうにクロエ初のアクセサリーショップがオープン。2006年1月14日、青山に旗艦店がオープン。
Christian Dior クリスチャン・ディオール France
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歴史・解説
クリスチャン・ディオールは1905年、フランスのノルマンディーで裕福な実業家の家に生まれる。外交官を志して、政治学院に学ぶが、在学中に当時、台頭していたシュールレアリスムに魅せられ、友人と画廊を開設。ダリやコクトーなど多くの芸術家と親交を深めるが、30年代の恐慌に見舞われ失職。このとき、友人からデッサンを習い、1938年、ロゲール・ピゲに見込まれてモード界に入る。後に、ルシアン・ルロンのメゾンへ移るが、46年、マルセル・ブサックと出会い、12月にクリスチャン・ディオール・オートクチュール・メゾンが誕生した。ブサックは、繊維業界で成功した大富豪で、当時「コットン王」と呼ばれていた。ディオールはプサックに「エレガントな女性と最上級な女性のためのクチュリエになりたい」と語ったと伝えられている。この時、ディオールがプサックに会いに行く途中、ディオールは道に落ちていた星型の馬車の部品につまずく。それを拾って、ポケットに入れたままメゾン設立の夢を語った。以後、星はディオールののラッキーモチーフとなる。
47年、ディオールは初のコレクションで「コロール(花冠)ライン」を発表。これを、ハーパース・バザール誌の編集長カーメル・スノウが「ニュー・ルック」と呼び、この名前が広まる。ニュールックは、丸みを帯びた肩に胸、ウエストは細く絞られ、スカートは布を贅沢に使い(戦後すぐでモノがあまりない時代に)、ペチコートで膨らませたラインが踵まで伸びる女性らしさを引き出した華麗なスタイルだった。シャネルによって機能的な美しさがアピールされた後に、ディオールはフェミニンな美しさを改めて強調したのである。
また、1948年にはアメリカにおいてライセンス生産を開始。アメリカに「クリスチャン・ディオール・ニューヨーク」という別会社を作り、そこがニューヨークの靴下会社プレスティージ社と契約し「クリスチャン・ディオール」ブランドのナイロンストッキングの製造を許可した。これが、ブランドによるライセンス生産のはしりといわれている。
後にライセンスはネクタイ、下着、ソックス、アクセサリーと拡大し、80年代後半にはディオールは200を越すライセンスを抱えていた。また、同時にこの方式を婦人服にも応用しオートクチュールだけでなく、アメリカの既製服業者と組んで、ディオールのデザインによるドレスを高級既製服、プレタポルテとしてアメリカでの製造・販売を開始した。オートクチュールからプレタポルテへと拡大することで、ディオールはファッションを芸術だけでなくビジネスとしても成功させたのである。
続いて、48年にはジグザグライン、50年パーティカルライン、51年オーバル、52年シニュアス、53年チューリップ、54年Hライン、55年Aライン、56年アローラインと次々に発表し、センセーショナルを起こした。このシーズンごとに新しいラインを名づけて発表するというのもディオールがはじめたことである。これはマスコミにも受け入れやすく、一般大衆にもわかりやすくするためで、ディオールは戦後のファッション界が一部のお金持ちのためではなく、一般大衆の手にゆだねられることをこの時点で理解していたのである。1955年8月3日、ソルボンヌ大学大講堂でデザイナーとして初の講演を行う。ここで、ディオールは自らの仕事を「伝統を新しさの中に生かすこと」と語る。しかし、1957年10月24日ディオールは53歳の若さで心臓発作により急逝する。メゾンは若干21歳のイブ・サンローランが引き継ぐことになった。これにより、デザイナーの死後もメゾンは残り、ブランドを引き継ぐというビジネスモデルが成立することとなった。
サンローランは、確立されたメゾンの高度な技術に独創性を加え、初めてのコレクションでトラベーズ(台形)ラインを発表。多くの顧客に支持されたが、その後のホブル・スカート、60年秋冬の「ビートライン」は不評で、サンローランがアルジェリア戦争に徴兵されたのを機に、オーナーであるブサックは彼を解雇。マルク・ボアンをデザイナーに起用した。
マルク・ボアンは当時34歳。ジャン・パトゥのアシスタントだったときにディオールのロンドン店のデザイナーとして引き抜かれ、61年「スリムルック」、67年「サファリルック」、70年「マキシルック」で、従来からの顧客の支持を受け、デ・ドヌール賞も2回受賞した。
しかし、革新性にかけたデザインは徐々に衰退し、1968年には48年に設立された香水部門である「パルファン・クリスチャン・ディオール」がモエ・へネシー社に買収され、78年には親会社であるマルセル・ブサック・グループが倒産。ブサックは流通大手のウィロ兄弟によって救済され、アガッシュ=ウィログループに入るが、80年ブサックの死後、81年には公的救済(この時期のフランスは社会党政権)を求める事態となった。
1984年、ここにベルナール・アルノーが登場する。彼はフランスの投資銀行ラザール・フレールと組み、ついにブサック・グループを買収し、1985年4月1日、傘下のクリスチャン・ディオールを手に入れ、自らが社長となった。そして、1989年5月、次のデザイナーとして、イタリア人のジャンフランコ・フェレをオートクチュールとレディス・プレタポルテ、アクセサリーの責任者に据えた。フェレは1944年、イタリアに生まれ、ミラノ工科大学建築科を卒業。一部にはフランスのブランドがイタリア人をデザイナーに起用したことへの反発もあったが、89年7月のフェレによる初めてのコレクションである89秋冬オートクチュールコレクションにおいて、「ニュールック」をモチーフにしたデザインを発表し、デ・ドール賞を受賞。不安を吹き飛ばす。
さらにアルノーはライセンス生産も絞り込んだ。90年アルノーはLVMHの社長に就任。そして、96年ディオールは次のデザイナーとして、ジョン・ガリアーノを指名することとなる。当時、ガリアーノは同じLVMHグループの「ジバンシー」のデザイナーだった。彼はこのとき36歳、1960年ジブラルタル生まれのイギリス人で、6歳のときに両親とともに渡英。義務教育終了後、セント・マーチンスに入り、テキスタイルを学んだ後、ファッション科に移籍。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を呼んだことでブラウンズと5年間の契約を結ぶ。デビュー当初はジャケットをボトムに使った「さかさまの服」など、アヴァンギャルドさが話題を集めた。一方で、カッティングとバイアスの確かさにも定評があり、古典や世界中の衣装から、そのときのトレンドアイテムを巧みに自分のコレクションに取り込む能力が高く評価されていた。
ディオールに移る前に2シーズンだけジバンシーのデザイナーを勤め、ついに97年春夏、初のディオールコレクションを発表。ちょうど、ディオールが「ニュールック」を発表してから50年にあたり、ガリアーノは現代版ニュールックを発表。丸い肩で胸を強調し、パッドを入れた腰に細いウエスト。スカートがミニになったのが、現代らしさを表している。また、このときのテーマは「マサイ族」であり、後にこれが香水「ジャドール」につながっていく。
2000年春夏コレクションでは、ボロ布ドレスを発表。コレクションではモデル一人につき、1体のアイテムしか使用しない(モデルは着替えずに、着るのは1着のみ)という贅沢なコレクションを開催し、オートクチュール、プレタともに、現在のトレンドをリードする一人である。メンズは、ディオール・ムッシュのチーフデザイナー、パトリック・ラヴォワを経て、今はイブ・サンローラン・リヴ・ゴーシュから来たエディ・スリマンが「ディオール・オム」を担当している。
エディ・スリマン(Hedi Slimane)は1968年パリ生まれ。1997年、イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ オムのアーティスティック・ディレクターに抜擢され、2001-2002秋冬コレクションより、ディオール・オムのクリエイティブ・ディレクターを務める。2003年7月3年間の契約延長をし、メンズフレグランスのクリエイティブ・ディレクターも兼任する。日本でディオール・オムを扱っているのは、銀座、表参道、神戸、新宿伊勢丹、名古屋松坂屋、岩田屋の6店。
日本国内では、1953年に大丸と提携してファッションショーを開催して進出。ちなみにこのショーは日本で始めて行われたファッションショーともいわれている。その後、カネボウが独占販売権を獲得。長くライセンス生産を行っていたが、LVMH社のライセンスを絞る方針により、97年2月7日ディオールはカネボウとの契約を同年4月30日に解消すると発表。自ら輸入品を販売することとなり、97年秋冬をもってライセンス生産は終了した。当時、カネボウのディオール関連売上は500億円に上るといわれており、紳士・婦人服だけでなく、ストッキングやソックス、ベビー服、本国にはないゴルフウェアまで多岐にわたっていた。これを失ったカネボウは5日後の2月12日、ランバンとライセンス契約し、ストッキングやインナーに関してはクロエと契約した(クロエは、LVMHとならぶブランドグループ、リシュモン系列)。ちなみにこのとき、ディオールのライセンス品のデザインをしていたのは、パリコレにも参加していたコウジ・ニホンマツ(二本松幸司)。カネボウは彼をそのまま、ランバンのライセンスにおけるデザイナーにスライドさせた。
クリスチャン・ディオール(ジャポン社)は97年、銀座・並木通りに旗艦店をオープン。ガリアーノも来日した。余談ですが、私はこのときに、ガリアーノとお会いしたんですが、身近で見るとあまりカリスマ性も感じずに、普通の陽気な外人のお兄さんって感じでした。私と一緒にオープンニングパーティに行ったある人は私に、ガリアーノを指差しながら、「あのラフな外人は誰だ?」と聞いてきたぐらいです。ガリアーノとは気づかなかったらしいです。
2003年3月6日、ディオール・オム初のショップが伊勢丹新宿にオープン。同年6月革グッズの新シリーズ「ハードコア・ディオール」を発表。バッグの素材は柔らかいシルクジャージーながら、金具で全体を引き締めた新ライン。
2003年12月7日には青山に銀座を上回るLVMHの拠点とも呼べる、ブティックをオープン。建設中から、それを覆うボードでシーズンごとのコレクションを発表し存在感を発揮。
これまでに後藤久美子、長谷川理恵、宮沢リエらがディオールの最新ファッションをまとってこのボードに登場した。屋上にはディオールのラッキーモチーフである「星」が飾られる。地上4階、地下1階にメンズ(ディオール・オム)、レディス、バッグ、シューズ、ファインジュエリーまでそろうフルラインショップ。地下1階がディオール・オム。1階にアクセサリー、革小物。2階に婦人服、ジュエリーにVIPルーム。3階が世界最大面積の化粧品売り場。初めて、エステティックやネイルカラーのコーナーも設ける。化粧品売り場は約220平方メートルで、ファッションショーの楽屋裏をイメージした内装。エステティックやメーキャップ、ネイルカラーはいずれも有料で、ファッションショーのイメージを生かした化粧やマニキュアなどをしてもらえる。口紅やマニキュアを組み合わせた「表参道ニュールック」(1万3200円)などの日本限定品やフレグランス「クリス1947」も先行発売する。4階がイベントスペース。
表参道店限定バッグは「Dior Star」。カラフルなプリントにCDのロゴ、モチーフの星が付けられたもの。同時に同モチーフのキーケース、財布も先行発売。また、同時に日本限定発売のリング「Star」も500個限定で発売される。その他、ディオール・オムでも1点モノの限定品が発売される予定。また、新作のピンクロゴライン「ガーリー」も手に入る。
2004年10月24日には銀座晴海通り店がオープン。近藤書店などが入居していたビルの地下1階から地上6階に入居。設計は乾久美子。5-6階には展示スペース、「ディオール・ミュージアム」も。総面積は約1380平方メートル。表参道の世界最大店(1485平方メートル)に次ぐ規模になり、新店は高級既製服やバッグ、小物類、高級宝飾品、紳士服「ディオールオム」の専用売り場も設置。銀座店オープン記念品は、「ゴルメット・ドゥ・ディオール」からピンクゴールドの限定リングを発売。限定150個で、シリアルナンバーとGINZAの刻印入り。並木通り店は閉店する。
2005年4月28日、大阪・心斎橋に西日本最大級の旗艦店、心斎橋店をオープン。地上2階地下1階で御堂筋に面しており、店の前面にはディオール本人の時代から店内の椅子などに用いられたカナージュ模様が施され、店内には、顧客専用の部屋も用意。オープン記念の限定品「レディ・ディオール」は1950年代のパリの風景や女性の顔がプリントされたもので、大(15万5400円)、小(13万4400円)2種類、計130個を販売する。
日本でのディオールの売上は全世界の15%を占めており、ディオールでは2007年までに販売を2倍にすることを計画している。
Christian Lacroix クリスチャン ラクロア France
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歴史・解説
デザイナーのクリスチャン ラクロア(Christian Marie Marc Lacroix)は、1951年5月16日フランス、プロヴァンス地方のアルルに生まれ、ソルボンヌ大学で美術史を専攻後、エルメス入社。アクセサリーデザイナーを経て、1974年、Francoise Rosenthielと結婚。1980年ギ・ポーランの助手としてビブロス入社。1981年ジャン・パトゥのオートクチュールのチーフデザイナーに抜擢される。
1987年に独立して、自身のメゾン「クリスチャン ラクロア」を設立。初のオートクチュールコレクションを発表。同年、LVMH(当時は、アガシュ・ウィロー・グループ)のバックアップにより自らのメゾンをフォーブル・サントーレに構え、7月のオートクチュールでデ・ドール賞(金の指貫)を受賞。1988年、二回目のデ・ドール賞受賞。1989年イタリアのジェニーからプレタポルテにも進出。
90年初の香水「セ・ラ・ヴィ」発表。1995年カジュアルライン「BAZAR」開始。96年「ジーンズ・ド・クリスチャン ラクロア」をスタート。
オートクチュールの寵児として一世を風靡したが、香水の失敗以後、輝きを失いつつあるとの評価もあった。
2002年フランス最高の勲章レジオン・ド・ヌールを受賞。2003年、2005年4月に一新されたエールフランスの制服デザインを担当。乗務員や地上職員ら17職種、約3万6000人の制服を手がけた。2004年、マドンナのワールドツアーの衣装をデザイン。2004年春夏から、メンズラインを開始。Sadevグループによって生産され、フランスの高級専門店およびデパートと、中東でスーツ、シャツ、ニットなどを販売。2003年春夏から2006年春夏までエミリオ・プッチのアーティスティック・ディレクターに就任。その後、フランスの高速鉄道TGV(Tres Grande Vitesse)の内装をデザイン。2004年にはラルース辞書百年版の装丁も手がける。表紙と各アルファベットのトップページのデザインを担当した。
2005年1月、ラクロアのオートクチュール・コレクション終了後、LVMHは米国第2位の免税店グループ、Falicグループにクリスチャン ラクロワを売却すると発表。Falicグループは、ファッションとコスメ分野への進出を明らかにしており、2003年12月にはLVMHからコスメブランド「Hard Candy」と「Urban Decay」を買収したことがあった。
日本では三共生興によって展開され、2001年代官山に日本初のフラッグシップショップをオープン。2005年3月、銀座のZOE GINZAに旗艦店をオープン(代官山は閉店)。
COACH コーチ U.S.A
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解説・歴史
コーチは1941年、マイルス・カーン、リリアン・カーン夫妻と、その仲間という家族経営の皮革小物工房として米ニューヨーク・マンハッタンのロフトでスタートした。夫妻は、使い込むほど手になじみ、味の出る野球のグローブを参考にグローブの丈夫さ、美しさに着目。皮そのものの持ち味を生かした製品を考え、第一号バッグが60年代初期に誕生。化学薬品でコーティングしていない天然皮革は、耐久性、機能性に優れ、一つひとつ手作業で作られている。その後、皮革小物から、バッグを中心にしてファッション分野へ進出。
62年、前衛的なデザイナーとして知られ映画「王様と私」の衣装やIBMのユニフォームをデザインしたボニー・カシンを迎え入れ、彼女は買い物袋から発案したカジュアルバッグ「カシン・キャリー」を発表。「バゲット・バッグ」「ダッフル・サック」もヒットする。現在のバッグにも使われているクリップ式の金具や「ドッグリーシュ」の金具も彼女の発案。その後、76年には、海外にもショップを開いた。
さらなる、転機が訪れたのは85年。サラ・リー・コーポレーションに吸収合併されたことによる。日本進出は88年。三越との提携により三越の子会社PDCにより、同年9月に横浜三越、続いて日本橋三越店がオープン。さらに、96年、トミー・ヒルフィガーでデザインやマーケティングを担当していたリード・クラッコフ(現社長兼エグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクター)を、エグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターに迎え、ファッション面を強化した。
リード・クラッコフ(Reed Krakoff)は、ボストン生まれ。画家を目指し、NYのパーソンズ・スクール・オブ・デザインに通い、ラルフ・ローレン、トミー・ヒルフィガーを経て96年12月コーチ入社。商品デザインや全世界のブランドイメージの統一を行い、コーチを「ライフスタイル・アクセサリー・ブランド」へと発展させた。2001年、CFDA(アメリカ・ファッションデザイナー評議会)のアクセサリー部門で最優秀賞を受賞。
98年春からは「ネオ・コレクション」を発売。高品質レザーに代わる新素材を開発し、実用的で体になじむことを目的にデザインされた。98年9月からは、スイスの高級時計メーカー、モバード・グループとライセンス契約した「ウオッチ・コレクション」を発売。スイス製の高性能ムーブメントと、コーチならではの付け心地の良い革ストラップやスタイリッシュなケース、ブレスレットが特徴。2001年からロゴ゙模様をあしらった「シグネチャー・コレクション」スタート。
2001年8月、米コーチは折半出資により住友商事と合弁でコーチ・ジャパンを設立。新会社は、三越子会社から店舗を引き継ぎ、2002年3月時点で79店舗を展開。1年間に、約100店舗まで拡大するとした。2002年5月には旗艦店である銀座店を開店。初上陸アイテムもそろえて、日本最大のショップとしてオープンした。2003年4月4日関西初の路面店を心斎橋に、4月16日第2旗艦店である渋谷店、4月25日六本木ヒルズ店オープン。2004年4月16日、第3の旗艦店である丸の内店オープン。2005年4月8日、マンディ・ムーアがテープカットに駆けつけた名古屋栄店オープン。2005秋、赤ちゃん用の「ベビー・コレクション」発売。パステルカラーのカシミア毛布やテディベア形の写真立て、帽子やミトンなどを旗艦店のみで販売している。
私も仕事用には、コーチのバッグを使っているのですが、エルメスとかと違って、雑に扱ってもOKというイメージですね、丈夫ですし。唯一、壊れそうなのが金具部分ですが、私も経験がありますけど、コーチショップならばどの店でも無料で修理を引き受けてくれます。ついでにローションサービスもしてくれるので、暇なときにはショップによるのもいいかも。
Cynthia Rowley シンシア・ローリー U.S.A.
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解説・歴史
シンシア・ローリー(Cynthia Rowley)は、アメリカ、イリノイ州バーリントン生まれ。アーティスト両親の影響を受け、7歳の時、初めてドレスをデザイン。シカゴ芸術学院(Art of Institute of Chicago)在学中に地下鉄に乗っていた彼女は、自分が着ていたジャケットに目を留めた百貨店、マーシャル・フィールズのバイヤーに「その服はどこで売られているのか」と尋ねられた。それは彼女が自分自身で作ったものであり、そのように答えると、マーシャル・フィールズは即座にシンシア・ローリーの服を売り始めたという、デビュー伝説を持つ。
1983年、芸術学院を卒業したシンシアは、祖母から贈られた3,000ドルを手に、N.Y.へ向かい、ハイエンドショップへ8つのコレクションを販売。1週間後、彼女は30,000ドルを手にしていた。この資金を元にビジネスをはじめ、初のショーを開催。1988年、CYNTHIA ROWLEY INC.を設立。7番街にオフィスを移転。1994年、ニューヨークで始めての直営店をオープン。1995年、CFDA(Council of Fashion Designer's of America)の新人賞であるペリー・エリス賞を受賞。1995年、シカゴに2号店をオープン。1995年銀座店オープン(現在はクローズ)。1996年、ロサンゼルスに米国内で3店目となる直営店をオープン。1996年、Michaelangelo Shoe Awardを受賞。同年、結婚。1997年、Annual MichaelAward'sの婦人服デザイナー部門で大賞に選ばれる。1999年、日本にてコスメティックを発売(カネボウの子会社、エキップから発売。米国では2002年春から開始)。
1999年10月、友人でもあるN.Y.タイムズのエディター、アイリー・ ローゼンズウィーグと少女のための本「カッコイイ女の子になるための、魔法の絵本―スウェル・ガール(Swll)」刊行。
2001年春夏より、日本にてスリープウェア・インティメント発表。日本にて2001年秋冬よりジュエリー・ヘアアクセサリー発表。2002年「Swell」の続編「Home Swell Home」
発売、2003年には、「Swell Holiday」発売。このシーリーズは続いて「Swell Dressed Party」が予定されている。
国内ではグンゼ産業(現・GSIクレオス)によって展開されていたが、2002年秋冬からはイトキンが引き継いでいる。また、手袋やシューズなど、ライセンス先も多岐に渡り、とくにコスメはウェアよりも有名かもしれない。
現在では、レディスウェアだけでなく、メンズウェア、シューズ、バッグ、レザーグッズ、傘、時計、アイウェア、テーブルクロスにまでコレクションは拡大。
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